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停車中の作業車、その横を通り過ぎる若い女性

荒木経惟とストリートフォト|通過者ではなく生活者としての視線

日本を代表する写真家といえば間違いなく荒木経惟である。「私写真」やポートレートのイメージが強いが森山大道とは別のアプローチのストリートフォトもまた傑出している。 森山の視線が「通過者」のものだとすれば、荒木の視線は「生活者」のものに近い。ストリートフォトでも「センチメンタル」を感じさせるが、「センチメンタルそのもの」ではなくそれを俯瞰して見ている。これは彼の全ての写真に共通するように思う。湿度のある感情をフィルムに焼き付けることで俯瞰しているのかもしれない。 例えば1990年代に撮影された『東京物語』には、人物が不在の街並みのカットが多い。人がいない「物語」は「生活者」としての荒木の視点によって推進力を得ている。それは「センチメンタルそのもの」を捉えるのではなく、それを引いた視線で捉えているからこそ可能になっているだろう。荒木のストリートフォトには、「偶然性」と共に「関係性」が写っている。東京という街を「対象」としてではなく「一部」として写し続けた荒木経惟。それが彼のストリートフォトの大きな特徴と言えるだろう。 彼はその独特の風貌で、かつてはメディアにも多数出演していたこともあり、特に40代より上の世代では認知度が高いと同時に写真家としての評価を見誤っている人も多いように思う。私は彼が森山大道と並び日本を、世界を代表する写真家であることに疑念の余地はないと考える。もし写真家を志していて、彼の作品をしっかりと見たことのない人がいれば直ちに見るべきだ、と老婆心ながらお伝えしておきたい。

荒木経惟とストリートフォト|通過者ではなく生活者としての視線

日本を代表する写真家といえば間違いなく荒木経惟である。「私写真」やポートレートのイメージが強いが森山大道とは別のアプローチのストリートフォトもまた傑出している。 森山の視線が「通過者」のものだとすれば、荒木の視線は「生活者」のものに近い。ストリートフォトでも「センチメンタル」を感じさせるが、「センチメンタルそのもの」ではなくそれを俯瞰して見ている。これは彼の全ての写真に共通するように思う。湿度のある感情をフィルムに焼き付けることで俯瞰しているのかもしれない。 例えば1990年代に撮影された『東京物語』には、人物が不在の街並みのカットが多い。人がいない「物語」は「生活者」としての荒木の視点によって推進力を得ている。それは「センチメンタルそのもの」を捉えるのではなく、それを引いた視線で捉えているからこそ可能になっているだろう。荒木のストリートフォトには、「偶然性」と共に「関係性」が写っている。東京という街を「対象」としてではなく「一部」として写し続けた荒木経惟。それが彼のストリートフォトの大きな特徴と言えるだろう。 彼はその独特の風貌で、かつてはメディアにも多数出演していたこともあり、特に40代より上の世代では認知度が高いと同時に写真家としての評価を見誤っている人も多いように思う。私は彼が森山大道と並び日本を、世界を代表する写真家であることに疑念の余地はないと考える。もし写真家を志していて、彼の作品をしっかりと見たことのない人がいれば直ちに見るべきだ、と老婆心ながらお伝えしておきたい。

墓地の先には高層マンション

写真がブレる時

写真を撮る時にはまずブレないようにした方が良いだろう。 ブレていない写真の方が「ありのままの視界」に近いと私には感じられるし、それを念頭にシャッターを切るのが一種の作法だとも思う。祈りに作法があるのと同じように、スナップにも作法があるほうが身が引き締まる。 森山大道の「アレ・ブレ・ボケ」は、写真表現に新しい扉を開いた。しかし実際には、彼の写真もほとんどはピントが合っているし、ブレてもいない。 ブレた写真を見返して「悪くないな」と思うこともある。歩きながら咄嗟に切った一枚、思わずカメラを傾けた瞬間のカット。それを否定しない。 写真において「ブレ」は、“味”や“演出”になりやすい。それは“良くも悪くも”だろう。少なくとも今の自分はなるべくブレずに撮るという姿勢が世界に対峙する姿勢として自然に感じられる。 その上で、偶然にブレたカットに気に入るものが見つかれば、それはギフトだと思うのがよい。  

写真がブレる時

写真を撮る時にはまずブレないようにした方が良いだろう。 ブレていない写真の方が「ありのままの視界」に近いと私には感じられるし、それを念頭にシャッターを切るのが一種の作法だとも思う。祈りに作法があるのと同じように、スナップにも作法があるほうが身が引き締まる。 森山大道の「アレ・ブレ・ボケ」は、写真表現に新しい扉を開いた。しかし実際には、彼の写真もほとんどはピントが合っているし、ブレてもいない。 ブレた写真を見返して「悪くないな」と思うこともある。歩きながら咄嗟に切った一枚、思わずカメラを傾けた瞬間のカット。それを否定しない。 写真において「ブレ」は、“味”や“演出”になりやすい。それは“良くも悪くも”だろう。少なくとも今の自分はなるべくブレずに撮るという姿勢が世界に対峙する姿勢として自然に感じられる。 その上で、偶然にブレたカットに気に入るものが見つかれば、それはギフトだと思うのがよい。  

地面のひとところに集められた切れた花

中央線の西側、高円寺の午後

高円寺では、口数は少ないけれど、一緒にいると不思議と退屈しない友人と過ごすような時間が流れる。推進力があるけれど急かさない、肩を組んで一緒に歩いてくれるような街。 駅前のアーケードは昔ながらの佇まいだけれど若者の姿も目立つ。古着屋の前に設置された灰皿には紙たばこの吸い殻が溢れ、店内のBGMが漏れ聞こえる。そこから細い路地へ入ると、スーパーマーケットとその前に並ぶたくさんの自転車。子供用シートの付いたものも多い。部屋着のような格好で買い物に来ている人たちもいるけれど、それでもどこか高円寺らしいファッションにも見える。 この日もいつもの「儀式」として腕時計を着けていた。セイコーのヴィンテージウォッチの中でも特に気に入っている一本「フジツボVFA」と呼ばれるモデル。VFAは「Very Fine Ajusted」の略。クォーツ技術の黎明期に最高クラスの精度を誇った時計だ。フジツボのような特徴的なフォルムはおそらく温度差による時刻のズレを最小限に抑えるための設計だったのだろう。 グラフィティの描かれた店舗のシャッター、首輪に鈴の付いた野良猫、商店街の中に紛れた住家のベランダには所狭しと洗濯物がかけられている。それは「生活」そのものであると同時にこの街の舞台装置。シャッターチャンスを探して注意深く歩くのではなく、街のリズムに合わせて歩を進め、時折出す足を揃え直すかのようにシャッターを切る。 気の置けない街で気の済むまで写真を撮り歩いたら、賑やかになり始めた居酒屋の店頭を横目に帰路に着く。

中央線の西側、高円寺の午後

高円寺では、口数は少ないけれど、一緒にいると不思議と退屈しない友人と過ごすような時間が流れる。推進力があるけれど急かさない、肩を組んで一緒に歩いてくれるような街。 駅前のアーケードは昔ながらの佇まいだけれど若者の姿も目立つ。古着屋の前に設置された灰皿には紙たばこの吸い殻が溢れ、店内のBGMが漏れ聞こえる。そこから細い路地へ入ると、スーパーマーケットとその前に並ぶたくさんの自転車。子供用シートの付いたものも多い。部屋着のような格好で買い物に来ている人たちもいるけれど、それでもどこか高円寺らしいファッションにも見える。 この日もいつもの「儀式」として腕時計を着けていた。セイコーのヴィンテージウォッチの中でも特に気に入っている一本「フジツボVFA」と呼ばれるモデル。VFAは「Very Fine Ajusted」の略。クォーツ技術の黎明期に最高クラスの精度を誇った時計だ。フジツボのような特徴的なフォルムはおそらく温度差による時刻のズレを最小限に抑えるための設計だったのだろう。 グラフィティの描かれた店舗のシャッター、首輪に鈴の付いた野良猫、商店街の中に紛れた住家のベランダには所狭しと洗濯物がかけられている。それは「生活」そのものであると同時にこの街の舞台装置。シャッターチャンスを探して注意深く歩くのではなく、街のリズムに合わせて歩を進め、時折出す足を揃え直すかのようにシャッターを切る。 気の置けない街で気の済むまで写真を撮り歩いたら、賑やかになり始めた居酒屋の店頭を横目に帰路に着く。

人のいない公園にそびえ立つ樹木

街に出る為の装置としてのカメラ

人間はなるべくたくさん歩いた方がいい。歳を取ってきたら尚更だ。しかし、まったくの無目的ではなかなか動き出せない。そんな時はカメラを持つのがいい。 写真を撮るために歩くのではなく、歩くために写真を撮る。そこで撮れた写真だって価値は同じだ。店先に干された布巾、剥がれかけたポスター、積み上げられた土嚢。他の誰が見たいわけでもないものを拾い集めるようにシャッターを切る。記録ですらなく、ほとんど条件反射みたいなもの。それでもその行為は私を街に連れ出してくれる。 カメラがあれば、普段入らない路地にも自然に足が向く。いい写真なんて撮れなくたって構わない。いや、いい写真なんてそもそもない。何も撮らなくたって、それはそれで構わない。 だからカメラを持って歩こう。なんと言っても歩くのは体に良い。

街に出る為の装置としてのカメラ

人間はなるべくたくさん歩いた方がいい。歳を取ってきたら尚更だ。しかし、まったくの無目的ではなかなか動き出せない。そんな時はカメラを持つのがいい。 写真を撮るために歩くのではなく、歩くために写真を撮る。そこで撮れた写真だって価値は同じだ。店先に干された布巾、剥がれかけたポスター、積み上げられた土嚢。他の誰が見たいわけでもないものを拾い集めるようにシャッターを切る。記録ですらなく、ほとんど条件反射みたいなもの。それでもその行為は私を街に連れ出してくれる。 カメラがあれば、普段入らない路地にも自然に足が向く。いい写真なんて撮れなくたって構わない。いや、いい写真なんてそもそもない。何も撮らなくたって、それはそれで構わない。 だからカメラを持って歩こう。なんと言っても歩くのは体に良い。

工事中の壁の前でスマホを弄る女性の後ろ姿

GRとCOOLPIXを比較してみる

ストリートフォトに適したカメラというと、多くの人がまず思い浮かべるのはRICOHのGRシリーズだろう。コンパクトで軽く、片手で撮れる操作性。28mmの画角もストリート向きとされ、長年多くのスナップシューターに愛されている。 一方で、森山大道は長くNikonのCOOLPIXシリーズを使用している。いわゆる“高級”コンデジではない、ごく普通の小型カメラを使い続けているのは興味深い。大きさはGRとそれほど変わらないが大きく異なるのはセンサーサイズ、つまり画質と、単焦点レンズか高倍率ズームレンズかという点である。端的に言えば、彼は画質よりもズームレンズによる構図の選択肢の幅を優先していると言っても良いかもしれない。 大きな一眼レフやミラーレスでストリートフォトを撮ると言う人も少なくない。大きなカメラを使うことのデメリットはそれが街に溶け込まないことだ。慣れない人であれば周囲からの視線も気になる。それは写真に写る空気や距離感に影響を与えるだろう。対して小さなカメラは街に溶け込みやすい。これはストリートフォトにおいて大きなアドバンテージとなる。もう一つ馬鹿にできない要素は大きなカメラの重量は撮影者の体力を奪う。 もちろん、大きなカメラでこそ撮れるものもある。画質の良さや大きなカメラを構えて撮ることによって生まれる創造性というのは間違いなく存在する。実際、私はCOOLPIXとペンタックスの645Dで主に撮影を行なっているが、これはサイズという点では、ほとんど対極にあるカメラだ。。 ただ、ストリートフォトにとって何より重要なカメラの性質はいつでも持っていられること、撮影のチャンスをいかに多く与えてくれるかということだと私は思っている。それはやはり写真において「量のない質はない」からである。 もしあなたがストリートフォトを始めてみようと思い、その為のカメラを選ぼうとしているのなら、まずはこのことを念頭に置くのが良いだろう。

GRとCOOLPIXを比較してみる

ストリートフォトに適したカメラというと、多くの人がまず思い浮かべるのはRICOHのGRシリーズだろう。コンパクトで軽く、片手で撮れる操作性。28mmの画角もストリート向きとされ、長年多くのスナップシューターに愛されている。 一方で、森山大道は長くNikonのCOOLPIXシリーズを使用している。いわゆる“高級”コンデジではない、ごく普通の小型カメラを使い続けているのは興味深い。大きさはGRとそれほど変わらないが大きく異なるのはセンサーサイズ、つまり画質と、単焦点レンズか高倍率ズームレンズかという点である。端的に言えば、彼は画質よりもズームレンズによる構図の選択肢の幅を優先していると言っても良いかもしれない。 大きな一眼レフやミラーレスでストリートフォトを撮ると言う人も少なくない。大きなカメラを使うことのデメリットはそれが街に溶け込まないことだ。慣れない人であれば周囲からの視線も気になる。それは写真に写る空気や距離感に影響を与えるだろう。対して小さなカメラは街に溶け込みやすい。これはストリートフォトにおいて大きなアドバンテージとなる。もう一つ馬鹿にできない要素は大きなカメラの重量は撮影者の体力を奪う。 もちろん、大きなカメラでこそ撮れるものもある。画質の良さや大きなカメラを構えて撮ることによって生まれる創造性というのは間違いなく存在する。実際、私はCOOLPIXとペンタックスの645Dで主に撮影を行なっているが、これはサイズという点では、ほとんど対極にあるカメラだ。。 ただ、ストリートフォトにとって何より重要なカメラの性質はいつでも持っていられること、撮影のチャンスをいかに多く与えてくれるかということだと私は思っている。それはやはり写真において「量のない質はない」からである。 もしあなたがストリートフォトを始めてみようと思い、その為のカメラを選ぼうとしているのなら、まずはこのことを念頭に置くのが良いだろう。

高架下を抜けてくる乗用車、運転する女性

中央線の西側、阿佐ヶ谷の静かな日

中央線の駅の中で、阿佐ヶ谷は幾らかの「静謐」を抱いている。駅前から続く商店街には活気がある。しかしそれは生活に根付いたブルースのように煩くない。 老舗のアジアレストランに花屋、金物店を過ぎるとロースターやジェラテリアといった比較的新しいお店が少しずつ合流してくる。駅から遠くない場所で「住宅地」が感じられるのもこの街の特徴だろう。 ふと目をやると、壁に貼られたポスターが風に吹かれている。「昔風」の色彩を狙っているのだと思うけれど、それは「現在」に既に溶け込んでいる。この日は気温が高く、日の当たるところを歩いているとかなり汗をかいた。コンビニでドリンクを買って高架下のベンチで休憩を取る。 少し話はそれるけれど、街に写真を撮りに出る際、私は必ず腕時計をする。時間を見るためというよりは「儀式」に近い。この日着けていたのはセイコーの「Asie」というシリーズの一本。過去の短い期間に展開されたラインで、凝った造りのステンレスブレスとブルーグレーの文字盤が特徴的なモデル。腕時計の中でも特に1970〜1980年頃のクォーツ時計が好きだ。そこに思想が感じられる。 しばらく休んで再び阿佐ヶ谷の街を撮って歩く。この日は工事中の場所も多かった。私の写真には所謂肉体労働者の姿が割と多いと思う。プロレタリア写真かもしれない。 強い日差しがつくる電線の影、高架下を行く作業車、咲き始めた紫陽花の花。どこにでもあるような風景がこの街にもある。 そういったものこそ撮りそびれてはいけないような気がする。

中央線の西側、阿佐ヶ谷の静かな日

中央線の駅の中で、阿佐ヶ谷は幾らかの「静謐」を抱いている。駅前から続く商店街には活気がある。しかしそれは生活に根付いたブルースのように煩くない。 老舗のアジアレストランに花屋、金物店を過ぎるとロースターやジェラテリアといった比較的新しいお店が少しずつ合流してくる。駅から遠くない場所で「住宅地」が感じられるのもこの街の特徴だろう。 ふと目をやると、壁に貼られたポスターが風に吹かれている。「昔風」の色彩を狙っているのだと思うけれど、それは「現在」に既に溶け込んでいる。この日は気温が高く、日の当たるところを歩いているとかなり汗をかいた。コンビニでドリンクを買って高架下のベンチで休憩を取る。 少し話はそれるけれど、街に写真を撮りに出る際、私は必ず腕時計をする。時間を見るためというよりは「儀式」に近い。この日着けていたのはセイコーの「Asie」というシリーズの一本。過去の短い期間に展開されたラインで、凝った造りのステンレスブレスとブルーグレーの文字盤が特徴的なモデル。腕時計の中でも特に1970〜1980年頃のクォーツ時計が好きだ。そこに思想が感じられる。 しばらく休んで再び阿佐ヶ谷の街を撮って歩く。この日は工事中の場所も多かった。私の写真には所謂肉体労働者の姿が割と多いと思う。プロレタリア写真かもしれない。 強い日差しがつくる電線の影、高架下を行く作業車、咲き始めた紫陽花の花。どこにでもあるような風景がこの街にもある。 そういったものこそ撮りそびれてはいけないような気がする。