写真とは、世界を切り取る行為だ。
それは撮り手の視点によって定まる。
では、その視点はどこから来るのか。
他者と違う視点を持つことが「個性」として語られることがある。
だが、視点の自律とは奇抜さや差異の大きさを競うことではない。
自分の感受性に忠実であること。
何に惹かれ、何を排除するのか。どこに立つのか、見上げるのか、見下ろすのか。
そうした選択のすべてが「視点」となる。
誰もがカメラを持ち、写真が溢れる時代に視点の希少性は失われたように思えるかもしれない。しかし、「自律した視点」を持っているかどうかを写真は残酷なほどに顕在化させる。
曖昧なものに惹かれた時には、その曖昧さに誠実であること≒ファジーを許容することが重要だろう。
世界は二元的に成立していない。
世界はグラデーションで描かれているのだ。
「世の中」や「大衆」に迎合することなく、そのグラデーションを俯瞰する視点こそが「自律した視点」となり、写真の中に現れるのである。