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曇りの日の写真
仕事の撮影の日に曇っていると、「今日は曇ってしまいましたね」と言われることがある。確かに、強い日差しが生むコントラスト、くっきりと伸びる影、明瞭に照らされた肌や建物の輪郭、それらは“写真らしさ”として端的に浮かび上がる。 けれど、曇った日には曇った日なりの魅力がある。それは、太陽が雲に隠れたときにだけ現れる、やわらかな陰影の世界だ。 曇りの日は“世界最大のソフトボックスの下の世界”と言える。被写体はフラットに照らされ、階調は繊細につながっていく。 晴れの日は“光の写真”を撮る日。曇りの日は“空気の写真”を撮る日だ。 光が主張をやめた時、被写体そのものが前に出る。たとえば、壁の質感、濡れたアスファルト、人の肌の柔らかさ。そうした細部が、いつもより静かに、しかし確かに見えてくる。 曇り空の下では、光の方向が曖昧になる。陰影は朧げとなり、被写体はフラットに並ぶ。「好き嫌い」や「主観的なドラマ」が剥ぎ取られ、“そこにある現実”が、淡々と立ち上がる。 曇りの日の写真には、静けさが宿る。 白や黒はやさしく溶け、街はグレースケールの海になる。それは“被写体の集合体”ではなく、“世界そのもの”を写すような感覚かもしれない。 「曇ってしまいましたね」と言われた時、僕は思う。曇りの日にしか見えない世界があることを。 そして曇り空の下で、柔らかな世界にカメラを向けてシャッターを切る。
曇りの日の写真
仕事の撮影の日に曇っていると、「今日は曇ってしまいましたね」と言われることがある。確かに、強い日差しが生むコントラスト、くっきりと伸びる影、明瞭に照らされた肌や建物の輪郭、それらは“写真らしさ”として端的に浮かび上がる。 けれど、曇った日には曇った日なりの魅力がある。それは、太陽が雲に隠れたときにだけ現れる、やわらかな陰影の世界だ。 曇りの日は“世界最大のソフトボックスの下の世界”と言える。被写体はフラットに照らされ、階調は繊細につながっていく。 晴れの日は“光の写真”を撮る日。曇りの日は“空気の写真”を撮る日だ。 光が主張をやめた時、被写体そのものが前に出る。たとえば、壁の質感、濡れたアスファルト、人の肌の柔らかさ。そうした細部が、いつもより静かに、しかし確かに見えてくる。 曇り空の下では、光の方向が曖昧になる。陰影は朧げとなり、被写体はフラットに並ぶ。「好き嫌い」や「主観的なドラマ」が剥ぎ取られ、“そこにある現実”が、淡々と立ち上がる。 曇りの日の写真には、静けさが宿る。 白や黒はやさしく溶け、街はグレースケールの海になる。それは“被写体の集合体”ではなく、“世界そのもの”を写すような感覚かもしれない。 「曇ってしまいましたね」と言われた時、僕は思う。曇りの日にしか見えない世界があることを。 そして曇り空の下で、柔らかな世界にカメラを向けてシャッターを切る。
ノイズと粒子の話
“ノイズ”という言葉には「本来必要としない不要な音、電波、情報」という意味がある。つまり不要なもの、ということである。 しかし写真におけるノイズは実は少し違う。 確かにデジタルで写真を撮る人は、ノイズを「消すべきもの」と捉えている面はある。高感度でザラついた写真は“悪い例”として挙げられ、それは現像ソフトで滑らかに整えられる。 フィルム時代の“粒子” フィルム写真の時代、粒子(グレイン)「味」として認識されていた。ISO400のトライX、1600のネオパン、3200のデルタ。それぞれの粒子のニュアンスを生かした写真が撮られた。 被写体の肌や影の中の粒子は、それが写真“空気”を演出した。 フィルムの粒子は、化学的な結晶がランダムに並ぶことで生まれる。この“偶然の配置”が写真の質感そのものになっていた。この不均一さが、アナログ写真に“空気”を与えるのだ。 デジタルノイズの誤解 デジタルにおけるノイズは、原理が違う。センサー上の電気信号の乱れ、読み出し時の熱、増幅回路の誤差。それらがピクセル単位で微細な“誤差”を生み出す。 しかし、それでもやはりそれはただの「悪者」ではない。 デジタルのセンサーは、元々あまりに正確すぎる。一様で、乱れがなく、滑らか。その結果、陰影の境界が整いすぎてしまう。つまり、「現実のざらつき」が抜け落ちてしまうのだ。 ノイズを少し加えると、不思議と階調のつながりが自然になる。暗部から中間調へのグラデーションが滑らかに見えるのは、細かな乱れがトーンの境界を“ぼかす”からだ。これは、絵画で言うところの“にじみ”に近い。 階調とざらつきの関係 Lightroomなどでデジタルノイズを少し加えると、画面の中の“空気”が変わるのは気のせい、ではない。 完璧にノイズを除去した肌は滑らかだが、どこか“無機的”になる。そこに少し粒を足すと、質感が戻り、呼吸を感じる。 人間の目は、完全に均一なグラデーションを見ると、小さな階調差(特に8bit画像などでの量子化段差)を“段階”として感じ取ってしまう。いわゆる バンディング(banding) 現象だ。 そこで使われるのが**ディザリング(dithering)**という手法。わずかなノイズを加えることで、階調の境界をランダム化し、視覚的に“滑らか”に見せる効果がある。 これは古くから印刷技術や音響処理でも使われてきた。人間の知覚は“完全な直線”よりも、“微細なゆらぎを含む線”を自然だと感じる。 写真においても同じで、少量のノイズがトーンカーブの隙間を埋める微細な揺らぎとして働き、デジタル特有の硬さをやわらげてくれる。 トーンカーブを滑らかに繋ぐための“視覚的なバッファ”。デジタル写真の線のような階調を“面”に変える。 フィルムとデジタルの“揺らぎ” フィルムでは、粒子が“光の痕跡”としてそこに残る。デジタルでは、ノイズが“電子のゆらぎ”として現れる。どちらも、完璧ではない。だが、その不完全が“手触り”を作る。 北島敬三がトライXを好んだのも、森山大道が高感度のネオパンで焼いたのも、粒子に“現実のざらつき”を見たからだろう。 デジタルでも変わらない。高感度で撮った夜の街、暗部に浮かぶノイズの斑点。そこに“現実の温度”を感じる瞬間がある。 ノイズは記憶の粒 結局のところ、ノイズとは“記憶の粒”のようなものだと思う。記憶はいつも完璧ではなく、ところどころ曖昧で、滲んだり、揺らいだりしている。それでも、そこにしかない質感がある。 ノイズを消すことは、記憶のざらつきを削り取ることに似ている。 フィルムでもデジタルでも、ノイズには「光が通過した痕跡」が見える。...
ノイズと粒子の話
“ノイズ”という言葉には「本来必要としない不要な音、電波、情報」という意味がある。つまり不要なもの、ということである。 しかし写真におけるノイズは実は少し違う。 確かにデジタルで写真を撮る人は、ノイズを「消すべきもの」と捉えている面はある。高感度でザラついた写真は“悪い例”として挙げられ、それは現像ソフトで滑らかに整えられる。 フィルム時代の“粒子” フィルム写真の時代、粒子(グレイン)「味」として認識されていた。ISO400のトライX、1600のネオパン、3200のデルタ。それぞれの粒子のニュアンスを生かした写真が撮られた。 被写体の肌や影の中の粒子は、それが写真“空気”を演出した。 フィルムの粒子は、化学的な結晶がランダムに並ぶことで生まれる。この“偶然の配置”が写真の質感そのものになっていた。この不均一さが、アナログ写真に“空気”を与えるのだ。 デジタルノイズの誤解 デジタルにおけるノイズは、原理が違う。センサー上の電気信号の乱れ、読み出し時の熱、増幅回路の誤差。それらがピクセル単位で微細な“誤差”を生み出す。 しかし、それでもやはりそれはただの「悪者」ではない。 デジタルのセンサーは、元々あまりに正確すぎる。一様で、乱れがなく、滑らか。その結果、陰影の境界が整いすぎてしまう。つまり、「現実のざらつき」が抜け落ちてしまうのだ。 ノイズを少し加えると、不思議と階調のつながりが自然になる。暗部から中間調へのグラデーションが滑らかに見えるのは、細かな乱れがトーンの境界を“ぼかす”からだ。これは、絵画で言うところの“にじみ”に近い。 階調とざらつきの関係 Lightroomなどでデジタルノイズを少し加えると、画面の中の“空気”が変わるのは気のせい、ではない。 完璧にノイズを除去した肌は滑らかだが、どこか“無機的”になる。そこに少し粒を足すと、質感が戻り、呼吸を感じる。 人間の目は、完全に均一なグラデーションを見ると、小さな階調差(特に8bit画像などでの量子化段差)を“段階”として感じ取ってしまう。いわゆる バンディング(banding) 現象だ。 そこで使われるのが**ディザリング(dithering)**という手法。わずかなノイズを加えることで、階調の境界をランダム化し、視覚的に“滑らか”に見せる効果がある。 これは古くから印刷技術や音響処理でも使われてきた。人間の知覚は“完全な直線”よりも、“微細なゆらぎを含む線”を自然だと感じる。 写真においても同じで、少量のノイズがトーンカーブの隙間を埋める微細な揺らぎとして働き、デジタル特有の硬さをやわらげてくれる。 トーンカーブを滑らかに繋ぐための“視覚的なバッファ”。デジタル写真の線のような階調を“面”に変える。 フィルムとデジタルの“揺らぎ” フィルムでは、粒子が“光の痕跡”としてそこに残る。デジタルでは、ノイズが“電子のゆらぎ”として現れる。どちらも、完璧ではない。だが、その不完全が“手触り”を作る。 北島敬三がトライXを好んだのも、森山大道が高感度のネオパンで焼いたのも、粒子に“現実のざらつき”を見たからだろう。 デジタルでも変わらない。高感度で撮った夜の街、暗部に浮かぶノイズの斑点。そこに“現実の温度”を感じる瞬間がある。 ノイズは記憶の粒 結局のところ、ノイズとは“記憶の粒”のようなものだと思う。記憶はいつも完璧ではなく、ところどころ曖昧で、滲んだり、揺らいだりしている。それでも、そこにしかない質感がある。 ノイズを消すことは、記憶のざらつきを削り取ることに似ている。 フィルムでもデジタルでも、ノイズには「光が通過した痕跡」が見える。...
誰も美しいと思わなくても
秋になり、街の色が少し変わる。 赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。 観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。 同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。 それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。 濃く色づいた葉はサイケデリックで、 光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。 でも、時々思う。 “きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。 持ち主を失い錆びた看板、 積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、 折れたビニール傘に溜まった雨水。 そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。 それは、誰に見せなくても良い。 引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。 わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。 世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。 それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。 「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。 SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。 そう“仮定”した方がきっと面白い。 誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。 しかし、ふとシャッターを切っていた。...
誰も美しいと思わなくても
秋になり、街の色が少し変わる。 赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。 観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。 同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。 それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。 濃く色づいた葉はサイケデリックで、 光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。 でも、時々思う。 “きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。 持ち主を失い錆びた看板、 積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、 折れたビニール傘に溜まった雨水。 そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。 それは、誰に見せなくても良い。 引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。 わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。 世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。 それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。 「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。 SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。 そう“仮定”した方がきっと面白い。 誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。 しかし、ふとシャッターを切っていた。...
カメラを持たない日
写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、 たまにカメラを置いて外を歩いていると、 不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。 僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。 ──例えば、身軽さとか、体力とかだ。 カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。 陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。 無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。 それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、 同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。 カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。 「撮るために見る」ことをやめたとき、 街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。 光がただ光として差し込み、 風がただ風として吹きつけ、 人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。 “レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。 写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。 それでも、やはり 「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。 けれどその時、カメラはない。 シャッターは押せない。 しかし、不思議と焦りはない。 その「撮れなさ」も心地いい。 撮らないことで、...
カメラを持たない日
写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、 たまにカメラを置いて外を歩いていると、 不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。 僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。 ──例えば、身軽さとか、体力とかだ。 カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。 陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。 無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。 それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、 同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。 カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。 「撮るために見る」ことをやめたとき、 街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。 光がただ光として差し込み、 風がただ風として吹きつけ、 人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。 “レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。 写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。 それでも、やはり 「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。 けれどその時、カメラはない。 シャッターは押せない。 しかし、不思議と焦りはない。 その「撮れなさ」も心地いい。 撮らないことで、...
パンフォーカスという選択──街を“そのまま”撮るということ
写真を撮り始めたばかりの頃、多くの人が一度は「背景をぼかした写真」に憧れると思います。特定の被写体が強く浮かび上がり、背景がふわりと溶ける。まるで「プロの写真のよう」に撮れたという感覚が、気分を高揚させてくれるのです。 しかし、長く撮影を続けていくうちに、だんだんとその逆──**手前から奥まで、すべてにピントが合っている“パンフォーカス”**という表現の面白さに気づく瞬間がやってきます。 森山大道がパンフォーカスで撮り続ける理由 「ストリートフォトにはパンフォーカスがふさわしい」その考え方を象徴するのが、日本を代表するストリートフォトグラファー、森山大道です。彼の写真には「とろけるような背景ボケ」はほとんど登場しません。手前から奥までピントの合ったパンフォーカスの作品が圧倒的多数を占めています。 なぜか。それは、彼が撮っているのが「主題」ではなく、「都市そのものの“相”」だからです。街を歩き、人と光と建物、そして猥雑な看板と匂いが混ざり合った“塊”をまるごと写していく。そのとき、特定の被写体を強調する浅い被写界深度はむしろ“妨げ”になります。 パンフォーカスは、視点の階層を消し去り、すべての要素を同列に置きます。街を構成する雑多なモノが全て等しく主役になる──それが、ストリートフォトの魅力なのです。 人間の視界は本質的に「パンフォーカス的」 そしてこの考え方は、実は人間の“見え方”そのものにもつながっています。 人間の目は、一度に一点にしかピントを合わせられません。しかし、実際には常に眼球を細かく動かし(サッカード運動)、手前も奥も隅々まで走査しながら、脳がそれらの断片を統合して「すべてが見えている」という感覚をつくり出しています。 つまり、僕たちは本質的に“パンフォーカス的”な世界を生きているのです。だからこそ、手前から奥までを等しく描くパンフォーカス写真は、現実の知覚と深く共鳴します。 センサーサイズと「深さ」の関係 ここで少し技術的な話をしましょう。パンフォーカスが生まれやすい背景には、センサーサイズと焦点距離の関係があります。 たとえば、フルサイズセンサーのカメラで35mmの画角を得ようとすれば、35mmのレンズを使う必要があります。一方、比較的安価なコンパクトデジタルカメラに搭載される 1/2.3インチセンサー機では同じ画角を得るには、約6mm前後という非常に短い焦点距離のレンズが使われることになります。 この「焦点距離の短さ」こそが、被写界深度を深くするポイントです。焦点距離が短ければ短いほど、ピントが合う範囲は広がり、深い被写界深度を得やすくなります。だからこそ、小型センサー機はパンフォーカス的な描写が得意なのです。 森山大道がCOOLPIXシリーズを愛用するのも、単なる軽さやサイズだけではなく、パンフォーカスを得やすい光学的な理由があったかもしれません。 初心者が「ボケ」に頼ってしまう理由 写真を始めたばかりの頃は「背景をぼかす=上手い写真」と思い込みがちです。もちろんそれは一つの重要な表現手法ですが、ストリートフォトにおいてはその使いどころはかなり慎重に吟味する必要があります。 なぜなら多くの場合、ストリートで大切なのは、**特定の被写体の存在そのものよりも、それを内包する“相”としての街”**だからです。特定の被写体だけを際立たせると、街の空気や時間が抜け落ちて見えてしますのです。パンフォーカスならば、看板もゴミも電線も等しく写り込み、その街“そのまま”を記録することができます。 「フラットさ」がもたらす力 パンフォーカスの写真は一見“平板”です。しかし、その“平板さ”こそが、都市という複雑な現実の姿を表すのです。 前景と背景の差が曖昧になり、空間がひとつの“面”として立ち上がると、形や配置、リズムといった要素が強く意識されるようになります。主役を決めず、世界をそのまま受け入れることで、フレームの中のすべてが対等に語るのです。 終わりに──世界を“そのまま”受け入れるということ 街を歩くとき、僕たちは一つの主題だけを見ているわけではありません。人、建物、光、匂い、音──それらが同時に存在して「街」という現実を形作っています。 パンフォーカスは、そうした雑多な世界を“そのまま”受け入れる撮り方です。 写真は被写体だけを見せるものではなく、世界そのものを伝える手段です。あなたも、パンフォーカスという選択肢を、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。
パンフォーカスという選択──街を“そのまま”撮るということ
写真を撮り始めたばかりの頃、多くの人が一度は「背景をぼかした写真」に憧れると思います。特定の被写体が強く浮かび上がり、背景がふわりと溶ける。まるで「プロの写真のよう」に撮れたという感覚が、気分を高揚させてくれるのです。 しかし、長く撮影を続けていくうちに、だんだんとその逆──**手前から奥まで、すべてにピントが合っている“パンフォーカス”**という表現の面白さに気づく瞬間がやってきます。 森山大道がパンフォーカスで撮り続ける理由 「ストリートフォトにはパンフォーカスがふさわしい」その考え方を象徴するのが、日本を代表するストリートフォトグラファー、森山大道です。彼の写真には「とろけるような背景ボケ」はほとんど登場しません。手前から奥までピントの合ったパンフォーカスの作品が圧倒的多数を占めています。 なぜか。それは、彼が撮っているのが「主題」ではなく、「都市そのものの“相”」だからです。街を歩き、人と光と建物、そして猥雑な看板と匂いが混ざり合った“塊”をまるごと写していく。そのとき、特定の被写体を強調する浅い被写界深度はむしろ“妨げ”になります。 パンフォーカスは、視点の階層を消し去り、すべての要素を同列に置きます。街を構成する雑多なモノが全て等しく主役になる──それが、ストリートフォトの魅力なのです。 人間の視界は本質的に「パンフォーカス的」 そしてこの考え方は、実は人間の“見え方”そのものにもつながっています。 人間の目は、一度に一点にしかピントを合わせられません。しかし、実際には常に眼球を細かく動かし(サッカード運動)、手前も奥も隅々まで走査しながら、脳がそれらの断片を統合して「すべてが見えている」という感覚をつくり出しています。 つまり、僕たちは本質的に“パンフォーカス的”な世界を生きているのです。だからこそ、手前から奥までを等しく描くパンフォーカス写真は、現実の知覚と深く共鳴します。 センサーサイズと「深さ」の関係 ここで少し技術的な話をしましょう。パンフォーカスが生まれやすい背景には、センサーサイズと焦点距離の関係があります。 たとえば、フルサイズセンサーのカメラで35mmの画角を得ようとすれば、35mmのレンズを使う必要があります。一方、比較的安価なコンパクトデジタルカメラに搭載される 1/2.3インチセンサー機では同じ画角を得るには、約6mm前後という非常に短い焦点距離のレンズが使われることになります。 この「焦点距離の短さ」こそが、被写界深度を深くするポイントです。焦点距離が短ければ短いほど、ピントが合う範囲は広がり、深い被写界深度を得やすくなります。だからこそ、小型センサー機はパンフォーカス的な描写が得意なのです。 森山大道がCOOLPIXシリーズを愛用するのも、単なる軽さやサイズだけではなく、パンフォーカスを得やすい光学的な理由があったかもしれません。 初心者が「ボケ」に頼ってしまう理由 写真を始めたばかりの頃は「背景をぼかす=上手い写真」と思い込みがちです。もちろんそれは一つの重要な表現手法ですが、ストリートフォトにおいてはその使いどころはかなり慎重に吟味する必要があります。 なぜなら多くの場合、ストリートで大切なのは、**特定の被写体の存在そのものよりも、それを内包する“相”としての街”**だからです。特定の被写体だけを際立たせると、街の空気や時間が抜け落ちて見えてしますのです。パンフォーカスならば、看板もゴミも電線も等しく写り込み、その街“そのまま”を記録することができます。 「フラットさ」がもたらす力 パンフォーカスの写真は一見“平板”です。しかし、その“平板さ”こそが、都市という複雑な現実の姿を表すのです。 前景と背景の差が曖昧になり、空間がひとつの“面”として立ち上がると、形や配置、リズムといった要素が強く意識されるようになります。主役を決めず、世界をそのまま受け入れることで、フレームの中のすべてが対等に語るのです。 終わりに──世界を“そのまま”受け入れるということ 街を歩くとき、僕たちは一つの主題だけを見ているわけではありません。人、建物、光、匂い、音──それらが同時に存在して「街」という現実を形作っています。 パンフォーカスは、そうした雑多な世界を“そのまま”受け入れる撮り方です。 写真は被写体だけを見せるものではなく、世界そのものを伝える手段です。あなたも、パンフォーカスという選択肢を、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。
RICOH GXR──リコーの異端児
GRⅣが話題になっているこのタイミングで、こんなカメラを振り返ってみましょう。2009年に登場した RICOH GXRです。リコーが送り出した、極めて異端で、そして野心的なシステムです。GR DIGITALやGRシリーズの延長線上にあるようでいて、実際にはまったく違う思想を持ったカメラでした。 レンズとセンサーを一体化──“ユニット交換式”という構造 GXR最大の特徴は「ユニット交換式」という仕組みでした。現在の一眼カメラはレフ機でもミラーレスでも、センサーを組み込んだカメラボディがあり、それにレンズを取り付けて使用します。ところがGXRはセンサーとレンズの一体化した“カメラユニット”をボディに装着する方式を採用しました。 つまり、ボディにはシャッターボタンや液晶、グリップ、ダイヤルなどの操作系だけがあり、センサーは組み込まれていない、“写りの肝”をすべてユニットに委ねる構造なのです。ユニットごとにセンサーサイズも変えられるため、「広角単焦点スナップはAPS-Cで、ズームは小型センサーで」など、撮影目的に合わせてセンサーも交換するという発想でした。 今でこそモジュール式の製品は珍しくありませんが、2009年当時にこれを実現したリコーは先見性があったとも言えます。もっとも、市場に受け入れられたかというと、後述のようにユニット展開の遅さや価格面でつまずき、商業的には失敗したといって良いでしょう。 個性豊かなユニット GXRに用意されたユニットは、非常に個性的なラインナップでした。 まず目玉となったのは A12 50mm F2.5 Macro。APS-Cセンサーを搭載し、最短1cmまで寄れる、非常に優秀なマクロレンズを擁したユニットでした。ピントが合った部分のシャープさ、そこからなだらかにボケていく柔らかさを伴った立体感は、当時のコンデジとは一線を画す描写力でした。 続いて A12 28mm F2.5。こちらもAPS-Cセンサー搭載で、いわば「GR的スナップ」を実現するためのユニットでした。GR DIGITAL IVなどがまだ小型センサーだった中、気軽に持ち歩けるサイズでAPS-Cセンサー、 28mmF2.5というスペックは驚異的なものでした。発色も独特で、硬質ながらフィルムを想起させる階調は今でも評価されています。 小型センサー系のユニットもありました。たとえば S10 24-72mm相当 F2.5-4.4。1/1.7型CCDを搭載し、手軽にズームを使いたい人向け。GR DIGITALの延長のような写りで、ややクセはありつつも万能なカメラでした。 さらに、P10 28-300mm相当 F3.5-5.6。1/2.3型センサーを積んだ高倍率ズームユニットで、正直画質は“高画質”とは言い難い部分がありますが、「これ一本で旅を済ませたい」という場合には便利でした。また望遠側での最大撮影倍率が非常に大きく“テレマクロ専用”ユニットのように使うマニアックな層もいました。 そして“変わり種”の極めつけは...
RICOH GXR──リコーの異端児
GRⅣが話題になっているこのタイミングで、こんなカメラを振り返ってみましょう。2009年に登場した RICOH GXRです。リコーが送り出した、極めて異端で、そして野心的なシステムです。GR DIGITALやGRシリーズの延長線上にあるようでいて、実際にはまったく違う思想を持ったカメラでした。 レンズとセンサーを一体化──“ユニット交換式”という構造 GXR最大の特徴は「ユニット交換式」という仕組みでした。現在の一眼カメラはレフ機でもミラーレスでも、センサーを組み込んだカメラボディがあり、それにレンズを取り付けて使用します。ところがGXRはセンサーとレンズの一体化した“カメラユニット”をボディに装着する方式を採用しました。 つまり、ボディにはシャッターボタンや液晶、グリップ、ダイヤルなどの操作系だけがあり、センサーは組み込まれていない、“写りの肝”をすべてユニットに委ねる構造なのです。ユニットごとにセンサーサイズも変えられるため、「広角単焦点スナップはAPS-Cで、ズームは小型センサーで」など、撮影目的に合わせてセンサーも交換するという発想でした。 今でこそモジュール式の製品は珍しくありませんが、2009年当時にこれを実現したリコーは先見性があったとも言えます。もっとも、市場に受け入れられたかというと、後述のようにユニット展開の遅さや価格面でつまずき、商業的には失敗したといって良いでしょう。 個性豊かなユニット GXRに用意されたユニットは、非常に個性的なラインナップでした。 まず目玉となったのは A12 50mm F2.5 Macro。APS-Cセンサーを搭載し、最短1cmまで寄れる、非常に優秀なマクロレンズを擁したユニットでした。ピントが合った部分のシャープさ、そこからなだらかにボケていく柔らかさを伴った立体感は、当時のコンデジとは一線を画す描写力でした。 続いて A12 28mm F2.5。こちらもAPS-Cセンサー搭載で、いわば「GR的スナップ」を実現するためのユニットでした。GR DIGITAL IVなどがまだ小型センサーだった中、気軽に持ち歩けるサイズでAPS-Cセンサー、 28mmF2.5というスペックは驚異的なものでした。発色も独特で、硬質ながらフィルムを想起させる階調は今でも評価されています。 小型センサー系のユニットもありました。たとえば S10 24-72mm相当 F2.5-4.4。1/1.7型CCDを搭載し、手軽にズームを使いたい人向け。GR DIGITALの延長のような写りで、ややクセはありつつも万能なカメラでした。 さらに、P10 28-300mm相当 F3.5-5.6。1/2.3型センサーを積んだ高倍率ズームユニットで、正直画質は“高画質”とは言い難い部分がありますが、「これ一本で旅を済ませたい」という場合には便利でした。また望遠側での最大撮影倍率が非常に大きく“テレマクロ専用”ユニットのように使うマニアックな層もいました。 そして“変わり種”の極めつけは...