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“正しい色”は写真に必要か
SNSでは「フィルムライクな色」がウケるとよく言われる。 現像ソフトは高機能になり、プリセットが売られ、参考となる“模範解答”のような色が簡単に手に入る。そしてそれから派生するように「正しい色」みたいな概念が生まれつつある。 そんな中で、「写真に“正しい色”を求める必要があるだろうか」という疑問を、頭の片隅に置いておく価値はあるだろう。 “プリセット”というのは、「最初から色が決められている」ことだ。 仕事の現場でスピードが求められたり、クライアントと完成イメージを素早く共有したいときには、これはものすごく役に立つ。 時間に追われるような条件の中で、ちょうどイメージ通りのプリセットが見つかれば、それを購入して使うのは非常に合理的な判断だと思う。ただ、自分のために撮る写真や、自由であっていい写真まで、その“前もって決められた色”を用いる必要があるのかどうかは慎重に考えてみても良いだろう。 まず現像の「基本」や「最低限」について考えてみよう。それは全然複雑なものではない。大きく白飛びしすぎていないこと、大きく黒潰れしすぎていないこと、色が飽和するような彩度になっていないこと、まずはそれくらいで十分だと言っても良いくらいだ。 それらの「基本」だって、「それが求められる」場合は確かに多いけれど、ほとんど白で飛んでしまった画面に一部のころ影や彩度が飽和した花がクールだということだって普通に存在する。 そう“正しい色”は実は無い。 トーンカーブを使えば繊細な調整が出来るし、「プロならトーンカーブを使うのが当たり前」というようなことをいう職業フォトグラファーも見かける。 しかし、使えないと“良い写真”にならないかといえば、決してそんなことはない。そう、全くそんなことはないのだ。 もしトーンカーブの設定、数字や操作がよくわからなければ、自分が求めている雰囲気を抽象的でも構わないからAIに相談して、具体的な数値等は提案してもらったって構わない。 現像の知識量が写真の価値に影響する割合なんてほとんど誤差みたいなものかもしれない。 むしろ、恐れるべきは「正しさ」に合わせることが目的にな理、自分をそこに押し込めてしまうことだ。写真に真面目に取り組む人ほど、そういった“罠”に陥りやすいかもしれない。 技術として覚えていくことも当然有用ではあるけれど、その過程であなたの写真に有る価値が損なわれてしまっては本末転倒だ。 もちろん「正しい色」を目指したって構わない。ただ、そこへ向かわなければという風には考えないほうが良い。 デジタル写真における現像は“正解を目指す作業”にするよりは、“シャッターを切った瞬間の感情と画面に見えているものを擦り合わせる作業”だと思っていたほうが、きっと楽しい。 そう思うだけで、もう少し自由になれるはずだ。
“正しい色”は写真に必要か
SNSでは「フィルムライクな色」がウケるとよく言われる。 現像ソフトは高機能になり、プリセットが売られ、参考となる“模範解答”のような色が簡単に手に入る。そしてそれから派生するように「正しい色」みたいな概念が生まれつつある。 そんな中で、「写真に“正しい色”を求める必要があるだろうか」という疑問を、頭の片隅に置いておく価値はあるだろう。 “プリセット”というのは、「最初から色が決められている」ことだ。 仕事の現場でスピードが求められたり、クライアントと完成イメージを素早く共有したいときには、これはものすごく役に立つ。 時間に追われるような条件の中で、ちょうどイメージ通りのプリセットが見つかれば、それを購入して使うのは非常に合理的な判断だと思う。ただ、自分のために撮る写真や、自由であっていい写真まで、その“前もって決められた色”を用いる必要があるのかどうかは慎重に考えてみても良いだろう。 まず現像の「基本」や「最低限」について考えてみよう。それは全然複雑なものではない。大きく白飛びしすぎていないこと、大きく黒潰れしすぎていないこと、色が飽和するような彩度になっていないこと、まずはそれくらいで十分だと言っても良いくらいだ。 それらの「基本」だって、「それが求められる」場合は確かに多いけれど、ほとんど白で飛んでしまった画面に一部のころ影や彩度が飽和した花がクールだということだって普通に存在する。 そう“正しい色”は実は無い。 トーンカーブを使えば繊細な調整が出来るし、「プロならトーンカーブを使うのが当たり前」というようなことをいう職業フォトグラファーも見かける。 しかし、使えないと“良い写真”にならないかといえば、決してそんなことはない。そう、全くそんなことはないのだ。 もしトーンカーブの設定、数字や操作がよくわからなければ、自分が求めている雰囲気を抽象的でも構わないからAIに相談して、具体的な数値等は提案してもらったって構わない。 現像の知識量が写真の価値に影響する割合なんてほとんど誤差みたいなものかもしれない。 むしろ、恐れるべきは「正しさ」に合わせることが目的にな理、自分をそこに押し込めてしまうことだ。写真に真面目に取り組む人ほど、そういった“罠”に陥りやすいかもしれない。 技術として覚えていくことも当然有用ではあるけれど、その過程であなたの写真に有る価値が損なわれてしまっては本末転倒だ。 もちろん「正しい色」を目指したって構わない。ただ、そこへ向かわなければという風には考えないほうが良い。 デジタル写真における現像は“正解を目指す作業”にするよりは、“シャッターを切った瞬間の感情と画面に見えているものを擦り合わせる作業”だと思っていたほうが、きっと楽しい。 そう思うだけで、もう少し自由になれるはずだ。
“写真の上手い写真家”の価値
日本を代表する写真家と言えば、荒木経惟や森山大道の名前がまず挙がるだろう。 例えば、篠山紀信や上田義彦と比べたとき、この二人を“写真の上手い写真家“だと思わない人も少なくないのかもしれない。 荒木経惟には「人妻エロス」シリーズに象徴される露骨な作品が多いし、どこか“撮り放した”ようにも見えるスナップも多い。 森山大道のイメージに直結する、「アレ・ブレ・ボケ」も、少なくとも分かりやすい意味での“写真の上手さ”からは距離のある概念だろう。 しかし彼らが世界的な評価を受けているという事実は揺るがない。 そしてこれは決して逆説ではない。 荒木経惟も森山大道も、間違いなく、極めて「写真の上手い写真家」なのだ。 ここでまず想起すべきは、二人の職業フォトグラファーとしてのスタートだ。 荒木経惟は電通でコマーシャルフォトの現場に身を置き、厳密な要求と制約の中で写真を撮ってきた。 森山大道もまた、細江英公のアシスタントとして、最先端のプロフェッショナルな写真制作現場を経験している。 二人とも、どこか一匹狼のような印象があるが、実際にはフォトグラファーとしての確固たるバックボーンを持ち、技術や現場感覚を身体に叩き込んだ上で、自らの表現へと向かっていると言える。 世界的な評価を得ている写真家が、実は極めて“正統的に写真が上手い”という事実は、しばしば見過ごされがちだ。 だがこれは、写真という表現を考える上で、かなり重要な前提だと思う。 一方で、ここから話はもう一段進む。 ここで言いたいのは「世界的な写真家として認められるためには写真が上手くなくてはならない」ということではない。 技術的に未熟な写真が、人の記憶に深く残ることは大いにある。 完璧に整った写真が、何も残さず通り過ぎていくこともある。 「上手さ」が「良さ」と一致しないことは、写真を続けていれば誰もが体感的に知っているだろう。 もちろん、上手さは「有用」だ。 しかしそれは価値の中心ではなく、前提条件に近い。 荒木経惟や森山大道の写真が評価され続けている理由は、「上手いから」ではない。 仮に明らかに写真が「下手」であると認識されていながら、荒木や森山のように世界的な評価を受ける写真家がいたらどうだろう。 率直に言うと私はそれに該当する写真家を知らない。しかし、それは決してあり得ないことではないどころか、むしろあって然るべきだろう。 それに直面した時、写真家にとって“上手い”ことの価値とはなんだろうと、きっと深く考えることになるだろう。
“写真の上手い写真家”の価値
日本を代表する写真家と言えば、荒木経惟や森山大道の名前がまず挙がるだろう。 例えば、篠山紀信や上田義彦と比べたとき、この二人を“写真の上手い写真家“だと思わない人も少なくないのかもしれない。 荒木経惟には「人妻エロス」シリーズに象徴される露骨な作品が多いし、どこか“撮り放した”ようにも見えるスナップも多い。 森山大道のイメージに直結する、「アレ・ブレ・ボケ」も、少なくとも分かりやすい意味での“写真の上手さ”からは距離のある概念だろう。 しかし彼らが世界的な評価を受けているという事実は揺るがない。 そしてこれは決して逆説ではない。 荒木経惟も森山大道も、間違いなく、極めて「写真の上手い写真家」なのだ。 ここでまず想起すべきは、二人の職業フォトグラファーとしてのスタートだ。 荒木経惟は電通でコマーシャルフォトの現場に身を置き、厳密な要求と制約の中で写真を撮ってきた。 森山大道もまた、細江英公のアシスタントとして、最先端のプロフェッショナルな写真制作現場を経験している。 二人とも、どこか一匹狼のような印象があるが、実際にはフォトグラファーとしての確固たるバックボーンを持ち、技術や現場感覚を身体に叩き込んだ上で、自らの表現へと向かっていると言える。 世界的な評価を得ている写真家が、実は極めて“正統的に写真が上手い”という事実は、しばしば見過ごされがちだ。 だがこれは、写真という表現を考える上で、かなり重要な前提だと思う。 一方で、ここから話はもう一段進む。 ここで言いたいのは「世界的な写真家として認められるためには写真が上手くなくてはならない」ということではない。 技術的に未熟な写真が、人の記憶に深く残ることは大いにある。 完璧に整った写真が、何も残さず通り過ぎていくこともある。 「上手さ」が「良さ」と一致しないことは、写真を続けていれば誰もが体感的に知っているだろう。 もちろん、上手さは「有用」だ。 しかしそれは価値の中心ではなく、前提条件に近い。 荒木経惟や森山大道の写真が評価され続けている理由は、「上手いから」ではない。 仮に明らかに写真が「下手」であると認識されていながら、荒木や森山のように世界的な評価を受ける写真家がいたらどうだろう。 率直に言うと私はそれに該当する写真家を知らない。しかし、それは決してあり得ないことではないどころか、むしろあって然るべきだろう。 それに直面した時、写真家にとって“上手い”ことの価値とはなんだろうと、きっと深く考えることになるだろう。
最近、Babourをよく着ている──“ファッション”と“スタイル”
写真、カメラの記事です。 最近、街でBarbourのジャケットを着ている人をよく見かけるようになった。 SNSで話題になっていることも多い。 「Barbourが流行っている」のだろう。 その流行とはあまり関係なく、 僕もここ数年よくバブアーを着ている。 お気に入りはBedaleだ。 程よい丈の長さ、しっかりとした作りの大きいポケットは、 “街を撮る”のと相性がいい。 ジャケットや靴、バッグとか衣料品は割と好きだけど、 いわゆる“ファッション好き”ではない。 流行そのものを追うことはほとんど無いし、 誰かの着こなしを追いかけるようなこともない。 自分の生活や習慣に適切なもの、役に立つものを選んでいく、 という感覚が近いだろう。 「おしゃれかどうか」よりは「生活にフィットするかどうか」 という基準で選んでいると思う。 Barbourは元々はとても実用的な服だ。 そもそもの用途は乗馬や狩猟といったフィールドワーク。 英国の湿気の多い気候で、風や雨に耐え、 長く着られるように作られたワークウェアでもある。 だからこそ、あの大きなポケットや、...
最近、Babourをよく着ている──“ファッション”と“スタイル”
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“誰が決めたのか分からない正しさ”から自由になる
「適正露出はどのくらいですか?」 と、聞かれることがある。 カメラが提示した明るさ、 それが答えのように思ってしまうかもしれない。 写真を撮り続けていくと自然に気づくだろう。 適正露出とは、誰かが決めた“正しさ”に過ぎない。 カメラが出す“±0”には、 あなたの意図も感情も入らない。 そのとき感じた温度も、匂いも、心の揺らぎも反映されない。 露出ひとつで、写真はまったく違う表情を見せる。 露出補正を+1にするだけで 光は蒸散し、 陰の輪郭は曖昧に。 −1にすれば、 街の音は遠ざかり、 影は境界をもたらす。 露出は写真の“性格”を変える。 だから、適正露出という言葉に縛られない方が良い。 それはあなたが見ている世界を“均質”にしようとする。 全てを決めるのは、あなただ。 写真において露出とは、 技術的な話であると同時に、 「その光をどう感じたか」という、あなたの記憶を反映させるものだ。...
“誰が決めたのか分からない正しさ”から自由になる
「適正露出はどのくらいですか?」 と、聞かれることがある。 カメラが提示した明るさ、 それが答えのように思ってしまうかもしれない。 写真を撮り続けていくと自然に気づくだろう。 適正露出とは、誰かが決めた“正しさ”に過ぎない。 カメラが出す“±0”には、 あなたの意図も感情も入らない。 そのとき感じた温度も、匂いも、心の揺らぎも反映されない。 露出ひとつで、写真はまったく違う表情を見せる。 露出補正を+1にするだけで 光は蒸散し、 陰の輪郭は曖昧に。 −1にすれば、 街の音は遠ざかり、 影は境界をもたらす。 露出は写真の“性格”を変える。 だから、適正露出という言葉に縛られない方が良い。 それはあなたが見ている世界を“均質”にしようとする。 全てを決めるのは、あなただ。 写真において露出とは、 技術的な話であると同時に、 「その光をどう感じたか」という、あなたの記憶を反映させるものだ。...
写真とインストゥルメンタル— 伝達効率と映像表現
1. インストゥルメンタルという余白 僕は普段、ポストロック、特にインストゥルメンタルの音楽をよく聴く。 歌詞のない音楽には、どこか“開かれた”印象を持つ。 感情の方向を特定せず、聴く人それぞれの感性に余白を委ねる。 インストゥルメンタルのバンドはメジャーになりにくい。 それは「伝達効率」が悪いからなのだと思う。 例えばメジャーなロックバンドの曲の多くは、言葉を届けるための構造を持っている。 歌詞を感情の軸として、聴き手が分かりやすいように“言葉の意味”を届ける仕組みだ。 それに対して、インストゥルメンタルは“何を感じるか”をリスナーに委ねる。 特定の感情を伝えるというより、リスナーに“ある感情”を発生させる、というのが近いだろう。 だからメッセージは“曖昧”で、受け取る側はその解釈に“労力”を要する。 その「非効率」こそが、音楽に深さを与える。 伝達効率の低さが、想像の余地を増やすのだ。 2. “インストゥルメンタル”としての写真 この構図は、「映画」と「写真」の関係に似ている。 映画は時間を持つメディアだ。 ストーリー、台詞、音楽——これらが受け手の感情を導く。 観客は“どんな気持ちになるべきか”を、構成の中で理解しやすい。 映画は、歌詞を持った音楽と類似の構造を持っている。 伝達効率の高いメディアであり、感情の設計を前提とする。 一方、写真はどうだろう。 そこには台詞も脚本もない。...
写真とインストゥルメンタル— 伝達効率と映像表現
1. インストゥルメンタルという余白 僕は普段、ポストロック、特にインストゥルメンタルの音楽をよく聴く。 歌詞のない音楽には、どこか“開かれた”印象を持つ。 感情の方向を特定せず、聴く人それぞれの感性に余白を委ねる。 インストゥルメンタルのバンドはメジャーになりにくい。 それは「伝達効率」が悪いからなのだと思う。 例えばメジャーなロックバンドの曲の多くは、言葉を届けるための構造を持っている。 歌詞を感情の軸として、聴き手が分かりやすいように“言葉の意味”を届ける仕組みだ。 それに対して、インストゥルメンタルは“何を感じるか”をリスナーに委ねる。 特定の感情を伝えるというより、リスナーに“ある感情”を発生させる、というのが近いだろう。 だからメッセージは“曖昧”で、受け取る側はその解釈に“労力”を要する。 その「非効率」こそが、音楽に深さを与える。 伝達効率の低さが、想像の余地を増やすのだ。 2. “インストゥルメンタル”としての写真 この構図は、「映画」と「写真」の関係に似ている。 映画は時間を持つメディアだ。 ストーリー、台詞、音楽——これらが受け手の感情を導く。 観客は“どんな気持ちになるべきか”を、構成の中で理解しやすい。 映画は、歌詞を持った音楽と類似の構造を持っている。 伝達効率の高いメディアであり、感情の設計を前提とする。 一方、写真はどうだろう。 そこには台詞も脚本もない。...
曇りの日の写真
仕事の撮影の日に曇っていると、「今日は曇ってしまいましたね」と言われることがある。確かに、強い日差しが生むコントラスト、くっきりと伸びる影、明瞭に照らされた肌や建物の輪郭、それらは“写真らしさ”として端的に浮かび上がる。 けれど、曇った日には曇った日なりの魅力がある。それは、太陽が雲に隠れたときにだけ現れる、やわらかな陰影の世界だ。 曇りの日は“世界最大のソフトボックスの下の世界”と言える。被写体はフラットに照らされ、階調は繊細につながっていく。 晴れの日は“光の写真”を撮る日。曇りの日は“空気の写真”を撮る日だ。 光が主張をやめた時、被写体そのものが前に出る。たとえば、壁の質感、濡れたアスファルト、人の肌の柔らかさ。そうした細部が、いつもより静かに、しかし確かに見えてくる。 曇り空の下では、光の方向が曖昧になる。陰影は朧げとなり、被写体はフラットに並ぶ。「好き嫌い」や「主観的なドラマ」が剥ぎ取られ、“そこにある現実”が、淡々と立ち上がる。 曇りの日の写真には、静けさが宿る。 白や黒はやさしく溶け、街はグレースケールの海になる。それは“被写体の集合体”ではなく、“世界そのもの”を写すような感覚かもしれない。 「曇ってしまいましたね」と言われた時、僕は思う。曇りの日にしか見えない世界があることを。 そして曇り空の下で、柔らかな世界にカメラを向けてシャッターを切る。
曇りの日の写真
仕事の撮影の日に曇っていると、「今日は曇ってしまいましたね」と言われることがある。確かに、強い日差しが生むコントラスト、くっきりと伸びる影、明瞭に照らされた肌や建物の輪郭、それらは“写真らしさ”として端的に浮かび上がる。 けれど、曇った日には曇った日なりの魅力がある。それは、太陽が雲に隠れたときにだけ現れる、やわらかな陰影の世界だ。 曇りの日は“世界最大のソフトボックスの下の世界”と言える。被写体はフラットに照らされ、階調は繊細につながっていく。 晴れの日は“光の写真”を撮る日。曇りの日は“空気の写真”を撮る日だ。 光が主張をやめた時、被写体そのものが前に出る。たとえば、壁の質感、濡れたアスファルト、人の肌の柔らかさ。そうした細部が、いつもより静かに、しかし確かに見えてくる。 曇り空の下では、光の方向が曖昧になる。陰影は朧げとなり、被写体はフラットに並ぶ。「好き嫌い」や「主観的なドラマ」が剥ぎ取られ、“そこにある現実”が、淡々と立ち上がる。 曇りの日の写真には、静けさが宿る。 白や黒はやさしく溶け、街はグレースケールの海になる。それは“被写体の集合体”ではなく、“世界そのもの”を写すような感覚かもしれない。 「曇ってしまいましたね」と言われた時、僕は思う。曇りの日にしか見えない世界があることを。 そして曇り空の下で、柔らかな世界にカメラを向けてシャッターを切る。