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中央線の西側、西荻窪に響く音
西荻窪は、長らく「地味な街」だったと思う。高円寺や阿佐ヶ谷のような知名度はなく、他エリアから訪れる人もごく限られていた。それがこの街の魅力でもあった。ローカルな静けさ、”外部から切り離された”時間の中にいた。 ところが最近、西荻窪にも変化が訪れている。駅前には大規模なサウナ施設ができ、ライブハウスやクラフトビールの店もオープン。それら新しい街の顔を目当てに「観光」している人の姿を見かけることも増えてきた。 それでもまだこの街に独特の空気は十分残っている。 新しくできた場所にも、どこか“外部から切り離された”空気が漂っている。外の世界に流されることなく構築された空間は不可侵にも見える。 駅から少し歩けばもちろん、昔ながらの花屋や古書店、アンティーク家具の店が点在している。そこに住む人たちの生活が型抜きされて物質化したような街並みだ。 この日、着けたのはSEIKO「Asie」のシルバーダイヤルモデル。 フランス語で「鋼鉄」を意味する“acier”に由来する名前を持つこのモデルは、その名にふさわしく、ステンレスブレスとケースが一体になったような直線的で冷ややかな質感。文字盤はシルバーのヘアライン仕上げ。光の角度によって金属的にも柔らかくも見える絶妙なトーンで、時代を超えて通用する品格がある。現代のSEIKOではあまり見かけない“彫刻的な工業美”が宿っている。 この日も、特に目的を定めることもなく、写真を撮りながら街のあちらこちらを行ったり来たり。角を曲がるたびに何かが“そこにある”。カメラを構えるまでに少しの時間でそれは消えてしまうこともある。何が撮りたいのかなんてはっきりしていない。 変わらないものに惹かれる気持ちは、変わっていくものに抗う気持ちと紙一重だ。時代に流されたくないという気持ちも、いつかは時代の中に沈む。西荻窪の街を歩いていると、そんなことを考える。
中央線の西側、西荻窪に響く音
西荻窪は、長らく「地味な街」だったと思う。高円寺や阿佐ヶ谷のような知名度はなく、他エリアから訪れる人もごく限られていた。それがこの街の魅力でもあった。ローカルな静けさ、”外部から切り離された”時間の中にいた。 ところが最近、西荻窪にも変化が訪れている。駅前には大規模なサウナ施設ができ、ライブハウスやクラフトビールの店もオープン。それら新しい街の顔を目当てに「観光」している人の姿を見かけることも増えてきた。 それでもまだこの街に独特の空気は十分残っている。 新しくできた場所にも、どこか“外部から切り離された”空気が漂っている。外の世界に流されることなく構築された空間は不可侵にも見える。 駅から少し歩けばもちろん、昔ながらの花屋や古書店、アンティーク家具の店が点在している。そこに住む人たちの生活が型抜きされて物質化したような街並みだ。 この日、着けたのはSEIKO「Asie」のシルバーダイヤルモデル。 フランス語で「鋼鉄」を意味する“acier”に由来する名前を持つこのモデルは、その名にふさわしく、ステンレスブレスとケースが一体になったような直線的で冷ややかな質感。文字盤はシルバーのヘアライン仕上げ。光の角度によって金属的にも柔らかくも見える絶妙なトーンで、時代を超えて通用する品格がある。現代のSEIKOではあまり見かけない“彫刻的な工業美”が宿っている。 この日も、特に目的を定めることもなく、写真を撮りながら街のあちらこちらを行ったり来たり。角を曲がるたびに何かが“そこにある”。カメラを構えるまでに少しの時間でそれは消えてしまうこともある。何が撮りたいのかなんてはっきりしていない。 変わらないものに惹かれる気持ちは、変わっていくものに抗う気持ちと紙一重だ。時代に流されたくないという気持ちも、いつかは時代の中に沈む。西荻窪の街を歩いていると、そんなことを考える。

写真用プリンターと用紙の選び方|染料インク・顔料インクと光沢紙・アート紙の魅力
写真用プリンターには大きく分けて「染料インク」と「顔料インク」の2種類があります。染料インクは発色が鮮やかで階調もなめらか。特に光沢紙との相性が良く、アルバムやスナップ写真を“写真らしい仕上がり”で楽しめます。一方の顔料インクは保存性に優れ、紫外線や湿気にも強いのが特徴です。マット紙やファインアート紙に印刷すると、紙の質感そのものが作品性を高め、まさに“飾るためのプリント”になります。 用紙選びも仕上がりを大きく左右します。光沢紙は鮮やかで華やか、半光沢紙は落ち着いたトーンで展示にも向きます。マット紙は反射が少なく自然な質感で、文章やイラストとの組み合わせにも使いやすい。そしてファインアート紙は、ハーネミューレやイルフォードといった世界的ブランドが代表的で、厚みや繊維感が写真にもう一層の深みを与えます。一般的な店頭プリントとの差を最も強く感じられるのは、このファインアート系でしょう。 印刷作品を飾ったり個展を開くことを想定するなら、特に顔料プリンターがおすすめです。マット系のアート紙にプリントした際の絵画のような仕上がりは、染料プリンターでは得にくい質感です。光沢紙への出力も十分美しく、染料タイプに大きく劣るということはありません。 プリントのステップとしては、まず純正の光沢紙で基本を押さえ、次に半光沢やマットを試し、最後にアート紙に挑戦するのがおすすめ。アート紙は1枚数百円とやや高価ですが、作品としての存在感は格別です。失敗しても経験になりますから、恐れず挑戦してみることでプリントの楽しみは大きく広がります。
写真用プリンターと用紙の選び方|染料インク・顔料インクと光沢紙・アート紙の魅力
写真用プリンターには大きく分けて「染料インク」と「顔料インク」の2種類があります。染料インクは発色が鮮やかで階調もなめらか。特に光沢紙との相性が良く、アルバムやスナップ写真を“写真らしい仕上がり”で楽しめます。一方の顔料インクは保存性に優れ、紫外線や湿気にも強いのが特徴です。マット紙やファインアート紙に印刷すると、紙の質感そのものが作品性を高め、まさに“飾るためのプリント”になります。 用紙選びも仕上がりを大きく左右します。光沢紙は鮮やかで華やか、半光沢紙は落ち着いたトーンで展示にも向きます。マット紙は反射が少なく自然な質感で、文章やイラストとの組み合わせにも使いやすい。そしてファインアート紙は、ハーネミューレやイルフォードといった世界的ブランドが代表的で、厚みや繊維感が写真にもう一層の深みを与えます。一般的な店頭プリントとの差を最も強く感じられるのは、このファインアート系でしょう。 印刷作品を飾ったり個展を開くことを想定するなら、特に顔料プリンターがおすすめです。マット系のアート紙にプリントした際の絵画のような仕上がりは、染料プリンターでは得にくい質感です。光沢紙への出力も十分美しく、染料タイプに大きく劣るということはありません。 プリントのステップとしては、まず純正の光沢紙で基本を押さえ、次に半光沢やマットを試し、最後にアート紙に挑戦するのがおすすめ。アート紙は1枚数百円とやや高価ですが、作品としての存在感は格別です。失敗しても経験になりますから、恐れず挑戦してみることでプリントの楽しみは大きく広がります。

写真プリント入門記|試行錯誤から見つける“自分の正解”
写真を続けていると、いつか「写真をプリントしてみたい」と思う瞬間がやってくる。モニターで眺めていた一枚を紙に定着させ、手触りや重みを感じたくなるのだ。しかし、いざ始めようとすると、プリンターの選び方や用紙選び、色合わせ(カラーマネジメント)など、戸惑うことも多いだろう。 まず伝えたいのは、「完璧を求める必要はない」ということ。私は15年ほど前にCanonのPro-10を使い始めたが、もちろん当初から色合わせや用紙選びに詳しかったわけではない。光沢紙で安っぽい仕上がりになってしまったこともあれば、マット紙で想像以上に色が沈んでしまったこともある。その試行錯誤を重ねるうちに、自分の好みや“正解”が少しずつ形になっていった。これこそが、写真プリントの大きな楽しみの一つだ。 色を正確に再現しようと思えばキャリブレーション用モニターが必要になるが、最初からそこまで構える必要はない。特にMacBookのディスプレイは初期状態でも発色の安定性が高く、多くのケースで十分実用に耐える。本格的に色合わせを突き詰めたい段階になったら、専用モニターや測定器を導入すれば良い。 用紙は写真の印象を大きく変える要素だ。光沢紙、半光沢紙、マット紙──それぞれの質感と発色の違いは、自分で同じ写真を複数の用紙でプリントして比べることで初めてわかると言っても良い。この経験は、プリントの魅力を何倍にもしてくれる。 プリントは、撮影の先に新たな“完成の瞬間”を与えてくれる。パソコンの中の一枚が、紙の上で初めて呼吸を始めるような感覚だ。写真プリントやプリンター選び、用紙選びに迷っているなら、まずは一歩踏み出してみることをおすすめする。
写真プリント入門記|試行錯誤から見つける“自分の正解”
写真を続けていると、いつか「写真をプリントしてみたい」と思う瞬間がやってくる。モニターで眺めていた一枚を紙に定着させ、手触りや重みを感じたくなるのだ。しかし、いざ始めようとすると、プリンターの選び方や用紙選び、色合わせ(カラーマネジメント)など、戸惑うことも多いだろう。 まず伝えたいのは、「完璧を求める必要はない」ということ。私は15年ほど前にCanonのPro-10を使い始めたが、もちろん当初から色合わせや用紙選びに詳しかったわけではない。光沢紙で安っぽい仕上がりになってしまったこともあれば、マット紙で想像以上に色が沈んでしまったこともある。その試行錯誤を重ねるうちに、自分の好みや“正解”が少しずつ形になっていった。これこそが、写真プリントの大きな楽しみの一つだ。 色を正確に再現しようと思えばキャリブレーション用モニターが必要になるが、最初からそこまで構える必要はない。特にMacBookのディスプレイは初期状態でも発色の安定性が高く、多くのケースで十分実用に耐える。本格的に色合わせを突き詰めたい段階になったら、専用モニターや測定器を導入すれば良い。 用紙は写真の印象を大きく変える要素だ。光沢紙、半光沢紙、マット紙──それぞれの質感と発色の違いは、自分で同じ写真を複数の用紙でプリントして比べることで初めてわかると言っても良い。この経験は、プリントの魅力を何倍にもしてくれる。 プリントは、撮影の先に新たな“完成の瞬間”を与えてくれる。パソコンの中の一枚が、紙の上で初めて呼吸を始めるような感覚だ。写真プリントやプリンター選び、用紙選びに迷っているなら、まずは一歩踏み出してみることをおすすめする。

写真を通して世界を見る|“自律した視点”
写真とは、世界を切り取る行為だ。それは撮り手の視点によって定まる。では、その視点はどこから来るのか。 他者と違う視点を持つことが「個性」として語られることがある。だが、視点の自律とは奇抜さや差異の大きさを競うことではない。 自分の感受性に忠実であること。何に惹かれ、何を排除するのか。どこに立つのか、見上げるのか、見下ろすのか。そうした選択のすべてが「視点」となる。 誰もがカメラを持ち、写真が溢れる時代に視点の希少性は失われたように思えるかもしれない。しかし、「自律した視点」を持っているかどうかを写真は残酷なほどに顕在化させる。曖昧なものに惹かれた時には、その曖昧さに誠実であること≒ファジーを許容することが重要だろう。 世界は二元的に成立していない。 世界はグラデーションで描かれているのだ。「世の中」や「大衆」に迎合することなく、そのグラデーションを俯瞰する視点こそが「自律した視点」となり、写真の中に現れるのである。
写真を通して世界を見る|“自律した視点”
写真とは、世界を切り取る行為だ。それは撮り手の視点によって定まる。では、その視点はどこから来るのか。 他者と違う視点を持つことが「個性」として語られることがある。だが、視点の自律とは奇抜さや差異の大きさを競うことではない。 自分の感受性に忠実であること。何に惹かれ、何を排除するのか。どこに立つのか、見上げるのか、見下ろすのか。そうした選択のすべてが「視点」となる。 誰もがカメラを持ち、写真が溢れる時代に視点の希少性は失われたように思えるかもしれない。しかし、「自律した視点」を持っているかどうかを写真は残酷なほどに顕在化させる。曖昧なものに惹かれた時には、その曖昧さに誠実であること≒ファジーを許容することが重要だろう。 世界は二元的に成立していない。 世界はグラデーションで描かれているのだ。「世の中」や「大衆」に迎合することなく、そのグラデーションを俯瞰する視点こそが「自律した視点」となり、写真の中に現れるのである。

中央線の西側、吉祥寺の手触り
吉祥寺と言えば「住みたい街ランキング」の常連として知られているだろう。同時に近郊に住む人らの集まる観光地でもある。 週末になれば街は人で溢れ、小さな子どもを連れた家族やカップルで賑わう。商業施設も多く、食べるものも買うものもなんでも揃っている。一度来て街を数時間歩いただけだと高円寺や阿佐ヶ谷のような「中央線文化圏」とは一線を画すように感じられるかもしれない。 しかし、確かに吉祥寺には「中央線文化の匂い」が残っている。 わかりやすいのはやはりランドマーク、ハモニカ横丁だろう。それは「観光地化」の代名詞でもあるけれど、時間をかけて付き合うと、そこには他の中央線の街に漂うのと同じ空気が流れていることがわかる。昼間から飲める居酒屋、狭い階段を上った先の喫茶店、骨董店にアメリカンカジュアルの服飾店。それは図らずも「中央線文化」のテーマパークのようでもある。 街としては端正だ。その整いの中で時折、柔らかくも芯のある「ナニカ」に触ることがある。ピストバイクを手足のように操る若い人、閉店後のシャッターの前で楽器を奏でるミュージシャン、井の頭の森から迷い込んでしまった狸。そのどれもが、吉祥寺を吉祥寺たらしめている。 今の私にとっては一番「近所の街」なのでふとした合間に出かけて行って写真を撮る。身内の写真を撮る時のような気恥ずかしさが微かにあるかもしれない。整っていながら、どこかすき間がある。そのすき間から吹く風を或いはすき間それ自体の感触を確かめるようにシャッターを切る。 この日は、SEIKOのSUPERIOR 9983-8000を着けて歩いた。 GRANDの上位にも位置付けられるSUPERIORの中でも、ツインクォーツを採用したこのモデルは精度と共に極めて洗練されたフォルム。近所のお散歩には過ぎた腕時計かもしれなけれど、そういうのが良いとも思う。シャッターを切るたび、メタルブレスも微かに鳴った。 吉祥寺は、誰にでも開かれている街だ。そのカジュアルな外見に囚われて「ナニカ」を見逃さないように注意深く歩を進めて欲しい。
中央線の西側、吉祥寺の手触り
吉祥寺と言えば「住みたい街ランキング」の常連として知られているだろう。同時に近郊に住む人らの集まる観光地でもある。 週末になれば街は人で溢れ、小さな子どもを連れた家族やカップルで賑わう。商業施設も多く、食べるものも買うものもなんでも揃っている。一度来て街を数時間歩いただけだと高円寺や阿佐ヶ谷のような「中央線文化圏」とは一線を画すように感じられるかもしれない。 しかし、確かに吉祥寺には「中央線文化の匂い」が残っている。 わかりやすいのはやはりランドマーク、ハモニカ横丁だろう。それは「観光地化」の代名詞でもあるけれど、時間をかけて付き合うと、そこには他の中央線の街に漂うのと同じ空気が流れていることがわかる。昼間から飲める居酒屋、狭い階段を上った先の喫茶店、骨董店にアメリカンカジュアルの服飾店。それは図らずも「中央線文化」のテーマパークのようでもある。 街としては端正だ。その整いの中で時折、柔らかくも芯のある「ナニカ」に触ることがある。ピストバイクを手足のように操る若い人、閉店後のシャッターの前で楽器を奏でるミュージシャン、井の頭の森から迷い込んでしまった狸。そのどれもが、吉祥寺を吉祥寺たらしめている。 今の私にとっては一番「近所の街」なのでふとした合間に出かけて行って写真を撮る。身内の写真を撮る時のような気恥ずかしさが微かにあるかもしれない。整っていながら、どこかすき間がある。そのすき間から吹く風を或いはすき間それ自体の感触を確かめるようにシャッターを切る。 この日は、SEIKOのSUPERIOR 9983-8000を着けて歩いた。 GRANDの上位にも位置付けられるSUPERIORの中でも、ツインクォーツを採用したこのモデルは精度と共に極めて洗練されたフォルム。近所のお散歩には過ぎた腕時計かもしれなけれど、そういうのが良いとも思う。シャッターを切るたび、メタルブレスも微かに鳴った。 吉祥寺は、誰にでも開かれている街だ。そのカジュアルな外見に囚われて「ナニカ」を見逃さないように注意深く歩を進めて欲しい。

写真の構図とは何か|意味・意図に頼らないフレーミング論
「構図」には、しばしば“意味”や“意図”の伝達が求められる。視線誘導の線、主題の配置、背景の整理を意図することが「良い構図」につながるという理屈だ。確かにロジックの一つではあるだろう。 しかし、意味や意図の明確さが、写真の価値と直結するとは思わない。それなら、構図もまた違う視点から捉えられていいはずだ。 構図とは、単なる物の配置ではない。そこに写り込んだあらゆる要素――光の量、色の濃淡、シャッターのタイミング、ピントのズレやブレも含めた“全体”で成立している。ブレは平面に焼きつけられた運動であり、ピンボケは視界の不確かさの写しだ。それらは撮影者の意図を超え更には鑑賞者が容易に把握し得る意味をも超える。 意味や意図が伝わることは、写真の持つ力の一側面にすぎない。その一側面に囚われてしまえば「写真」は不自由なものになる。 構図とはつまり、写真に写ったすべてのものの配置、というよりも“存在した事象それ自体からなる構成物”に近い。綺麗な整理よりも「リアルな」関係性として、それは表層的な意味や意図を超えて強く響くことがある。 私は今も構図について考えている。けれど、答えを出すつもりはない。それは優れた答えを出すことよりも、問い続けることのほうが正解にいくらか近づける気がするからだ。
写真の構図とは何か|意味・意図に頼らないフレーミング論
「構図」には、しばしば“意味”や“意図”の伝達が求められる。視線誘導の線、主題の配置、背景の整理を意図することが「良い構図」につながるという理屈だ。確かにロジックの一つではあるだろう。 しかし、意味や意図の明確さが、写真の価値と直結するとは思わない。それなら、構図もまた違う視点から捉えられていいはずだ。 構図とは、単なる物の配置ではない。そこに写り込んだあらゆる要素――光の量、色の濃淡、シャッターのタイミング、ピントのズレやブレも含めた“全体”で成立している。ブレは平面に焼きつけられた運動であり、ピンボケは視界の不確かさの写しだ。それらは撮影者の意図を超え更には鑑賞者が容易に把握し得る意味をも超える。 意味や意図が伝わることは、写真の持つ力の一側面にすぎない。その一側面に囚われてしまえば「写真」は不自由なものになる。 構図とはつまり、写真に写ったすべてのものの配置、というよりも“存在した事象それ自体からなる構成物”に近い。綺麗な整理よりも「リアルな」関係性として、それは表層的な意味や意図を超えて強く響くことがある。 私は今も構図について考えている。けれど、答えを出すつもりはない。それは優れた答えを出すことよりも、問い続けることのほうが正解にいくらか近づける気がするからだ。