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久しぶりに革靴を買った

久しぶりに革靴を買った

久しぶりに革靴を買った。Scotch Grainという日本のメーカーのものだ。 最近はずっとスニーカーばかりだったし、革靴を買うつもりもまるでなかったのだけれど、古着店で見かけて、未使用に近いような美品、サイズもぴったりだったので、衝動的に購入した。 街で写真を撮り始めてからは、とにかく、たくさん歩くようになった。 徒歩の“線”では、街の“面”を埋めることなんて到底できないのだけれど、それでも、出来るだけ“隈なく”世界をなぞりたいというような気持ちがあった。 そういう撮り方をする時には、どうしても足元はスニーカーになった。革靴を履く選択肢はなかった。 今日はどれだけ歩いたか、何枚撮ったか。そういうことが、やはりどこか気になっていたのだろう。たくさん歩いた日は、それだけで「今日はちゃんと写真を撮った」気がして、安堵したのだろう。 最近、そういう感覚が少し薄れてきた。 写真を取りにいっても、それほど歩かない日もあるし、何も撮れていない日も受け入れられる。 もしかすると、その変化が、革靴を買った“見えない動機”だったかもしれない。 久しぶりに、歩くための靴ではなく、履きたい靴を選んだ。 まあ、そういうのはもちろん後付けであって、ただ、久しぶりに買った新しい革靴が気に入っている、というだけのことだろう。 履くと、少し気分が変わるが変わるのが楽しい。もちろん、ストリートフォトは、出来るだけたくさん撮った方がいいし、“もう充分撮った”なんてことは全くない。 スニーカーもまだまだ必要だし、これからもたくさん歩かなくてはな、と思う。ただ、「今日は革靴でもいいか」と思える日が出来た。少なくとも、今はそれがある。 その変化もネガティヴなものだとは思わない。

久しぶりに革靴を買った

久しぶりに革靴を買った。Scotch Grainという日本のメーカーのものだ。 最近はずっとスニーカーばかりだったし、革靴を買うつもりもまるでなかったのだけれど、古着店で見かけて、未使用に近いような美品、サイズもぴったりだったので、衝動的に購入した。 街で写真を撮り始めてからは、とにかく、たくさん歩くようになった。 徒歩の“線”では、街の“面”を埋めることなんて到底できないのだけれど、それでも、出来るだけ“隈なく”世界をなぞりたいというような気持ちがあった。 そういう撮り方をする時には、どうしても足元はスニーカーになった。革靴を履く選択肢はなかった。 今日はどれだけ歩いたか、何枚撮ったか。そういうことが、やはりどこか気になっていたのだろう。たくさん歩いた日は、それだけで「今日はちゃんと写真を撮った」気がして、安堵したのだろう。 最近、そういう感覚が少し薄れてきた。 写真を取りにいっても、それほど歩かない日もあるし、何も撮れていない日も受け入れられる。 もしかすると、その変化が、革靴を買った“見えない動機”だったかもしれない。 久しぶりに、歩くための靴ではなく、履きたい靴を選んだ。 まあ、そういうのはもちろん後付けであって、ただ、久しぶりに買った新しい革靴が気に入っている、というだけのことだろう。 履くと、少し気分が変わるが変わるのが楽しい。もちろん、ストリートフォトは、出来るだけたくさん撮った方がいいし、“もう充分撮った”なんてことは全くない。 スニーカーもまだまだ必要だし、これからもたくさん歩かなくてはな、と思う。ただ、「今日は革靴でもいいか」と思える日が出来た。少なくとも、今はそれがある。 その変化もネガティヴなものだとは思わない。

“写真の言語化”は必要か?

“写真の言語化”は必要か?

写真を撮っていると、聞かれることがある。   「この写真、どういう意味なんですか?」 「コンセプトは?」 「キャプションはつけないんですか?」 キャプションやステートメントがあったほうが良い場面はもちろんあるだろう。 展示、販売、SNS、ブランドとしての発信。 何も書かないより、言葉を添えたが意図は伝わりやすい。 一方で、こう思う。   “言葉”で写真を語り尽くすことは、決してできない。   言葉にできない。 その「余白」こそが、写真やアートと呼ばれるものの本質だと言っても良いだろう。   その言葉がいかに詩的だろうと哲学的だろうとそれは変わらない。   説明される前に生じた感情、それは肯定的なものである必要もない。 「理由はわからないけど気になる」 その感覚のほうが大切だ。 いや、大切かどうかはわからないけれど、私は面白いと思う。   たとえば、インストゥルメンタルの音楽を思い浮かべてみて欲しい。 ポストロックとか、アンビエントとか。 歌詞はない。 メロディーは説明されない。 でも、それは人々の心を打つ。   “答え”はない。 感じたことが、その人にとっての正解だ。...

“写真の言語化”は必要か?

写真を撮っていると、聞かれることがある。   「この写真、どういう意味なんですか?」 「コンセプトは?」 「キャプションはつけないんですか?」 キャプションやステートメントがあったほうが良い場面はもちろんあるだろう。 展示、販売、SNS、ブランドとしての発信。 何も書かないより、言葉を添えたが意図は伝わりやすい。 一方で、こう思う。   “言葉”で写真を語り尽くすことは、決してできない。   言葉にできない。 その「余白」こそが、写真やアートと呼ばれるものの本質だと言っても良いだろう。   その言葉がいかに詩的だろうと哲学的だろうとそれは変わらない。   説明される前に生じた感情、それは肯定的なものである必要もない。 「理由はわからないけど気になる」 その感覚のほうが大切だ。 いや、大切かどうかはわからないけれど、私は面白いと思う。   たとえば、インストゥルメンタルの音楽を思い浮かべてみて欲しい。 ポストロックとか、アンビエントとか。 歌詞はない。 メロディーは説明されない。 でも、それは人々の心を打つ。   “答え”はない。 感じたことが、その人にとっての正解だ。...

大きいカメラと小さいカメラ

大きいカメラと小さいカメラ

色々なカメラを使っているけど、 中でもストリートフォトによく使うのは、 PENTAXの 645D と、 Nikonの COOLPIX S9400だ。 両機種を知っている人はすぐわかるのだけれど、非常に大きさに差がある。 一つは、軽く息を吸って気持ちを整えてから持ち上げるタイプのカメラで、 もう片方はポケットに入っているのを忘れてしまうタイプのカメラだ。 重量差を改めて比べてみた。 【ペンタックス645D + FA645 45-85mm F4.5】 • 645D本体(バッテリー・カード含):約 1480 g(1.48 kg)   • FA645 45-85mm F4.5 標準ズーム:約 870 g(0.87...

大きいカメラと小さいカメラ

色々なカメラを使っているけど、 中でもストリートフォトによく使うのは、 PENTAXの 645D と、 Nikonの COOLPIX S9400だ。 両機種を知っている人はすぐわかるのだけれど、非常に大きさに差がある。 一つは、軽く息を吸って気持ちを整えてから持ち上げるタイプのカメラで、 もう片方はポケットに入っているのを忘れてしまうタイプのカメラだ。 重量差を改めて比べてみた。 【ペンタックス645D + FA645 45-85mm F4.5】 • 645D本体(バッテリー・カード含):約 1480 g(1.48 kg)   • FA645 45-85mm F4.5 標準ズーム:約 870 g(0.87...

“正しい色”は写真に必要か

“正しい色”は写真に必要か

SNSでは「フィルムライクな色」がウケるとよく言われる。 現像ソフトは高機能になり、プリセットが売られ、参考となる“模範解答”のような色が簡単に手に入る。そしてそれから派生するように「正しい色」みたいな概念が生まれつつある。 そんな中で、「写真に“正しい色”を求める必要があるだろうか」という疑問を、頭の片隅に置いておく価値はあるだろう。 “プリセット”というのは、「最初から色が決められている」ことだ。 仕事の現場でスピードが求められたり、クライアントと完成イメージを素早く共有したいときには、これはものすごく役に立つ。 時間に追われるような条件の中で、ちょうどイメージ通りのプリセットが見つかれば、それを購入して使うのは非常に合理的な判断だと思う。ただ、自分のために撮る写真や、自由であっていい写真まで、その“前もって決められた色”を用いる必要があるのかどうかは慎重に考えてみても良いだろう。 まず現像の「基本」や「最低限」について考えてみよう。それは全然複雑なものではない。大きく白飛びしすぎていないこと、大きく黒潰れしすぎていないこと、色が飽和するような彩度になっていないこと、まずはそれくらいで十分だと言っても良いくらいだ。 それらの「基本」だって、「それが求められる」場合は確かに多いけれど、ほとんど白で飛んでしまった画面に一部のころ影や彩度が飽和した花がクールだということだって普通に存在する。 そう“正しい色”は実は無い。 トーンカーブを使えば繊細な調整が出来るし、「プロならトーンカーブを使うのが当たり前」というようなことをいう職業フォトグラファーも見かける。 しかし、使えないと“良い写真”にならないかといえば、決してそんなことはない。そう、全くそんなことはないのだ。 もしトーンカーブの設定、数字や操作がよくわからなければ、自分が求めている雰囲気を抽象的でも構わないからAIに相談して、具体的な数値等は提案してもらったって構わない。 現像の知識量が写真の価値に影響する割合なんてほとんど誤差みたいなものかもしれない。 むしろ、恐れるべきは「正しさ」に合わせることが目的にな理、自分をそこに押し込めてしまうことだ。写真に真面目に取り組む人ほど、そういった“罠”に陥りやすいかもしれない。 技術として覚えていくことも当然有用ではあるけれど、その過程であなたの写真に有る価値が損なわれてしまっては本末転倒だ。 もちろん「正しい色」を目指したって構わない。ただ、そこへ向かわなければという風には考えないほうが良い。 デジタル写真における現像は“正解を目指す作業”にするよりは、“シャッターを切った瞬間の感情と画面に見えているものを擦り合わせる作業”だと思っていたほうが、きっと楽しい。 そう思うだけで、もう少し自由になれるはずだ。  

“正しい色”は写真に必要か

SNSでは「フィルムライクな色」がウケるとよく言われる。 現像ソフトは高機能になり、プリセットが売られ、参考となる“模範解答”のような色が簡単に手に入る。そしてそれから派生するように「正しい色」みたいな概念が生まれつつある。 そんな中で、「写真に“正しい色”を求める必要があるだろうか」という疑問を、頭の片隅に置いておく価値はあるだろう。 “プリセット”というのは、「最初から色が決められている」ことだ。 仕事の現場でスピードが求められたり、クライアントと完成イメージを素早く共有したいときには、これはものすごく役に立つ。 時間に追われるような条件の中で、ちょうどイメージ通りのプリセットが見つかれば、それを購入して使うのは非常に合理的な判断だと思う。ただ、自分のために撮る写真や、自由であっていい写真まで、その“前もって決められた色”を用いる必要があるのかどうかは慎重に考えてみても良いだろう。 まず現像の「基本」や「最低限」について考えてみよう。それは全然複雑なものではない。大きく白飛びしすぎていないこと、大きく黒潰れしすぎていないこと、色が飽和するような彩度になっていないこと、まずはそれくらいで十分だと言っても良いくらいだ。 それらの「基本」だって、「それが求められる」場合は確かに多いけれど、ほとんど白で飛んでしまった画面に一部のころ影や彩度が飽和した花がクールだということだって普通に存在する。 そう“正しい色”は実は無い。 トーンカーブを使えば繊細な調整が出来るし、「プロならトーンカーブを使うのが当たり前」というようなことをいう職業フォトグラファーも見かける。 しかし、使えないと“良い写真”にならないかといえば、決してそんなことはない。そう、全くそんなことはないのだ。 もしトーンカーブの設定、数字や操作がよくわからなければ、自分が求めている雰囲気を抽象的でも構わないからAIに相談して、具体的な数値等は提案してもらったって構わない。 現像の知識量が写真の価値に影響する割合なんてほとんど誤差みたいなものかもしれない。 むしろ、恐れるべきは「正しさ」に合わせることが目的にな理、自分をそこに押し込めてしまうことだ。写真に真面目に取り組む人ほど、そういった“罠”に陥りやすいかもしれない。 技術として覚えていくことも当然有用ではあるけれど、その過程であなたの写真に有る価値が損なわれてしまっては本末転倒だ。 もちろん「正しい色」を目指したって構わない。ただ、そこへ向かわなければという風には考えないほうが良い。 デジタル写真における現像は“正解を目指す作業”にするよりは、“シャッターを切った瞬間の感情と画面に見えているものを擦り合わせる作業”だと思っていたほうが、きっと楽しい。 そう思うだけで、もう少し自由になれるはずだ。  

“写真の上手い写真家”の価値

“写真の上手い写真家”の価値

日本を代表する写真家と言えば、荒木経惟や森山大道の名前がまず挙がるだろう。 例えば、篠山紀信や上田義彦と比べたとき、この二人を“写真の上手い写真家“だと思わない人も少なくないのかもしれない。 荒木経惟には「人妻エロス」シリーズに象徴される露骨な作品が多いし、どこか“撮り放した”ようにも見えるスナップも多い。 森山大道のイメージに直結する、「アレ・ブレ・ボケ」も、少なくとも分かりやすい意味での“写真の上手さ”からは距離のある概念だろう。 しかし彼らが世界的な評価を受けているという事実は揺るがない。 そしてこれは決して逆説ではない。 荒木経惟も森山大道も、間違いなく、極めて「写真の上手い写真家」なのだ。   ここでまず想起すべきは、二人の職業フォトグラファーとしてのスタートだ。 荒木経惟は電通でコマーシャルフォトの現場に身を置き、厳密な要求と制約の中で写真を撮ってきた。 森山大道もまた、細江英公のアシスタントとして、最先端のプロフェッショナルな写真制作現場を経験している。 二人とも、どこか一匹狼のような印象があるが、実際にはフォトグラファーとしての確固たるバックボーンを持ち、技術や現場感覚を身体に叩き込んだ上で、自らの表現へと向かっていると言える。 世界的な評価を得ている写真家が、実は極めて“正統的に写真が上手い”という事実は、しばしば見過ごされがちだ。 だがこれは、写真という表現を考える上で、かなり重要な前提だと思う。   一方で、ここから話はもう一段進む。 ここで言いたいのは「世界的な写真家として認められるためには写真が上手くなくてはならない」ということではない。   技術的に未熟な写真が、人の記憶に深く残ることは大いにある。 完璧に整った写真が、何も残さず通り過ぎていくこともある。 「上手さ」が「良さ」と一致しないことは、写真を続けていれば誰もが体感的に知っているだろう。 もちろん、上手さは「有用」だ。 しかしそれは価値の中心ではなく、前提条件に近い。 荒木経惟や森山大道の写真が評価され続けている理由は、「上手いから」ではない。   仮に明らかに写真が「下手」であると認識されていながら、荒木や森山のように世界的な評価を受ける写真家がいたらどうだろう。 率直に言うと私はそれに該当する写真家を知らない。しかし、それは決してあり得ないことではないどころか、むしろあって然るべきだろう。 それに直面した時、写真家にとって“上手い”ことの価値とはなんだろうと、きっと深く考えることになるだろう。

“写真の上手い写真家”の価値

日本を代表する写真家と言えば、荒木経惟や森山大道の名前がまず挙がるだろう。 例えば、篠山紀信や上田義彦と比べたとき、この二人を“写真の上手い写真家“だと思わない人も少なくないのかもしれない。 荒木経惟には「人妻エロス」シリーズに象徴される露骨な作品が多いし、どこか“撮り放した”ようにも見えるスナップも多い。 森山大道のイメージに直結する、「アレ・ブレ・ボケ」も、少なくとも分かりやすい意味での“写真の上手さ”からは距離のある概念だろう。 しかし彼らが世界的な評価を受けているという事実は揺るがない。 そしてこれは決して逆説ではない。 荒木経惟も森山大道も、間違いなく、極めて「写真の上手い写真家」なのだ。   ここでまず想起すべきは、二人の職業フォトグラファーとしてのスタートだ。 荒木経惟は電通でコマーシャルフォトの現場に身を置き、厳密な要求と制約の中で写真を撮ってきた。 森山大道もまた、細江英公のアシスタントとして、最先端のプロフェッショナルな写真制作現場を経験している。 二人とも、どこか一匹狼のような印象があるが、実際にはフォトグラファーとしての確固たるバックボーンを持ち、技術や現場感覚を身体に叩き込んだ上で、自らの表現へと向かっていると言える。 世界的な評価を得ている写真家が、実は極めて“正統的に写真が上手い”という事実は、しばしば見過ごされがちだ。 だがこれは、写真という表現を考える上で、かなり重要な前提だと思う。   一方で、ここから話はもう一段進む。 ここで言いたいのは「世界的な写真家として認められるためには写真が上手くなくてはならない」ということではない。   技術的に未熟な写真が、人の記憶に深く残ることは大いにある。 完璧に整った写真が、何も残さず通り過ぎていくこともある。 「上手さ」が「良さ」と一致しないことは、写真を続けていれば誰もが体感的に知っているだろう。 もちろん、上手さは「有用」だ。 しかしそれは価値の中心ではなく、前提条件に近い。 荒木経惟や森山大道の写真が評価され続けている理由は、「上手いから」ではない。   仮に明らかに写真が「下手」であると認識されていながら、荒木や森山のように世界的な評価を受ける写真家がいたらどうだろう。 率直に言うと私はそれに該当する写真家を知らない。しかし、それは決してあり得ないことではないどころか、むしろあって然るべきだろう。 それに直面した時、写真家にとって“上手い”ことの価値とはなんだろうと、きっと深く考えることになるだろう。

最近、Babourをよく着ている──“ファッション”と“スタイル”

最近、Babourをよく着ている──“ファッション”と“スタイル”

写真、カメラの記事です。   最近、街でBarbourのジャケットを着ている人をよく見かけるようになった。 SNSで話題になっていることも多い。   「Barbourが流行っている」のだろう。 その流行とはあまり関係なく、 僕もここ数年よくバブアーを着ている。   お気に入りはBedaleだ。 程よい丈の長さ、しっかりとした作りの大きいポケットは、 “街を撮る”のと相性がいい。 ジャケットや靴、バッグとか衣料品は割と好きだけど、 いわゆる“ファッション好き”ではない。   流行そのものを追うことはほとんど無いし、 誰かの着こなしを追いかけるようなこともない。   自分の生活や習慣に適切なもの、役に立つものを選んでいく、 という感覚が近いだろう。   「おしゃれかどうか」よりは「生活にフィットするかどうか」 という基準で選んでいると思う。   Barbourは元々はとても実用的な服だ。   そもそもの用途は乗馬や狩猟といったフィールドワーク。 英国の湿気の多い気候で、風や雨に耐え、 長く着られるように作られたワークウェアでもある。 だからこそ、あの大きなポケットや、...

最近、Babourをよく着ている──“ファッション”と“スタイル”

写真、カメラの記事です。   最近、街でBarbourのジャケットを着ている人をよく見かけるようになった。 SNSで話題になっていることも多い。   「Barbourが流行っている」のだろう。 その流行とはあまり関係なく、 僕もここ数年よくバブアーを着ている。   お気に入りはBedaleだ。 程よい丈の長さ、しっかりとした作りの大きいポケットは、 “街を撮る”のと相性がいい。 ジャケットや靴、バッグとか衣料品は割と好きだけど、 いわゆる“ファッション好き”ではない。   流行そのものを追うことはほとんど無いし、 誰かの着こなしを追いかけるようなこともない。   自分の生活や習慣に適切なもの、役に立つものを選んでいく、 という感覚が近いだろう。   「おしゃれかどうか」よりは「生活にフィットするかどうか」 という基準で選んでいると思う。   Barbourは元々はとても実用的な服だ。   そもそもの用途は乗馬や狩猟といったフィールドワーク。 英国の湿気の多い気候で、風や雨に耐え、 長く着られるように作られたワークウェアでもある。 だからこそ、あの大きなポケットや、...