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セレクトは“2度目のスナップ”
写真はシャッターを切った瞬間に終わらない。 撮ることと同じくらい、“セレクト”という行為は重要ではないかと思う。 セレクトは2度目のスナップだ。 街を歩きながらシャッターを切る時、人は何かに反応している。 それは光かもしれない、人の動きかもしれない、光景の珍しさかもしれない。“世界”を“自分”というフィルターで篩にかけている。 そして写真をセレクトする時も、ほとんど同じことをしている。 これは残したい。これは違う。そうやってもう一度、篩にかける。 セレクトの結果はいつも同じではない。 撮影した直後には見流していた写真に、数年経ったある日、急に目が止まることがある。 逆に、自信を持って選んだ写真が、後から見るととても退屈なものに感じることもある。 写真は変わっていない。変わっているのは、自分の方だ。 「量のない質はない」という格言がある。 量とは、単にシャッターを切った回数ではない。世界と出会った回数なのだと思う。 例えば、写真をほとんどやったことのない人が、一年間で一万枚のストリートスナップを撮ったとする。 その中から丁寧にセレクトし、少しだけトリミングをしたり、明るさを整えたら、きっと十分に作品になるだろう。 一万枚を撮ることはそれほど簡単ではないかもしれない。その過程に一万回の世界への反応がある。 明け方のカラス。水滴のついた落ち葉。住宅街を走り抜ける黒い車。倒れた看板。歪んだパイプ椅子。すれ違った交差点の誰か。 篩にかけられたそれらの“世界の欠片”をもう一度丁寧に篩にかけ直す。その作業が、その人の世界を少しずつ形づくっていく。写真の量とは技術を磨くためのものではない。それは世界を拡張する行為だ。 街で被写体を探すように、撮った写真の中から何かを見つける。 その行為は、撮影自体と本質的にかなり近い。世界に反応したように、写真に反応する。 だから私は、セレクトは2度目のスナップなのだと思う。
セレクトは“2度目のスナップ”
写真はシャッターを切った瞬間に終わらない。 撮ることと同じくらい、“セレクト”という行為は重要ではないかと思う。 セレクトは2度目のスナップだ。 街を歩きながらシャッターを切る時、人は何かに反応している。 それは光かもしれない、人の動きかもしれない、光景の珍しさかもしれない。“世界”を“自分”というフィルターで篩にかけている。 そして写真をセレクトする時も、ほとんど同じことをしている。 これは残したい。これは違う。そうやってもう一度、篩にかける。 セレクトの結果はいつも同じではない。 撮影した直後には見流していた写真に、数年経ったある日、急に目が止まることがある。 逆に、自信を持って選んだ写真が、後から見るととても退屈なものに感じることもある。 写真は変わっていない。変わっているのは、自分の方だ。 「量のない質はない」という格言がある。 量とは、単にシャッターを切った回数ではない。世界と出会った回数なのだと思う。 例えば、写真をほとんどやったことのない人が、一年間で一万枚のストリートスナップを撮ったとする。 その中から丁寧にセレクトし、少しだけトリミングをしたり、明るさを整えたら、きっと十分に作品になるだろう。 一万枚を撮ることはそれほど簡単ではないかもしれない。その過程に一万回の世界への反応がある。 明け方のカラス。水滴のついた落ち葉。住宅街を走り抜ける黒い車。倒れた看板。歪んだパイプ椅子。すれ違った交差点の誰か。 篩にかけられたそれらの“世界の欠片”をもう一度丁寧に篩にかけ直す。その作業が、その人の世界を少しずつ形づくっていく。写真の量とは技術を磨くためのものではない。それは世界を拡張する行為だ。 街で被写体を探すように、撮った写真の中から何かを見つける。 その行為は、撮影自体と本質的にかなり近い。世界に反応したように、写真に反応する。 だから私は、セレクトは2度目のスナップなのだと思う。
「写真は光」、だろうか?
「写真は光だ」一度は耳にする言葉だろう。 光を見る。 光を読む。 良い光を探す。 もちろん、間違っていない。写真は光がなければ成立しない。 レンズを通った光がフィルムやセンサーに届き、それが像として定着する。物理的な意味で言えば、写真は間違いなく光である。 ただ、私はこの言葉を聞くたびに少し不思議な気持ちになる。なぜなら、光がなければ写真にならないのは当然だからだ。自明のことをそんなにみんなで何度も言わなくたって良いのにな、という感覚かもしれない。 例えば「音楽は空気の振動だ」という言葉はほとんど聞かない。 雨や雲に拡散する柔らかな光。夕方の斜光。 折り重なる高層ビルの反射光。繁華街に差し始めた朝の清涼な光。 そういう光には、良い写真の予感があるかもしれない。 特徴的な空気感がそこには出やすい。魅力的に見える写真が撮れる条件の一つではあるのだろう。 しかし、“良い光”ばかりを気にしてしまうと弊害がある。それは、それ以外の無数の、わたしたちが気づかないだけで実際には偉大な可能性を秘めた光を、見逃してしまうことだ。 曇りの日がつまらなく感じる、真昼の平坦な光も面白くない、蛍光灯の下など論外だ、と思うかもしれない。 しかし、本当は違う。その中にしか存在しない美しさが必ずある。 曇りの日にしか見えない色、平坦な光の中にしか生まれないアウトライン、蛍光灯の下でしか見られない表情。 それは「良い光」と言ってもらえないかもしれない。しかし、それは紛れなく写真だ。 だから私は「良い光を探そう」と思わない。光は必然だ。 人間が感知できる“良い光”を信じるよりも、きっと、もっと世界に委ねた方が面白い。そこに光はあるのだから。
「写真は光」、だろうか?
「写真は光だ」一度は耳にする言葉だろう。 光を見る。 光を読む。 良い光を探す。 もちろん、間違っていない。写真は光がなければ成立しない。 レンズを通った光がフィルムやセンサーに届き、それが像として定着する。物理的な意味で言えば、写真は間違いなく光である。 ただ、私はこの言葉を聞くたびに少し不思議な気持ちになる。なぜなら、光がなければ写真にならないのは当然だからだ。自明のことをそんなにみんなで何度も言わなくたって良いのにな、という感覚かもしれない。 例えば「音楽は空気の振動だ」という言葉はほとんど聞かない。 雨や雲に拡散する柔らかな光。夕方の斜光。 折り重なる高層ビルの反射光。繁華街に差し始めた朝の清涼な光。 そういう光には、良い写真の予感があるかもしれない。 特徴的な空気感がそこには出やすい。魅力的に見える写真が撮れる条件の一つではあるのだろう。 しかし、“良い光”ばかりを気にしてしまうと弊害がある。それは、それ以外の無数の、わたしたちが気づかないだけで実際には偉大な可能性を秘めた光を、見逃してしまうことだ。 曇りの日がつまらなく感じる、真昼の平坦な光も面白くない、蛍光灯の下など論外だ、と思うかもしれない。 しかし、本当は違う。その中にしか存在しない美しさが必ずある。 曇りの日にしか見えない色、平坦な光の中にしか生まれないアウトライン、蛍光灯の下でしか見られない表情。 それは「良い光」と言ってもらえないかもしれない。しかし、それは紛れなく写真だ。 だから私は「良い光を探そう」と思わない。光は必然だ。 人間が感知できる“良い光”を信じるよりも、きっと、もっと世界に委ねた方が面白い。そこに光はあるのだから。
“思い出を写真にする”のか、“写真が思い出になる”のか
“思い出”を残したいから写真を撮る、ことがある。 旅行へ行った。記念日をお祝いした。懐かしい友人と会った。 そんな時に、写真を撮る。ごく自然なことだろう。 写真は“思い出”の役割を果たす。 何があったのか。誰といたのか。その時どんな場所にいたのか。 保存されたそれらの情報は“思い出”になる。 では、ストリートフォトはどうだろう。 もちろん、そこには情報が残っているけれど、“思い出”にするために撮っているかと言われれば違うような気がする。 観光をしているわけではないし、特別な日でもなければ、知り合いが写っているわけでもない。 しかし、それはやはり“思い出”であるような気がする。なぜなら、そこには撮り手の感情がしっかりと残っているからだ。 それは“嬉しい”とか“楽しい”、あるいは“この一瞬を忘れたくない”といった明確で強い感情ではないだろう。 見返した時に、なぜそこでシャッターを切ったのかわからないという写真もある。、それでも、そこに確実に感情、それに近い思考の揺らぎのようなものがあったのだ。 それは私の“思い出”だ。“思い出”を写真に撮ろうとせずとも、写真は“思い出”になる。 以前、写真は“記録”だ、と書いた。“思い出”と“記録”は違うではないか、と感じる人がいるかもしれない。 写真は“記録”であると同時に“思い出”なのだと私は思う。これは、光が“波”であると同時に“粒子”であることに似ている。 写真はその広がりにおいて“記録”であり、観測される瞬間は“思い出”のように振る舞うのだ。
“思い出を写真にする”のか、“写真が思い出になる”のか
“思い出”を残したいから写真を撮る、ことがある。 旅行へ行った。記念日をお祝いした。懐かしい友人と会った。 そんな時に、写真を撮る。ごく自然なことだろう。 写真は“思い出”の役割を果たす。 何があったのか。誰といたのか。その時どんな場所にいたのか。 保存されたそれらの情報は“思い出”になる。 では、ストリートフォトはどうだろう。 もちろん、そこには情報が残っているけれど、“思い出”にするために撮っているかと言われれば違うような気がする。 観光をしているわけではないし、特別な日でもなければ、知り合いが写っているわけでもない。 しかし、それはやはり“思い出”であるような気がする。なぜなら、そこには撮り手の感情がしっかりと残っているからだ。 それは“嬉しい”とか“楽しい”、あるいは“この一瞬を忘れたくない”といった明確で強い感情ではないだろう。 見返した時に、なぜそこでシャッターを切ったのかわからないという写真もある。、それでも、そこに確実に感情、それに近い思考の揺らぎのようなものがあったのだ。 それは私の“思い出”だ。“思い出”を写真に撮ろうとせずとも、写真は“思い出”になる。 以前、写真は“記録”だ、と書いた。“思い出”と“記録”は違うではないか、と感じる人がいるかもしれない。 写真は“記録”であると同時に“思い出”なのだと私は思う。これは、光が“波”であると同時に“粒子”であることに似ている。 写真はその広がりにおいて“記録”であり、観測される瞬間は“思い出”のように振る舞うのだ。
退屈な写真
写真を始めたばかりの頃は、刺激的な場所に行く方が、面白い写真が撮れるような気がした。 歌舞伎町。池袋の北口。渋谷センター街。 人が多く、情報量も多い。何かが起きそうな気配がある。 歩いているだけで“いかにも”な被写体が見つかるし、光景の変化も大きい。 写真を始めたばかりの頃に、そういった場所へ惹かれるのはごく自然なことだと思う。 しかし、今は静かな住宅街を歩いていることが多い。 特に刺激的な何かがあるわけではない。観光名所でもないし、人通りも少ない。 なるべくたくさん撮るようにしているけれど、繁華街を歩いている時のようには枚数も増えない。 少し前の自分が見たら退屈な写真を撮っているなと感じるかもしれない。 実際のところ、今の私がみてもその写真は退屈だと言っていい。 少なくとも、派手なネオンの街並み、そこを行き交うインパクトの強い人物を撮ったような写真と比べれば、地味ではある。 鳥の声が聞こえるばかりの住宅街。車の姿の少ない交差点。壁際の雑草に紛れた小さな花。 写っているのはそんなものだ。ただ、今はそれを撮っていることが自分にとって自然なことだと感じられる。 退屈な写真の方が優れている、という結論を導きたいわけではない。 派手な写真より静かな写真の方が深い。刺激的な写真より退屈な写真の方が成熟している。そういった考えはその逆の考えと同様に安直だと思う。 昔の自分が間違っていたわけではないし、今の私がそれを達観しているわけでもない。 ただ、その頃の自分と今の自分の反応するものが少し変わったというだけのことだ。 写真というのは、世界を撮っていて、同時にその時の自分を撮っているだろう。 同じ場所を歩いても、昨日と今日では撮るものが違う。季節によっても変わるし、きっとその日の機嫌によっても変わっているだろう。 その時の自分が素直に、自然に反応することが多分、重要だ。刺激的なものに反応する時もあれば、穏やかなものに反応するときもある。 どちらが上ということではない。その時の気分に素直に寄り添うのが良いだろう。そう、明日はふと歌舞伎町へ行きたくなるかもしれない。 そうやって自然でいることが写真を長く続けるコツだろう。そして、それは写真にとって実はかなり重要だ。
退屈な写真
写真を始めたばかりの頃は、刺激的な場所に行く方が、面白い写真が撮れるような気がした。 歌舞伎町。池袋の北口。渋谷センター街。 人が多く、情報量も多い。何かが起きそうな気配がある。 歩いているだけで“いかにも”な被写体が見つかるし、光景の変化も大きい。 写真を始めたばかりの頃に、そういった場所へ惹かれるのはごく自然なことだと思う。 しかし、今は静かな住宅街を歩いていることが多い。 特に刺激的な何かがあるわけではない。観光名所でもないし、人通りも少ない。 なるべくたくさん撮るようにしているけれど、繁華街を歩いている時のようには枚数も増えない。 少し前の自分が見たら退屈な写真を撮っているなと感じるかもしれない。 実際のところ、今の私がみてもその写真は退屈だと言っていい。 少なくとも、派手なネオンの街並み、そこを行き交うインパクトの強い人物を撮ったような写真と比べれば、地味ではある。 鳥の声が聞こえるばかりの住宅街。車の姿の少ない交差点。壁際の雑草に紛れた小さな花。 写っているのはそんなものだ。ただ、今はそれを撮っていることが自分にとって自然なことだと感じられる。 退屈な写真の方が優れている、という結論を導きたいわけではない。 派手な写真より静かな写真の方が深い。刺激的な写真より退屈な写真の方が成熟している。そういった考えはその逆の考えと同様に安直だと思う。 昔の自分が間違っていたわけではないし、今の私がそれを達観しているわけでもない。 ただ、その頃の自分と今の自分の反応するものが少し変わったというだけのことだ。 写真というのは、世界を撮っていて、同時にその時の自分を撮っているだろう。 同じ場所を歩いても、昨日と今日では撮るものが違う。季節によっても変わるし、きっとその日の機嫌によっても変わっているだろう。 その時の自分が素直に、自然に反応することが多分、重要だ。刺激的なものに反応する時もあれば、穏やかなものに反応するときもある。 どちらが上ということではない。その時の気分に素直に寄り添うのが良いだろう。そう、明日はふと歌舞伎町へ行きたくなるかもしれない。 そうやって自然でいることが写真を長く続けるコツだろう。そして、それは写真にとって実はかなり重要だ。
写真とグルーヴ
などと言うと、音楽評論のようかもしれないけれど、写真にも確かにグルーヴは存在していると思う。 そもそもグルーヴとは何だろうか。 音楽においてグルーヴという言葉は、リズムが正確であることを意味しない。 少し揺れていたり、わずかにズレていたりするのに、心地良く感じる。そういうものがグルーヴと呼ばれる。 写真にも近い感覚がある。 例えば、ただ整っているだけの写真。構図も露出も完璧で、水平もきっちり取れている。情報は整理され、非常に“正しい”。 もちろん、それはそれで悪くない。しかし、それはあまり記憶に残らなかったりする。 逆に、少し傾いていたり、わずかにブレていたり、余計とも言える情報が紛れている写真の方が、印象的なことがある。 そこには制御しきれていない何かが見える。 その感覚にグルーヴという言葉は割と近いように思う。 ここで勘違いしてはいけないのは、ラフであれば良い、“正しさ”から外れていれば良いということではない。 写真を始めたばかりの頃に、荒れている写真や偶然性の強い写真に惹かれるのはよくあることだろう。 整いすぎた写真よりも、そういった写真の方が“生っぽく”見える、写真のあるべき姿のように感じられるからだ。 しかし、撮り続けていくと、その感覚も少しずつ変わっていく。最初はグルーヴのように感じられたラフさは、次第に整理されていく。 そして、その整理された先に、また別のグルーヴのようなものが見えてくる。ちゃんと整えて撮っているはずなのに、どこか揺れている。 音楽でも、ただ荒々しいだけの演奏をグルーヴとは呼ばないだろう。 グルーヴのある演奏というのは、意図的なものというよりは、自然に溢れ出す揺らぎに近い。それは決して雑であることではない。 写真を撮り続けていると、ほんの微かにその感覚を抱くことがある。明確に言語化できるものではない。 しかし、“良い写真”だと感じさせるものの正体は、このあたりに隠れているような気がする。
写真とグルーヴ
などと言うと、音楽評論のようかもしれないけれど、写真にも確かにグルーヴは存在していると思う。 そもそもグルーヴとは何だろうか。 音楽においてグルーヴという言葉は、リズムが正確であることを意味しない。 少し揺れていたり、わずかにズレていたりするのに、心地良く感じる。そういうものがグルーヴと呼ばれる。 写真にも近い感覚がある。 例えば、ただ整っているだけの写真。構図も露出も完璧で、水平もきっちり取れている。情報は整理され、非常に“正しい”。 もちろん、それはそれで悪くない。しかし、それはあまり記憶に残らなかったりする。 逆に、少し傾いていたり、わずかにブレていたり、余計とも言える情報が紛れている写真の方が、印象的なことがある。 そこには制御しきれていない何かが見える。 その感覚にグルーヴという言葉は割と近いように思う。 ここで勘違いしてはいけないのは、ラフであれば良い、“正しさ”から外れていれば良いということではない。 写真を始めたばかりの頃に、荒れている写真や偶然性の強い写真に惹かれるのはよくあることだろう。 整いすぎた写真よりも、そういった写真の方が“生っぽく”見える、写真のあるべき姿のように感じられるからだ。 しかし、撮り続けていくと、その感覚も少しずつ変わっていく。最初はグルーヴのように感じられたラフさは、次第に整理されていく。 そして、その整理された先に、また別のグルーヴのようなものが見えてくる。ちゃんと整えて撮っているはずなのに、どこか揺れている。 音楽でも、ただ荒々しいだけの演奏をグルーヴとは呼ばないだろう。 グルーヴのある演奏というのは、意図的なものというよりは、自然に溢れ出す揺らぎに近い。それは決して雑であることではない。 写真を撮り続けていると、ほんの微かにその感覚を抱くことがある。明確に言語化できるものではない。 しかし、“良い写真”だと感じさせるものの正体は、このあたりに隠れているような気がする。
なぜ、あの頃家族が撮った写真は“良い写真”なのだろうか
主に40代以上の人に向けた話になるかもしれない。 実家の押し入れや棚の奥にある、昔のアルバムを開く。 少し色褪せた透明のフィルムに覆われ、家族旅行や誕生日、日常のちょっとしたイベントの写真がそこにはある。 なんのカメラで撮ったのかもわからない。なんのフィルムを使っていたのかも知らない。 現像は近所の写真屋に頼んでいたのだろうけれど、それがどこの店だったのかも、もちろん誰も覚えていない。 しかし、そこに残っている写真は、どこの家のものも例外なく“良い写真”だ。 まず根本的に、それらが物質として長い時間(私たちの寿命に対して相対的に)存在してきたことが非常に大きな意味を持っている。 印刷され、アルバムに貼られ、長い時間を経て少しずつ変色した写真。 そのプロセスが、写真に“時間の質量”を与えている。 時折、触れられながら、棚の中で時間によって少しずつ熟成していく。 そして、今の若い人には想像しづらいだろうけれど、当時はSNSがなかった。実際のところ、スマートフォンすら存在しない。 つまり、それらの写真は、ほとんど身内しか見ないものだった。 だから、よそゆきの顔をする必要がない。撮られる側は常に、どこか無防備だ。 そして撮る側も、誰かの批評的な視線を気にしない。 “映え”も「いいね」の数もない。アルゴリズムなんていう言葉は無かった(私が知らなかっただけという可能性はある)。 もちろん、写真を撮る時に多少は格好をつける。それは人間の性だろう。しかし、それはやはり現代のSNS的な“格好のつけ方”とは違う。 もっと閉じた、小さな共同体の中に家族の写真はあった。 構図が完璧なわけはない。ピントが甘い写真もあるし、露出も不安定だ。指が写り込んでいることもある。 きっと“良い写真を撮ろう”となんて思っていなかっただろう。 昔の方が良かった、などと言うつもりはない。 ただ、もし“良い写真”について考えるのであれば、一度この事実に立ち返ることは、きっと有用だろうと思う。 写真は記録だ。 そして記録は時間の経過によって意味を増大させていく。見る人間、写っている人間の状況は変わり、世界も変わる。 あの頃、撮られた家族写真は、時間の経過によって、その力を発揮し始めている。
なぜ、あの頃家族が撮った写真は“良い写真”なのだろうか
主に40代以上の人に向けた話になるかもしれない。 実家の押し入れや棚の奥にある、昔のアルバムを開く。 少し色褪せた透明のフィルムに覆われ、家族旅行や誕生日、日常のちょっとしたイベントの写真がそこにはある。 なんのカメラで撮ったのかもわからない。なんのフィルムを使っていたのかも知らない。 現像は近所の写真屋に頼んでいたのだろうけれど、それがどこの店だったのかも、もちろん誰も覚えていない。 しかし、そこに残っている写真は、どこの家のものも例外なく“良い写真”だ。 まず根本的に、それらが物質として長い時間(私たちの寿命に対して相対的に)存在してきたことが非常に大きな意味を持っている。 印刷され、アルバムに貼られ、長い時間を経て少しずつ変色した写真。 そのプロセスが、写真に“時間の質量”を与えている。 時折、触れられながら、棚の中で時間によって少しずつ熟成していく。 そして、今の若い人には想像しづらいだろうけれど、当時はSNSがなかった。実際のところ、スマートフォンすら存在しない。 つまり、それらの写真は、ほとんど身内しか見ないものだった。 だから、よそゆきの顔をする必要がない。撮られる側は常に、どこか無防備だ。 そして撮る側も、誰かの批評的な視線を気にしない。 “映え”も「いいね」の数もない。アルゴリズムなんていう言葉は無かった(私が知らなかっただけという可能性はある)。 もちろん、写真を撮る時に多少は格好をつける。それは人間の性だろう。しかし、それはやはり現代のSNS的な“格好のつけ方”とは違う。 もっと閉じた、小さな共同体の中に家族の写真はあった。 構図が完璧なわけはない。ピントが甘い写真もあるし、露出も不安定だ。指が写り込んでいることもある。 きっと“良い写真を撮ろう”となんて思っていなかっただろう。 昔の方が良かった、などと言うつもりはない。 ただ、もし“良い写真”について考えるのであれば、一度この事実に立ち返ることは、きっと有用だろうと思う。 写真は記録だ。 そして記録は時間の経過によって意味を増大させていく。見る人間、写っている人間の状況は変わり、世界も変わる。 あの頃、撮られた家族写真は、時間の経過によって、その力を発揮し始めている。