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“思い出を写真にする”のか、“写真が思い出になる”のか
“思い出”を残したいから写真を撮る、ことがある。 旅行へ行った。記念日をお祝いした。懐かしい友人と会った。 そんな時に、写真を撮る。ごく自然なことだろう。 写真は“思い出”の役割を果たす。 何があったのか。誰といたのか。その時どんな場所にいたのか。 保存されたそれらの情報は“思い出”になる。 では、ストリートフォトはどうだろう。 もちろん、そこには情報が残っているけれど、“思い出”にするために撮っているかと言われれば違うような気がする。 観光をしているわけではないし、特別な日でもなければ、知り合いが写っているわけでもない。 しかし、それはやはり“思い出”であるような気がする。なぜなら、そこには撮り手の感情がしっかりと残っているからだ。 それは“嬉しい”とか“楽しい”、あるいは“この一瞬を忘れたくない”といった明確で強い感情ではないだろう。 見返した時に、なぜそこでシャッターを切ったのかわからないという写真もある。、それでも、そこに確実に感情、それに近い思考の揺らぎのようなものがあったのだ。 それは私の“思い出”だ。“思い出”を写真に撮ろうとせずとも、写真は“思い出”になる。 以前、写真は“記録”だ、と書いた。“思い出”と“記録”は違うではないか、と感じる人がいるかもしれない。 写真は“記録”であると同時に“思い出”なのだと私は思う。これは、光が“波”であると同時に“粒子”であることに似ている。 写真はその広がりにおいて“記録”であり、観測される瞬間は“思い出”のように振る舞うのだ。
“思い出を写真にする”のか、“写真が思い出になる”のか
“思い出”を残したいから写真を撮る、ことがある。 旅行へ行った。記念日をお祝いした。懐かしい友人と会った。 そんな時に、写真を撮る。ごく自然なことだろう。 写真は“思い出”の役割を果たす。 何があったのか。誰といたのか。その時どんな場所にいたのか。 保存されたそれらの情報は“思い出”になる。 では、ストリートフォトはどうだろう。 もちろん、そこには情報が残っているけれど、“思い出”にするために撮っているかと言われれば違うような気がする。 観光をしているわけではないし、特別な日でもなければ、知り合いが写っているわけでもない。 しかし、それはやはり“思い出”であるような気がする。なぜなら、そこには撮り手の感情がしっかりと残っているからだ。 それは“嬉しい”とか“楽しい”、あるいは“この一瞬を忘れたくない”といった明確で強い感情ではないだろう。 見返した時に、なぜそこでシャッターを切ったのかわからないという写真もある。、それでも、そこに確実に感情、それに近い思考の揺らぎのようなものがあったのだ。 それは私の“思い出”だ。“思い出”を写真に撮ろうとせずとも、写真は“思い出”になる。 以前、写真は“記録”だ、と書いた。“思い出”と“記録”は違うではないか、と感じる人がいるかもしれない。 写真は“記録”であると同時に“思い出”なのだと私は思う。これは、光が“波”であると同時に“粒子”であることに似ている。 写真はその広がりにおいて“記録”であり、観測される瞬間は“思い出”のように振る舞うのだ。
退屈な写真
写真を始めたばかりの頃は、刺激的な場所に行く方が、面白い写真が撮れるような気がした。 歌舞伎町。池袋の北口。渋谷センター街。 人が多く、情報量も多い。何かが起きそうな気配がある。 歩いているだけで“いかにも”な被写体が見つかるし、光景の変化も大きい。 写真を始めたばかりの頃に、そういった場所へ惹かれるのはごく自然なことだと思う。 しかし、今は静かな住宅街を歩いていることが多い。 特に刺激的な何かがあるわけではない。観光名所でもないし、人通りも少ない。 なるべくたくさん撮るようにしているけれど、繁華街を歩いている時のようには枚数も増えない。 少し前の自分が見たら退屈な写真を撮っているなと感じるかもしれない。 実際のところ、今の私がみてもその写真は退屈だと言っていい。 少なくとも、派手なネオンの街並み、そこを行き交うインパクトの強い人物を撮ったような写真と比べれば、地味ではある。 鳥の声が聞こえるばかりの住宅街。車の姿の少ない交差点。壁際の雑草に紛れた小さな花。 写っているのはそんなものだ。ただ、今はそれを撮っていることが自分にとって自然なことだと感じられる。 退屈な写真の方が優れている、という結論を導きたいわけではない。 派手な写真より静かな写真の方が深い。刺激的な写真より退屈な写真の方が成熟している。そういった考えはその逆の考えと同様に安直だと思う。 昔の自分が間違っていたわけではないし、今の私がそれを達観しているわけでもない。 ただ、その頃の自分と今の自分の反応するものが少し変わったというだけのことだ。 写真というのは、世界を撮っていて、同時にその時の自分を撮っているだろう。 同じ場所を歩いても、昨日と今日では撮るものが違う。季節によっても変わるし、きっとその日の機嫌によっても変わっているだろう。 その時の自分が素直に、自然に反応することが多分、重要だ。刺激的なものに反応する時もあれば、穏やかなものに反応するときもある。 どちらが上ということではない。その時の気分に素直に寄り添うのが良いだろう。そう、明日はふと歌舞伎町へ行きたくなるかもしれない。 そうやって自然でいることが写真を長く続けるコツだろう。そして、それは写真にとって実はかなり重要だ。
退屈な写真
写真を始めたばかりの頃は、刺激的な場所に行く方が、面白い写真が撮れるような気がした。 歌舞伎町。池袋の北口。渋谷センター街。 人が多く、情報量も多い。何かが起きそうな気配がある。 歩いているだけで“いかにも”な被写体が見つかるし、光景の変化も大きい。 写真を始めたばかりの頃に、そういった場所へ惹かれるのはごく自然なことだと思う。 しかし、今は静かな住宅街を歩いていることが多い。 特に刺激的な何かがあるわけではない。観光名所でもないし、人通りも少ない。 なるべくたくさん撮るようにしているけれど、繁華街を歩いている時のようには枚数も増えない。 少し前の自分が見たら退屈な写真を撮っているなと感じるかもしれない。 実際のところ、今の私がみてもその写真は退屈だと言っていい。 少なくとも、派手なネオンの街並み、そこを行き交うインパクトの強い人物を撮ったような写真と比べれば、地味ではある。 鳥の声が聞こえるばかりの住宅街。車の姿の少ない交差点。壁際の雑草に紛れた小さな花。 写っているのはそんなものだ。ただ、今はそれを撮っていることが自分にとって自然なことだと感じられる。 退屈な写真の方が優れている、という結論を導きたいわけではない。 派手な写真より静かな写真の方が深い。刺激的な写真より退屈な写真の方が成熟している。そういった考えはその逆の考えと同様に安直だと思う。 昔の自分が間違っていたわけではないし、今の私がそれを達観しているわけでもない。 ただ、その頃の自分と今の自分の反応するものが少し変わったというだけのことだ。 写真というのは、世界を撮っていて、同時にその時の自分を撮っているだろう。 同じ場所を歩いても、昨日と今日では撮るものが違う。季節によっても変わるし、きっとその日の機嫌によっても変わっているだろう。 その時の自分が素直に、自然に反応することが多分、重要だ。刺激的なものに反応する時もあれば、穏やかなものに反応するときもある。 どちらが上ということではない。その時の気分に素直に寄り添うのが良いだろう。そう、明日はふと歌舞伎町へ行きたくなるかもしれない。 そうやって自然でいることが写真を長く続けるコツだろう。そして、それは写真にとって実はかなり重要だ。
写真とグルーヴ
などと言うと、音楽評論のようかもしれないけれど、写真にも確かにグルーヴは存在していると思う。 そもそもグルーヴとは何だろうか。 音楽においてグルーヴという言葉は、リズムが正確であることを意味しない。 少し揺れていたり、わずかにズレていたりするのに、心地良く感じる。そういうものがグルーヴと呼ばれる。 写真にも近い感覚がある。 例えば、ただ整っているだけの写真。構図も露出も完璧で、水平もきっちり取れている。情報は整理され、非常に“正しい”。 もちろん、それはそれで悪くない。しかし、それはあまり記憶に残らなかったりする。 逆に、少し傾いていたり、わずかにブレていたり、余計とも言える情報が紛れている写真の方が、印象的なことがある。 そこには制御しきれていない何かが見える。 その感覚にグルーヴという言葉は割と近いように思う。 ここで勘違いしてはいけないのは、ラフであれば良い、“正しさ”から外れていれば良いということではない。 写真を始めたばかりの頃に、荒れている写真や偶然性の強い写真に惹かれるのはよくあることだろう。 整いすぎた写真よりも、そういった写真の方が“生っぽく”見える、写真のあるべき姿のように感じられるからだ。 しかし、撮り続けていくと、その感覚も少しずつ変わっていく。最初はグルーヴのように感じられたラフさは、次第に整理されていく。 そして、その整理された先に、また別のグルーヴのようなものが見えてくる。ちゃんと整えて撮っているはずなのに、どこか揺れている。 音楽でも、ただ荒々しいだけの演奏をグルーヴとは呼ばないだろう。 グルーヴのある演奏というのは、意図的なものというよりは、自然に溢れ出す揺らぎに近い。それは決して雑であることではない。 写真を撮り続けていると、ほんの微かにその感覚を抱くことがある。明確に言語化できるものではない。 しかし、“良い写真”だと感じさせるものの正体は、このあたりに隠れているような気がする。
写真とグルーヴ
などと言うと、音楽評論のようかもしれないけれど、写真にも確かにグルーヴは存在していると思う。 そもそもグルーヴとは何だろうか。 音楽においてグルーヴという言葉は、リズムが正確であることを意味しない。 少し揺れていたり、わずかにズレていたりするのに、心地良く感じる。そういうものがグルーヴと呼ばれる。 写真にも近い感覚がある。 例えば、ただ整っているだけの写真。構図も露出も完璧で、水平もきっちり取れている。情報は整理され、非常に“正しい”。 もちろん、それはそれで悪くない。しかし、それはあまり記憶に残らなかったりする。 逆に、少し傾いていたり、わずかにブレていたり、余計とも言える情報が紛れている写真の方が、印象的なことがある。 そこには制御しきれていない何かが見える。 その感覚にグルーヴという言葉は割と近いように思う。 ここで勘違いしてはいけないのは、ラフであれば良い、“正しさ”から外れていれば良いということではない。 写真を始めたばかりの頃に、荒れている写真や偶然性の強い写真に惹かれるのはよくあることだろう。 整いすぎた写真よりも、そういった写真の方が“生っぽく”見える、写真のあるべき姿のように感じられるからだ。 しかし、撮り続けていくと、その感覚も少しずつ変わっていく。最初はグルーヴのように感じられたラフさは、次第に整理されていく。 そして、その整理された先に、また別のグルーヴのようなものが見えてくる。ちゃんと整えて撮っているはずなのに、どこか揺れている。 音楽でも、ただ荒々しいだけの演奏をグルーヴとは呼ばないだろう。 グルーヴのある演奏というのは、意図的なものというよりは、自然に溢れ出す揺らぎに近い。それは決して雑であることではない。 写真を撮り続けていると、ほんの微かにその感覚を抱くことがある。明確に言語化できるものではない。 しかし、“良い写真”だと感じさせるものの正体は、このあたりに隠れているような気がする。
なぜ、あの頃家族が撮った写真は“良い写真”なのだろうか
主に40代以上の人に向けた話になるかもしれない。 実家の押し入れや棚の奥にある、昔のアルバムを開く。 少し色褪せた透明のフィルムに覆われ、家族旅行や誕生日、日常のちょっとしたイベントの写真がそこにはある。 なんのカメラで撮ったのかもわからない。なんのフィルムを使っていたのかも知らない。 現像は近所の写真屋に頼んでいたのだろうけれど、それがどこの店だったのかも、もちろん誰も覚えていない。 しかし、そこに残っている写真は、どこの家のものも例外なく“良い写真”だ。 まず根本的に、それらが物質として長い時間(私たちの寿命に対して相対的に)存在してきたことが非常に大きな意味を持っている。 印刷され、アルバムに貼られ、長い時間を経て少しずつ変色した写真。 そのプロセスが、写真に“時間の質量”を与えている。 時折、触れられながら、棚の中で時間によって少しずつ熟成していく。 そして、今の若い人には想像しづらいだろうけれど、当時はSNSがなかった。実際のところ、スマートフォンすら存在しない。 つまり、それらの写真は、ほとんど身内しか見ないものだった。 だから、よそゆきの顔をする必要がない。撮られる側は常に、どこか無防備だ。 そして撮る側も、誰かの批評的な視線を気にしない。 “映え”も「いいね」の数もない。アルゴリズムなんていう言葉は無かった(私が知らなかっただけという可能性はある)。 もちろん、写真を撮る時に多少は格好をつける。それは人間の性だろう。しかし、それはやはり現代のSNS的な“格好のつけ方”とは違う。 もっと閉じた、小さな共同体の中に家族の写真はあった。 構図が完璧なわけはない。ピントが甘い写真もあるし、露出も不安定だ。指が写り込んでいることもある。 きっと“良い写真を撮ろう”となんて思っていなかっただろう。 昔の方が良かった、などと言うつもりはない。 ただ、もし“良い写真”について考えるのであれば、一度この事実に立ち返ることは、きっと有用だろうと思う。 写真は記録だ。 そして記録は時間の経過によって意味を増大させていく。見る人間、写っている人間の状況は変わり、世界も変わる。 あの頃、撮られた家族写真は、時間の経過によって、その力を発揮し始めている。
なぜ、あの頃家族が撮った写真は“良い写真”なのだろうか
主に40代以上の人に向けた話になるかもしれない。 実家の押し入れや棚の奥にある、昔のアルバムを開く。 少し色褪せた透明のフィルムに覆われ、家族旅行や誕生日、日常のちょっとしたイベントの写真がそこにはある。 なんのカメラで撮ったのかもわからない。なんのフィルムを使っていたのかも知らない。 現像は近所の写真屋に頼んでいたのだろうけれど、それがどこの店だったのかも、もちろん誰も覚えていない。 しかし、そこに残っている写真は、どこの家のものも例外なく“良い写真”だ。 まず根本的に、それらが物質として長い時間(私たちの寿命に対して相対的に)存在してきたことが非常に大きな意味を持っている。 印刷され、アルバムに貼られ、長い時間を経て少しずつ変色した写真。 そのプロセスが、写真に“時間の質量”を与えている。 時折、触れられながら、棚の中で時間によって少しずつ熟成していく。 そして、今の若い人には想像しづらいだろうけれど、当時はSNSがなかった。実際のところ、スマートフォンすら存在しない。 つまり、それらの写真は、ほとんど身内しか見ないものだった。 だから、よそゆきの顔をする必要がない。撮られる側は常に、どこか無防備だ。 そして撮る側も、誰かの批評的な視線を気にしない。 “映え”も「いいね」の数もない。アルゴリズムなんていう言葉は無かった(私が知らなかっただけという可能性はある)。 もちろん、写真を撮る時に多少は格好をつける。それは人間の性だろう。しかし、それはやはり現代のSNS的な“格好のつけ方”とは違う。 もっと閉じた、小さな共同体の中に家族の写真はあった。 構図が完璧なわけはない。ピントが甘い写真もあるし、露出も不安定だ。指が写り込んでいることもある。 きっと“良い写真を撮ろう”となんて思っていなかっただろう。 昔の方が良かった、などと言うつもりはない。 ただ、もし“良い写真”について考えるのであれば、一度この事実に立ち返ることは、きっと有用だろうと思う。 写真は記録だ。 そして記録は時間の経過によって意味を増大させていく。見る人間、写っている人間の状況は変わり、世界も変わる。 あの頃、撮られた家族写真は、時間の経過によって、その力を発揮し始めている。
写真は歩き方に準ずる
「写真の持つ身体性」などと言われると、面倒くさい話が始まりそうな気がする。 しかし、これは別に難しい話ではない。 例えば、撮影者の身長。 少なくともストリートフォトにおいて、これはかなり写真に影響する。 背の高い人が撮る写真と、低い人が撮る写真はやはり違う。目線の高さ、カメラを構える高さが違うからだ。 当たり前と言えば当たり前なのだけれど、実際に並べてみるとよくわかる。 人物の圧迫感も変わるし、空の入り方も違う。 どの高さから見ているか。自然にカメラを構えた時にどのように写るのか。 特にそれは、写真集や展示で一連としてみた時に撮影者の存在感として浮かび上がる。 ストリートフォトだと、「この人はたくさん歩いて撮っているのだろうな」と感じる写真がある。 逆に、あまり歩かずに、立ち止まり、待っている人の写真もある。 本当にそうなのか、確認したことはないけれど、そういうものは確かに写っていると私は感じる。 たくさん歩いている人にしか見えてこない光景がある。そして瞬間的な構図の判断も、歩く距離や速度に応じて変わる。 視界に入ったものを、流れのまま撮っていく人がいる。 逆に、ゆっくり歩く人、待つ人の写真は空気が留まっている。 写真は、脳だけで撮れない。身体が撮る。 同じ人が撮っても、重いカメラを持った時と軽いカメラを持っている時で写真は変わる。歩く速度も距離も変わるからだ。 カメラが変われば、撮影のリズムが変わる。 そうなれば靴を変えたって写真は変わるだろう。 コツコツと地面を鳴らす革靴で街を歩くのと、ふわふわと弾むようにスニーカーで歩くのとでは、歩き方が異なる。 歩き方が変われば、移動距離も変わる。見るものも変わる。 つまり、写真には歩く力が効く。 「写真を撮るセンスが無い」という人がいる。どうしたらセンスを磨けるのか、と。 しかしストリートフォトに最も“効く”のは、身体の使い方を考えることだろう。わからなければ、とりあえずたくさん歩くことをおすすめする。 写真は概ね脚で撮るものかもしれない。 少なくとも、家で寝転がりながらストリートフォトを撮るのは難しい。
写真は歩き方に準ずる
「写真の持つ身体性」などと言われると、面倒くさい話が始まりそうな気がする。 しかし、これは別に難しい話ではない。 例えば、撮影者の身長。 少なくともストリートフォトにおいて、これはかなり写真に影響する。 背の高い人が撮る写真と、低い人が撮る写真はやはり違う。目線の高さ、カメラを構える高さが違うからだ。 当たり前と言えば当たり前なのだけれど、実際に並べてみるとよくわかる。 人物の圧迫感も変わるし、空の入り方も違う。 どの高さから見ているか。自然にカメラを構えた時にどのように写るのか。 特にそれは、写真集や展示で一連としてみた時に撮影者の存在感として浮かび上がる。 ストリートフォトだと、「この人はたくさん歩いて撮っているのだろうな」と感じる写真がある。 逆に、あまり歩かずに、立ち止まり、待っている人の写真もある。 本当にそうなのか、確認したことはないけれど、そういうものは確かに写っていると私は感じる。 たくさん歩いている人にしか見えてこない光景がある。そして瞬間的な構図の判断も、歩く距離や速度に応じて変わる。 視界に入ったものを、流れのまま撮っていく人がいる。 逆に、ゆっくり歩く人、待つ人の写真は空気が留まっている。 写真は、脳だけで撮れない。身体が撮る。 同じ人が撮っても、重いカメラを持った時と軽いカメラを持っている時で写真は変わる。歩く速度も距離も変わるからだ。 カメラが変われば、撮影のリズムが変わる。 そうなれば靴を変えたって写真は変わるだろう。 コツコツと地面を鳴らす革靴で街を歩くのと、ふわふわと弾むようにスニーカーで歩くのとでは、歩き方が異なる。 歩き方が変われば、移動距離も変わる。見るものも変わる。 つまり、写真には歩く力が効く。 「写真を撮るセンスが無い」という人がいる。どうしたらセンスを磨けるのか、と。 しかしストリートフォトに最も“効く”のは、身体の使い方を考えることだろう。わからなければ、とりあえずたくさん歩くことをおすすめする。 写真は概ね脚で撮るものかもしれない。 少なくとも、家で寝転がりながらストリートフォトを撮るのは難しい。
おすすめのカメラを紹介します
長く写真をやっていると、周りからおすすめのカメラを訊かれることが時々ある。 もちろん、予算や、その人が何を撮りたいのか、どのような場面で使うのかによって答えは変わる。そんな中、私がよく挙げるカメラのひとつに、キヤノンの6Dがある。 2012年に発売されたこのカメラは、2020万画素のフルサイズ機だ。 今となっては少し古い機種だが、中古市場ではボディが3万円台で手に入る。レンズを合わせて、5万円ほどあれば標準域をカバーするフルサイズ機として機能する。 スペックを最新のものと比較すれば優秀とは言えない。弱点は少なくない。 例えば連写性能は低い。 最近のカメラに慣れた人からすれば、もどかしく感じるかもしれない。 しかし、そもそも最初から連写で撮る必要がそれほどあるだろうか。 一枚ずつ、タイミングを見てシャッターを切る。その方が、写真を撮っている感覚はむしろ強くなる。 もちろん、そのせいでチャンスを逃すこともある。決定的な瞬間を逃した、と思うことがあるかもしれない。 しかし、考えてみてほしい。世界には無限みたいに決定的瞬間というのはあって、あなたが逃したのはそのほんの一つに過ぎない。 そしてシャッターを切りさえすれば、写らなかったものも含めて、そのときの選択は残る。 AFも同様だ。 6DはAFが弱いと言われる。確かに、測距点の数は少ないし、最新機のような高度な追従性能はない。 それでも、中央一点でピントを合わせて、そこから構図を作ることは出来る。それで、ほとんどの写真は撮れる。 もし周囲にカメラに詳しい人がいると、「コサイン誤差が」とか、言われるかもしれない。 それはそれで正しい話ではあるけれど、まずは気にしなくていい。 理屈として気になるなら、もちろん調べればいいけれど、極めて瑣末なことだと思って良い。 写りについても、十分だ。 普通に写る。癖が少なく、主張は強くない。 フルサイズ一眼レフとしては軽量の部類の機種であるけれど、ボディも堅牢で、扱いに不安はない。この辺りは最近のミラーレス機と比べて、むしろメリットになることもあるだろう。 シャッター音は「軽くて安っぽい」などと言われ、当時あまり評判が良くなかった記憶もあるが、悪くないと思う。 特に静音シャッターの、少し柔らかい音はかなり心地良い。 6Dは特別なカメラではない。 機材の話になると、どうしても性能や新しさに目がいきがちだ。 もちろん、それが必要な場面もある。 ただ、普段のスナップ写真においては、シビアな性能が求められることはそれほど多くない。ほとんどない、と言っても良いと私は思う。 ということで、私は今もこのカメラを使っている。
おすすめのカメラを紹介します
長く写真をやっていると、周りからおすすめのカメラを訊かれることが時々ある。 もちろん、予算や、その人が何を撮りたいのか、どのような場面で使うのかによって答えは変わる。そんな中、私がよく挙げるカメラのひとつに、キヤノンの6Dがある。 2012年に発売されたこのカメラは、2020万画素のフルサイズ機だ。 今となっては少し古い機種だが、中古市場ではボディが3万円台で手に入る。レンズを合わせて、5万円ほどあれば標準域をカバーするフルサイズ機として機能する。 スペックを最新のものと比較すれば優秀とは言えない。弱点は少なくない。 例えば連写性能は低い。 最近のカメラに慣れた人からすれば、もどかしく感じるかもしれない。 しかし、そもそも最初から連写で撮る必要がそれほどあるだろうか。 一枚ずつ、タイミングを見てシャッターを切る。その方が、写真を撮っている感覚はむしろ強くなる。 もちろん、そのせいでチャンスを逃すこともある。決定的な瞬間を逃した、と思うことがあるかもしれない。 しかし、考えてみてほしい。世界には無限みたいに決定的瞬間というのはあって、あなたが逃したのはそのほんの一つに過ぎない。 そしてシャッターを切りさえすれば、写らなかったものも含めて、そのときの選択は残る。 AFも同様だ。 6DはAFが弱いと言われる。確かに、測距点の数は少ないし、最新機のような高度な追従性能はない。 それでも、中央一点でピントを合わせて、そこから構図を作ることは出来る。それで、ほとんどの写真は撮れる。 もし周囲にカメラに詳しい人がいると、「コサイン誤差が」とか、言われるかもしれない。 それはそれで正しい話ではあるけれど、まずは気にしなくていい。 理屈として気になるなら、もちろん調べればいいけれど、極めて瑣末なことだと思って良い。 写りについても、十分だ。 普通に写る。癖が少なく、主張は強くない。 フルサイズ一眼レフとしては軽量の部類の機種であるけれど、ボディも堅牢で、扱いに不安はない。この辺りは最近のミラーレス機と比べて、むしろメリットになることもあるだろう。 シャッター音は「軽くて安っぽい」などと言われ、当時あまり評判が良くなかった記憶もあるが、悪くないと思う。 特に静音シャッターの、少し柔らかい音はかなり心地良い。 6Dは特別なカメラではない。 機材の話になると、どうしても性能や新しさに目がいきがちだ。 もちろん、それが必要な場面もある。 ただ、普段のスナップ写真においては、シビアな性能が求められることはそれほど多くない。ほとんどない、と言っても良いと私は思う。 ということで、私は今もこのカメラを使っている。