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AIがどんな画像も生成出来る時代に、写真を撮る理由

AIがどんな画像も生成出来る時代に、写真を撮る理由

どんな画像でも生成できる時代になった。 風景も、人物も、存在しない場所も、 それらしく作ることができる。 これまで写真であったものが、 これから、それらの画像に置き換わっていくだろ う。   それでも私たちは写真を撮るのだろうか。 少なくとも“画像を得る”ための別の方法は用意されたのだ。 ここで少し考えてみよう。 写真と生成された画像の違いはなんだろうか。 写真は画像でもある。 しかし、“写真を撮ること”と、 “画像を得ること”は違う。 世界を徘徊し、 何かを見て、 何かに触れ、 反応して、シャッターを切る。 その一連そのものが、 “写真”なのではないだろうか。 AIは画像を生成する。 しかしそれは、“自身である主体”が世界に対峙 し、シャッターを切るという反応を起こすことと は全く異なる現象だろう。 写真は、結果としてのみ存在するのではなく、 “一連の事象”なのだ。 もちろん、例えば仕事としての写真撮影には少な からず影響を及ぼすだろう。 商品撮影やイメージビジュアルのように、 成果としての「画像」が求められている領域では、...

AIがどんな画像も生成出来る時代に、写真を撮る理由

どんな画像でも生成できる時代になった。 風景も、人物も、存在しない場所も、 それらしく作ることができる。 これまで写真であったものが、 これから、それらの画像に置き換わっていくだろ う。   それでも私たちは写真を撮るのだろうか。 少なくとも“画像を得る”ための別の方法は用意されたのだ。 ここで少し考えてみよう。 写真と生成された画像の違いはなんだろうか。 写真は画像でもある。 しかし、“写真を撮ること”と、 “画像を得ること”は違う。 世界を徘徊し、 何かを見て、 何かに触れ、 反応して、シャッターを切る。 その一連そのものが、 “写真”なのではないだろうか。 AIは画像を生成する。 しかしそれは、“自身である主体”が世界に対峙 し、シャッターを切るという反応を起こすことと は全く異なる現象だろう。 写真は、結果としてのみ存在するのではなく、 “一連の事象”なのだ。 もちろん、例えば仕事としての写真撮影には少な からず影響を及ぼすだろう。 商品撮影やイメージビジュアルのように、 成果としての「画像」が求められている領域では、...

フィルム写真の価値

フィルム写真の価値

フィルムで写真を撮る理由は何だろう。 色が良いから。 粒子が美しいから。 ノスタルジーがあるから。 どれも間違いではないのだろう。 しかし、フィルム写真の本質はもう少し別のところにあるかもしれない。 フィルムで写真を撮ることは、光を物質として固定することだ。 レンズを通った光は、フィルムの乳剤に含まれるハロゲン化銀に作用し、化学変化を起こす。 現像を経て像が定着すると、それは単なる情報ではなく、実際にそこに存在する物質になる。 ネガフィルムでもポジフィルムでも構わない。ある瞬間の光は化学反応を経て、物質としてそこに残る。 この点が、デジタル写真とは違うのだ。 デジタルカメラで、光はセンサーに届く。センサーは電気信号としてそれを読み取り、最終的にそれはデータとして記録される。 どちらも写真である。しかし、フィルムでは光が物質になり、デジタルでは光が情報になる。この違いは、それぞれの写真の有り様を少し別のものにしている。 例えばフィルム写真には、どこか質量を感じる。 多分それは、そこに記録されているものが「情報」ではなく「物質」であるという感覚が影響している。 ネガフィルムは棚の引き出しに入れればそこにあり、光にかざせば像が見える。物理的に“ある”のだ。 だからフィルムの方が優れている、という話ではない。写真の価値は、どの媒体で記録されたかで決まるものでもない。スマートフォンで撮った写真も輝いているし、大判カメラで撮った写真も時に退屈だ。 それでも、光が物質になるというこのプロセスには、写真というメディアの本質の一つが秘められているようにも思う。 写真は、ある瞬間の光を取り出し、それを何らかの形で固定する。絵画のように人間が描いたものでもなく、文章のように言葉で説明されたものでもない。光そのものの痕跡を残す。 フィルム写真では、その痕跡が物質として残る。 デジタル写真では、その痕跡が情報として残る。 光が実際の物質として定着しているという感覚は原始的で、魅力的だ。フィルム写真に惹かれる人が多い理由はこのあたりにあるのだろう。 ちなみに、私は一切フィルムで写真を撮らない。まず、せっかちなので、結果がすぐに見られないことを許容できない。そして、言わずもがな一枚を撮るのにかかるコストが莫大だからだ。 それでも、撮りたい人はきっといつまでもフィルムで撮るだろう。その意思もまた美しい。  

フィルム写真の価値

フィルムで写真を撮る理由は何だろう。 色が良いから。 粒子が美しいから。 ノスタルジーがあるから。 どれも間違いではないのだろう。 しかし、フィルム写真の本質はもう少し別のところにあるかもしれない。 フィルムで写真を撮ることは、光を物質として固定することだ。 レンズを通った光は、フィルムの乳剤に含まれるハロゲン化銀に作用し、化学変化を起こす。 現像を経て像が定着すると、それは単なる情報ではなく、実際にそこに存在する物質になる。 ネガフィルムでもポジフィルムでも構わない。ある瞬間の光は化学反応を経て、物質としてそこに残る。 この点が、デジタル写真とは違うのだ。 デジタルカメラで、光はセンサーに届く。センサーは電気信号としてそれを読み取り、最終的にそれはデータとして記録される。 どちらも写真である。しかし、フィルムでは光が物質になり、デジタルでは光が情報になる。この違いは、それぞれの写真の有り様を少し別のものにしている。 例えばフィルム写真には、どこか質量を感じる。 多分それは、そこに記録されているものが「情報」ではなく「物質」であるという感覚が影響している。 ネガフィルムは棚の引き出しに入れればそこにあり、光にかざせば像が見える。物理的に“ある”のだ。 だからフィルムの方が優れている、という話ではない。写真の価値は、どの媒体で記録されたかで決まるものでもない。スマートフォンで撮った写真も輝いているし、大判カメラで撮った写真も時に退屈だ。 それでも、光が物質になるというこのプロセスには、写真というメディアの本質の一つが秘められているようにも思う。 写真は、ある瞬間の光を取り出し、それを何らかの形で固定する。絵画のように人間が描いたものでもなく、文章のように言葉で説明されたものでもない。光そのものの痕跡を残す。 フィルム写真では、その痕跡が物質として残る。 デジタル写真では、その痕跡が情報として残る。 光が実際の物質として定着しているという感覚は原始的で、魅力的だ。フィルム写真に惹かれる人が多い理由はこのあたりにあるのだろう。 ちなみに、私は一切フィルムで写真を撮らない。まず、せっかちなので、結果がすぐに見られないことを許容できない。そして、言わずもがな一枚を撮るのにかかるコストが莫大だからだ。 それでも、撮りたい人はきっといつまでもフィルムで撮るだろう。その意思もまた美しい。  

写真家になる方法

写真家になる方法

写真家になるのは簡単だ。 そう名乗れば良い。 私がそう名乗るのも、 「カメラマン」というよりは、 “ライフワークとして写真を撮っています”という ニュアンスが「写真家」の方が伝わるかなという 程度のことだ。 「写真家」に定義はない。 極論を言えば、生まれてから一度も写真を撮った ことがない人が、   「私は人生で最高の瞬間が訪れた時に、一度きりシャッターを押すために存在している写真家だ。まだその時は訪れていない」   と言っていたとしても、何も問題はない。   そんな人がいたら、 太刀打ちできないような気もする。 写真家を名乗るということは、 名乗った人自身の生き方が、そのまま一つの写真 家の形になるということだ。 その人生を、 「ある写真家の一例」とする、というだけのこと だろう。 誰かが作った「写真家」の定義があったとしても それに従う必要は全くない。   だから、「写真家を名乗るなんておこがましい」 などと思わず、 軽はずみに名乗ってしまえばいいと個人的には思う。 ただ、...

写真家になる方法

写真家になるのは簡単だ。 そう名乗れば良い。 私がそう名乗るのも、 「カメラマン」というよりは、 “ライフワークとして写真を撮っています”という ニュアンスが「写真家」の方が伝わるかなという 程度のことだ。 「写真家」に定義はない。 極論を言えば、生まれてから一度も写真を撮った ことがない人が、   「私は人生で最高の瞬間が訪れた時に、一度きりシャッターを押すために存在している写真家だ。まだその時は訪れていない」   と言っていたとしても、何も問題はない。   そんな人がいたら、 太刀打ちできないような気もする。 写真家を名乗るということは、 名乗った人自身の生き方が、そのまま一つの写真 家の形になるということだ。 その人生を、 「ある写真家の一例」とする、というだけのこと だろう。 誰かが作った「写真家」の定義があったとしても それに従う必要は全くない。   だから、「写真家を名乗るなんておこがましい」 などと思わず、 軽はずみに名乗ってしまえばいいと個人的には思う。 ただ、...

写真は「物語」の挿絵ではない

写真は「物語」の挿絵ではない

写真は、物語を必要としない。 それは映画や小説とは違う“強さの形式”だろう。 ただ、そこにある瞬間を固定するのが写真なのだ。 前後関係を説明しなくても成立する。 登場人物の背景も因果関係も知らなくてよい。   語らない方が写真は基本的に“強い”。   写真の強みは、その“断片性”なのだ。   時間の流れから切り離された一瞬。 それが“物語から切断される快感”を生む。 写真は説明の外側で存在できる。 だから写真は、ナラティブに従属しなくていい。 従属の逆を志向するのが“写真らしい”と思う。 だが、ほとんどの鑑賞者はナラティブを切り離して見ることは出来ない。 人は意味を求める。 無意識のうちに前後関係を想像する。 ここに写っている人はこれまでどう生きてきたのか。 この花束はどうしてここに捨てられているのか。 これは夜明けなのか夕暮れなのか。   写真が語らずとも、 物語は、鑑賞者の側から現出する。 人は経験や価値観を通して写真を見る。 “静止した写真”に、ナラティブは鑑賞者の中で動き出す。 だから、鑑賞者のナラティブを想定しておくことには意味がある。 “東京のストリートフォト”にも、 ある種のナラティブへの期待がまとわりつく。 例えばそれは、...

写真は「物語」の挿絵ではない

写真は、物語を必要としない。 それは映画や小説とは違う“強さの形式”だろう。 ただ、そこにある瞬間を固定するのが写真なのだ。 前後関係を説明しなくても成立する。 登場人物の背景も因果関係も知らなくてよい。   語らない方が写真は基本的に“強い”。   写真の強みは、その“断片性”なのだ。   時間の流れから切り離された一瞬。 それが“物語から切断される快感”を生む。 写真は説明の外側で存在できる。 だから写真は、ナラティブに従属しなくていい。 従属の逆を志向するのが“写真らしい”と思う。 だが、ほとんどの鑑賞者はナラティブを切り離して見ることは出来ない。 人は意味を求める。 無意識のうちに前後関係を想像する。 ここに写っている人はこれまでどう生きてきたのか。 この花束はどうしてここに捨てられているのか。 これは夜明けなのか夕暮れなのか。   写真が語らずとも、 物語は、鑑賞者の側から現出する。 人は経験や価値観を通して写真を見る。 “静止した写真”に、ナラティブは鑑賞者の中で動き出す。 だから、鑑賞者のナラティブを想定しておくことには意味がある。 “東京のストリートフォト”にも、 ある種のナラティブへの期待がまとわりつく。 例えばそれは、...

写真家にインプットは必要か?

写真家にインプットは必要か?

写真家は、美術を知らなければならないのだろうか? まず個人的な所感。 美術もまた、世界を構成する要素のひとつとして“思い入れる”ことなく見つめるのが写真家の態度としては妥当だと思う。 写真が特別なわけではない。絵画も、彫刻も、インスタレーションも、映画も、音楽も、すべて同じ地平、かなり“近い世界”に位置している。 写真家が美術を知っていることは、自然なことだろう。 私は写真集を見るのも好きだし、写真展や美術展を見るのも好きだ。 静かな美術館を展示物を見て過ごす時間は、非常に贅沢だ。 価値を感じるし、シンプルに楽しい。 しかし、同時に思う。「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」、と。 でも別に、夜に酒を飲んでいるときに、「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」とは、思わない。 つまりそれは、インプットが刺激になっているということだ。 美術館で作品を見ていると、自分の身体のどこかが、わずかに動き出す。 それは、知識の蓄積というより、むしろ点火に近い。 インプットというのは、受動である。 情報を入れること。勉強すること。参照を増やすこと。あるいは娯楽として。 けれど、もしそれが“衝動”を生むのだとしたら、それはアウトプットの一部でもある。 見ることは撮ることの代替とはならない。しかし、見ることは撮ることの前触れになるかもしれない。

写真家にインプットは必要か?

写真家は、美術を知らなければならないのだろうか? まず個人的な所感。 美術もまた、世界を構成する要素のひとつとして“思い入れる”ことなく見つめるのが写真家の態度としては妥当だと思う。 写真が特別なわけではない。絵画も、彫刻も、インスタレーションも、映画も、音楽も、すべて同じ地平、かなり“近い世界”に位置している。 写真家が美術を知っていることは、自然なことだろう。 私は写真集を見るのも好きだし、写真展や美術展を見るのも好きだ。 静かな美術館を展示物を見て過ごす時間は、非常に贅沢だ。 価値を感じるし、シンプルに楽しい。 しかし、同時に思う。「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」、と。 でも別に、夜に酒を飲んでいるときに、「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」とは、思わない。 つまりそれは、インプットが刺激になっているということだ。 美術館で作品を見ていると、自分の身体のどこかが、わずかに動き出す。 それは、知識の蓄積というより、むしろ点火に近い。 インプットというのは、受動である。 情報を入れること。勉強すること。参照を増やすこと。あるいは娯楽として。 けれど、もしそれが“衝動”を生むのだとしたら、それはアウトプットの一部でもある。 見ることは撮ることの代替とはならない。しかし、見ることは撮ることの前触れになるかもしれない。

写真を批評すること

写真を批評すること

写真家の 森山大道 は「写真はすべて等価だ」という言葉を残している。 この言葉は比喩などではなく、“文字通り”そうであると私は受け取っている。 すべての写真は、世界を写したもの、世界の複写であるという点において、同じ地平に立っている。 “良い写真”とか“悪い写真”という評価はナンセンスだろう。少なくとも、“存在”のレベルで、そのような区分はし得ない。 極端に言えば、すべての写真は素晴らしい。 それでも私は、ときどき人の写真に言及する。辛辣で、批判的だと感じられるものにもなる。言葉にすればこれは矛盾しているだろう。 しかし、この2つは、相容れないものではない。 例えば、すべての生命は等しく大切だ。 それでも私たちは、個人の生き方について言及する。 その選択は楽かもしれない、と伝えることもあるし、それを選択すればどこかで行き詰まるかもしれない、と伝えることもある。 生命の価値と、生き方の選択は、別の次元にある。 写真も、たぶんそれに近い。 写真は、等価だ。全ての存在は同様に尊重されなければならない。 けれど、例えば、その写真がどこへ向かおうとしているのか、あるいは、どこで止まってしまっているのかについて、言葉を添えることはできる。 写真に対する意見というのは、作家にとってありがたいものだ。 自分では見えていなかったものが、否定的なものであったとしても、他人の視点を通して、初めて輪郭を持つことがある。 もちろん、ただの誹謗中傷は、この限りではない。それは批評ではないし、意見ですらない。 ただし、仕事としての批評が意味を持つ条件があるとすれば、それは、その批評自体が「作品」として成立しているときだけだと、私は思う。 写真を説明する、正解を誘導する、評価を代行するだけの批評。 それらは便利かもしれないが、写真と同じ緊張感の中にはない。 写真は、批評で価値を得るわけではない。しかし、批評そのものが作品として成立していれば、それはひとつの表現として、写真と同じ地平に立つだろう。

写真を批評すること

写真家の 森山大道 は「写真はすべて等価だ」という言葉を残している。 この言葉は比喩などではなく、“文字通り”そうであると私は受け取っている。 すべての写真は、世界を写したもの、世界の複写であるという点において、同じ地平に立っている。 “良い写真”とか“悪い写真”という評価はナンセンスだろう。少なくとも、“存在”のレベルで、そのような区分はし得ない。 極端に言えば、すべての写真は素晴らしい。 それでも私は、ときどき人の写真に言及する。辛辣で、批判的だと感じられるものにもなる。言葉にすればこれは矛盾しているだろう。 しかし、この2つは、相容れないものではない。 例えば、すべての生命は等しく大切だ。 それでも私たちは、個人の生き方について言及する。 その選択は楽かもしれない、と伝えることもあるし、それを選択すればどこかで行き詰まるかもしれない、と伝えることもある。 生命の価値と、生き方の選択は、別の次元にある。 写真も、たぶんそれに近い。 写真は、等価だ。全ての存在は同様に尊重されなければならない。 けれど、例えば、その写真がどこへ向かおうとしているのか、あるいは、どこで止まってしまっているのかについて、言葉を添えることはできる。 写真に対する意見というのは、作家にとってありがたいものだ。 自分では見えていなかったものが、否定的なものであったとしても、他人の視点を通して、初めて輪郭を持つことがある。 もちろん、ただの誹謗中傷は、この限りではない。それは批評ではないし、意見ですらない。 ただし、仕事としての批評が意味を持つ条件があるとすれば、それは、その批評自体が「作品」として成立しているときだけだと、私は思う。 写真を説明する、正解を誘導する、評価を代行するだけの批評。 それらは便利かもしれないが、写真と同じ緊張感の中にはない。 写真は、批評で価値を得るわけではない。しかし、批評そのものが作品として成立していれば、それはひとつの表現として、写真と同じ地平に立つだろう。