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ラグジュアリーホテルに飾ってみよう

ラグジュアリーホテルに飾ってみよう

自分の写真を見返す時、こんなふうに思考してみることがある。 この写真はプリントした時、ラグジュアリーなホテルのロビーや客室に飾れるだろうか、と。これが、自分の写真を見る時の一つの基準だと言って良いかもしれない。 写真にはいろいろな価値がある。 記録として社会の中で大きな意味をもつ写真もある。個人的な記憶とつながる大切な写真もある。むしろ不快さを想起するけれど、それが感情のトリガーとして機能する写真もある。 だから、「ホテルに飾れない写真はダメだ」と言いたいわけではない。 ただ、一枚の写真を純粋な視覚表現として考えた時、ある程度の強度を出せることには意味があるだろうと、私は考える。 そのための、一つの指標として「ラグジュアリーなホテルに飾れるか」がある。 ラグジュアリーなホテルは、ある意味で写真にとってかなり厳しい場所だ。 家具は隙なく整えられている。照明は全てを排他的に浮かび上がらせ、壁や床の素材の質感は雄弁だ。 空間には十分な余白があり、置かれているもの一つ一つに高い完成度が要求される。 そんな場所に写真を飾る。 色彩は調和し得るか。構図は節度を保持しているか。情報量は品性を滅しないか。空間に飲み込まれない強度はあるか。説明がなくとも、一つの画像として成立しているだろうか。 こう思考すると、普段モニターで写真を見ている時とは、違った見え方が現れる。 例えばSNSで目立つ写真と、ホテルの壁に成立する写真は、必ずしも同じではない。 SNSでは、一瞬で人の目を惹きつけることが重要になる。 強い色彩。劇的な光。大胆な構図。わかりやすい「決定的瞬間」。 そうしたものはスクロールの中では特に機能する。 けれど、空間に写真を置く場合、その写真は全く異なる見られ方をする。異なるものを求められる。 遠い場所に立つ人の視野に入った時。近くを通り過ぎる視界を掠める時。立ち止まって細部を観察される時。昼もある。夜もある。何日も続けてそこを通る人もいる。 長い時間、その空間の一部として存在し続ける。そこでは、華やかさやインパクトとは別の強さが必要になる。持続する強度のようなものだ。 美術館であれば、飾られたものは「これは作品です」という文脈の中にある。写真集も同様だ。文脈があり、前後の写真との関連、補完関係が生まれる。キャプションや文章が補うこともある。 しかし、ホテルの壁では、そういった補助的な要素はかなり少ない。 写真は一枚で、ただ置かれる。写真そのものの質が露呈する。 繰り返しになるが、ホテルに似合わない写真は良くない、と言っているわけではない。写真を見る視点の一つであり、評価する際の一つの“コツ”のようなものだというのが近い。 自分の写真を見返す時、時々、想像の中で、モニターから一枚を取り出してみる。それを大きくプリントし、額装する。ラグジュアリーなホテルの広い壁に掛けてみる。 その空間は少しマシになるだろうか。ダサくなってしまわないだろうか。 それは写真家としての最低限の基礎体力を確認するような作業かもしれない。      

ラグジュアリーホテルに飾ってみよう

自分の写真を見返す時、こんなふうに思考してみることがある。 この写真はプリントした時、ラグジュアリーなホテルのロビーや客室に飾れるだろうか、と。これが、自分の写真を見る時の一つの基準だと言って良いかもしれない。 写真にはいろいろな価値がある。 記録として社会の中で大きな意味をもつ写真もある。個人的な記憶とつながる大切な写真もある。むしろ不快さを想起するけれど、それが感情のトリガーとして機能する写真もある。 だから、「ホテルに飾れない写真はダメだ」と言いたいわけではない。 ただ、一枚の写真を純粋な視覚表現として考えた時、ある程度の強度を出せることには意味があるだろうと、私は考える。 そのための、一つの指標として「ラグジュアリーなホテルに飾れるか」がある。 ラグジュアリーなホテルは、ある意味で写真にとってかなり厳しい場所だ。 家具は隙なく整えられている。照明は全てを排他的に浮かび上がらせ、壁や床の素材の質感は雄弁だ。 空間には十分な余白があり、置かれているもの一つ一つに高い完成度が要求される。 そんな場所に写真を飾る。 色彩は調和し得るか。構図は節度を保持しているか。情報量は品性を滅しないか。空間に飲み込まれない強度はあるか。説明がなくとも、一つの画像として成立しているだろうか。 こう思考すると、普段モニターで写真を見ている時とは、違った見え方が現れる。 例えばSNSで目立つ写真と、ホテルの壁に成立する写真は、必ずしも同じではない。 SNSでは、一瞬で人の目を惹きつけることが重要になる。 強い色彩。劇的な光。大胆な構図。わかりやすい「決定的瞬間」。 そうしたものはスクロールの中では特に機能する。 けれど、空間に写真を置く場合、その写真は全く異なる見られ方をする。異なるものを求められる。 遠い場所に立つ人の視野に入った時。近くを通り過ぎる視界を掠める時。立ち止まって細部を観察される時。昼もある。夜もある。何日も続けてそこを通る人もいる。 長い時間、その空間の一部として存在し続ける。そこでは、華やかさやインパクトとは別の強さが必要になる。持続する強度のようなものだ。 美術館であれば、飾られたものは「これは作品です」という文脈の中にある。写真集も同様だ。文脈があり、前後の写真との関連、補完関係が生まれる。キャプションや文章が補うこともある。 しかし、ホテルの壁では、そういった補助的な要素はかなり少ない。 写真は一枚で、ただ置かれる。写真そのものの質が露呈する。 繰り返しになるが、ホテルに似合わない写真は良くない、と言っているわけではない。写真を見る視点の一つであり、評価する際の一つの“コツ”のようなものだというのが近い。 自分の写真を見返す時、時々、想像の中で、モニターから一枚を取り出してみる。それを大きくプリントし、額装する。ラグジュアリーなホテルの広い壁に掛けてみる。 その空間は少しマシになるだろうか。ダサくなってしまわないだろうか。 それは写真家としての最低限の基礎体力を確認するような作業かもしれない。      

まとまりで見る写真

まとまりで見る写真

一枚の写真として見た時に、強く印象に残る写真がある。 構図の精度が極めて高い。印象的な光が差している。人物の動きがユーモラス。強烈な色彩。「決定的瞬間」が写っている。 そういう写真は、単体で見て魅力を感じやすい。 SNSでも目を引くだろうし、コンテストでも評価されやすいかもしれない。 けれど、写真集や写真展のように、50枚、100枚という単位で写真を考える時には、別の視点も必要になる。 一枚で強い写真ばかりが並んでいると、単調さを感じることがある。チープとか俗っぽい、みたいな印象とも近い。 最初の数枚は引き込まれる。けれど、すべての写真が強い構図を持ち、強い色彩を持ち、強い瞬間を持っていると、その強さそのものに慣れてしまう。  音楽で言えば、最初から最後までサビが続いているようなものかもしれない。 サビが悪いわけではない。なるべく多くの人に届けようと思えば印象的なサビは有効だろう。それは最も記憶に残る部分になりやすい。 ただ、サビを強く感じさせるのは、その前後にそれを際立たせる旋律があるからでもある。 写真でもこれに近いことが言えるのだと思う。 一枚だけで見れば決して印象的とは言えない写真が、まとまりの中で重要な役割を持つことがある。 誰もいない道路。画鋲が刺さっているだけのボード。変わり映えのしない駅前。ただ見上げた空。 そういう写真があることで、まとまりにリズムが生まれる。そして、グルーヴが生まれる。強い写真もより強く見える。 写真をまとまりで見る時には、一枚一枚が単独で存在するのと同時に「役割」を持つ。 主役になる写真があれば、間をつなぐ写真もある。流れを変える写真があって、呼吸を整える写真がある。 「強い写真」が「良い写真」だというわけではない。 一枚で強い写真と、まとまりの中で必要な写真は、同じではない。 一枚だけを見て判断すれば通り過ぎてしまう写真が、まとまりの中で欠かせない一枚になることもある。 この「まとまり」に対する視点があると、 「これはどこにでもありそうな光景だから撮らなくてもいいか」 と思っていた場面で、 「この写真は、まとまりの中では必要になるかもしれない」 と考えるようになる。 すると、撮るものも変わってくる。 目立つものだけを探さなくなる。「決定的瞬間」ばかりを待たなくなる。 強い写真の周囲にある、弱く見える世界にも目が向く。それは写真の視野を広げるだろう。 例えば写真展をやる時、「見映えの良さで上から順に」写真を選ぶわけではない。 一枚一枚があまりにも完成され、すべてが同じ強さを主張してしまえば、集合としては退屈になることもある。 写真には「一枚の良さ」があるのと同時に、「まとまりとして見た時に生まれる良さ」がある。...

まとまりで見る写真

一枚の写真として見た時に、強く印象に残る写真がある。 構図の精度が極めて高い。印象的な光が差している。人物の動きがユーモラス。強烈な色彩。「決定的瞬間」が写っている。 そういう写真は、単体で見て魅力を感じやすい。 SNSでも目を引くだろうし、コンテストでも評価されやすいかもしれない。 けれど、写真集や写真展のように、50枚、100枚という単位で写真を考える時には、別の視点も必要になる。 一枚で強い写真ばかりが並んでいると、単調さを感じることがある。チープとか俗っぽい、みたいな印象とも近い。 最初の数枚は引き込まれる。けれど、すべての写真が強い構図を持ち、強い色彩を持ち、強い瞬間を持っていると、その強さそのものに慣れてしまう。  音楽で言えば、最初から最後までサビが続いているようなものかもしれない。 サビが悪いわけではない。なるべく多くの人に届けようと思えば印象的なサビは有効だろう。それは最も記憶に残る部分になりやすい。 ただ、サビを強く感じさせるのは、その前後にそれを際立たせる旋律があるからでもある。 写真でもこれに近いことが言えるのだと思う。 一枚だけで見れば決して印象的とは言えない写真が、まとまりの中で重要な役割を持つことがある。 誰もいない道路。画鋲が刺さっているだけのボード。変わり映えのしない駅前。ただ見上げた空。 そういう写真があることで、まとまりにリズムが生まれる。そして、グルーヴが生まれる。強い写真もより強く見える。 写真をまとまりで見る時には、一枚一枚が単独で存在するのと同時に「役割」を持つ。 主役になる写真があれば、間をつなぐ写真もある。流れを変える写真があって、呼吸を整える写真がある。 「強い写真」が「良い写真」だというわけではない。 一枚で強い写真と、まとまりの中で必要な写真は、同じではない。 一枚だけを見て判断すれば通り過ぎてしまう写真が、まとまりの中で欠かせない一枚になることもある。 この「まとまり」に対する視点があると、 「これはどこにでもありそうな光景だから撮らなくてもいいか」 と思っていた場面で、 「この写真は、まとまりの中では必要になるかもしれない」 と考えるようになる。 すると、撮るものも変わってくる。 目立つものだけを探さなくなる。「決定的瞬間」ばかりを待たなくなる。 強い写真の周囲にある、弱く見える世界にも目が向く。それは写真の視野を広げるだろう。 例えば写真展をやる時、「見映えの良さで上から順に」写真を選ぶわけではない。 一枚一枚があまりにも完成され、すべてが同じ強さを主張してしまえば、集合としては退屈になることもある。 写真には「一枚の良さ」があるのと同時に、「まとまりとして見た時に生まれる良さ」がある。...

撮り逃した写真

撮り逃した写真

写真をやっていると、「撮り逃してしまったな」と感じることがあるだろう。 人物の一部が画面からはみ出てしまった。光が去ってしまった。電車が通り過ぎてしまった。カメラを構えた時には、思い描いた瞬間は終わっていた。 もう少し長いスパンでみた「撮り逃してしまったな」もある。 桜が満開なのに撮影へ行けなかった。雪が降った日に仕事があった。霧が出たのにカメラを持っていなかった。 そうした撮り逃しを悔やむことがあるかもしれない。 あと一秒早く気づいていれば。気象情報をちゃんと確認していれば。カメラをいつも持ち歩いていれば。 撮れなかった写真は、過大に評価しがちだ。実際の画像は存在しないから、頭の中ではいくらでも理想的な一枚にできる。その瞬間、人物の位置も光の具合も完璧だったような気がしてくる。 けれど、考えてみてほしい。私たちが撮り逃している写真は1枚や2枚ではない。 眠っている間にも、働いている間にも、食事をしている間にも、世界では無数の瞬間が現れ、同時に消えている。 新宿を歩いている時、浅草では別の景色が生まれている。もちろん、ニューヨークにもパリにも。東京で眠りについた私を尻目にニューヨークは朝を迎えている。 写真を持って歩いているその場所だって、後ろの光景はずっと見逃している。視点があと10cm高かったら見えたものもきっとある。そう、撮り逃した瞬間は、ほとんど無限だ。 そう考えれば、そのうちの1枚や2枚、あるいは10,000枚や20,000枚を悔やむことに、ほとんど意味がないと気づけるだろう。 写真を撮るということは、世界を余すことなく記録しようとすることではない。 ごく限られた時間の中で、ごく限られた場所を歩き、ごく限られた方向を見て、その中から更にほんのわずかな瞬間に反応することだ。 一枚の写真は、ほとんど無限に広がる可能性の中から、偶然にも選び取られた「奇跡の一点」なのだ。 その時、その場所に自分がいた。たまたま、そちらを見た。何かが気になり、足を止めた。そしてカメラを構え、シャッターを切った。 条件が少しでも違えば、その写真は存在していなかった。実際に撮った一枚の価値は計り知れない。 写真には「決定的瞬間」という概念がある。もちろん、劇的な出来事や決定的な瞬間を捉えた写真もある。有意義に感じられるし、それは実際にそうかもしれない。周囲から評価もされるだろう。 けれど、本当は、撮られたという事実そのものに奇跡は宿っているのではないだろうか。少なくとも撮った自分にとっては、他の誰が撮ったどんな写真よりも決定的に意味を持っている。 だから、撮り逃した写真を悔やむ必要はない。 撮れなかった写真は存在しない。しかし、撮った写真と共にあなたは存在する。 それは、写真を撮るという行為そのものを、大切に考えるということかもしれない。ほとんど無限にある撮り逃した瞬間の中から、切り取った一瞬。 その奇跡の瞬間の価値に、もっと目を向けてもいいのだと思う。  

撮り逃した写真

写真をやっていると、「撮り逃してしまったな」と感じることがあるだろう。 人物の一部が画面からはみ出てしまった。光が去ってしまった。電車が通り過ぎてしまった。カメラを構えた時には、思い描いた瞬間は終わっていた。 もう少し長いスパンでみた「撮り逃してしまったな」もある。 桜が満開なのに撮影へ行けなかった。雪が降った日に仕事があった。霧が出たのにカメラを持っていなかった。 そうした撮り逃しを悔やむことがあるかもしれない。 あと一秒早く気づいていれば。気象情報をちゃんと確認していれば。カメラをいつも持ち歩いていれば。 撮れなかった写真は、過大に評価しがちだ。実際の画像は存在しないから、頭の中ではいくらでも理想的な一枚にできる。その瞬間、人物の位置も光の具合も完璧だったような気がしてくる。 けれど、考えてみてほしい。私たちが撮り逃している写真は1枚や2枚ではない。 眠っている間にも、働いている間にも、食事をしている間にも、世界では無数の瞬間が現れ、同時に消えている。 新宿を歩いている時、浅草では別の景色が生まれている。もちろん、ニューヨークにもパリにも。東京で眠りについた私を尻目にニューヨークは朝を迎えている。 写真を持って歩いているその場所だって、後ろの光景はずっと見逃している。視点があと10cm高かったら見えたものもきっとある。そう、撮り逃した瞬間は、ほとんど無限だ。 そう考えれば、そのうちの1枚や2枚、あるいは10,000枚や20,000枚を悔やむことに、ほとんど意味がないと気づけるだろう。 写真を撮るということは、世界を余すことなく記録しようとすることではない。 ごく限られた時間の中で、ごく限られた場所を歩き、ごく限られた方向を見て、その中から更にほんのわずかな瞬間に反応することだ。 一枚の写真は、ほとんど無限に広がる可能性の中から、偶然にも選び取られた「奇跡の一点」なのだ。 その時、その場所に自分がいた。たまたま、そちらを見た。何かが気になり、足を止めた。そしてカメラを構え、シャッターを切った。 条件が少しでも違えば、その写真は存在していなかった。実際に撮った一枚の価値は計り知れない。 写真には「決定的瞬間」という概念がある。もちろん、劇的な出来事や決定的な瞬間を捉えた写真もある。有意義に感じられるし、それは実際にそうかもしれない。周囲から評価もされるだろう。 けれど、本当は、撮られたという事実そのものに奇跡は宿っているのではないだろうか。少なくとも撮った自分にとっては、他の誰が撮ったどんな写真よりも決定的に意味を持っている。 だから、撮り逃した写真を悔やむ必要はない。 撮れなかった写真は存在しない。しかし、撮った写真と共にあなたは存在する。 それは、写真を撮るという行為そのものを、大切に考えるということかもしれない。ほとんど無限にある撮り逃した瞬間の中から、切り取った一瞬。 その奇跡の瞬間の価値に、もっと目を向けてもいいのだと思う。  

写真の水平を取る理由

写真の水平を取る理由

「写真は水平をきちんと取りましょう」と言われる。基本的にそれは間違っていない。 人物写真や建築写真、商品写真のように、見せたい“物”が明確な写真では、水平や垂直は特に重要だろう。 建物が傾いて見えれば違和感があるし、人物が斜めに立っているように見えれば落ち着かない。これらの写真においては、その被写体に対して水平を取ることは一つの前提と言っても差し支えない。 しかし、それは全ての写真に当てはまるわけではない。 例えば、街角でふと立ち止まってシャッターを切る時のことを考える。そこには道があり、ビルがあり、車があり、人物がいる。道には車の垂らしたオイルの跡がある。ビニール袋が落ちているし、そのとなりにはタバコの吸い殻もある。そして、そのそれぞれに影が落ちている。この時、何に対して水平を取れば良いだろう。 「水平を取る」という言葉を簡単に使ってしまうが、そもそも何を基準に水平を考えるのかという問題もある。 さらに言えば、人が感じる水平は必ずしもカメラが示す水平とは一致しない。水準器では水平でも、傾いて見える写真がある。 私たちは一本の線だけを見て水平を感じるわけではない。建物の垂直、道路の角度、人物の姿勢、遠近感、あらゆる被写体の線が複合的に影響を及ぼす。 そうした様々な情報を無意識に組み合わせ、“水平らしさ”を感じ取っている。 つまり、写真における水平とは、物理的な数値だけで決まるものではなく、人の知覚と併せて成立していると考えた方が良い。 ここで、画面を二次元的に考えてみる。写真は三次元の世界を二次元へ置き換える表現だ。 水平を感じさせる線も、斜めの線も、曲線も、その全てが写真の構成要素となる。 水平に強い影響を及ぼす線は、確かに画面の印象を大きく左右するかもしれない。しかし、それは数ある構成要素の一つであり、必ずしも“水平を司る”ためにある必要はない。 もし、その線の目的を“水平を司る”ために固定してしまえば、写真の自由は制限されてしまう。「水平を取らなければ」という意識が、可能性を狭めてしまう。 水平を取ることの重要性を否定しない。水平が写真の印象に大きな影響を与える要素なのは間違いないだろう。 ただ同時に、それを絶対的なルールとして扱う必要もない。“水平を司る線”も、一つの線、一つの構成要素として先入観を排除して捉える。そんな見方ができれば、構図は、写真は少し自由になるだろう。 水平を取れることには意味がある。しかし、それ以上に大切なのは、そういった“一種のルール”に縛られない自由な視点を確保することだろう。ストリートフォトにおいて、それは際立つ。  

写真の水平を取る理由

「写真は水平をきちんと取りましょう」と言われる。基本的にそれは間違っていない。 人物写真や建築写真、商品写真のように、見せたい“物”が明確な写真では、水平や垂直は特に重要だろう。 建物が傾いて見えれば違和感があるし、人物が斜めに立っているように見えれば落ち着かない。これらの写真においては、その被写体に対して水平を取ることは一つの前提と言っても差し支えない。 しかし、それは全ての写真に当てはまるわけではない。 例えば、街角でふと立ち止まってシャッターを切る時のことを考える。そこには道があり、ビルがあり、車があり、人物がいる。道には車の垂らしたオイルの跡がある。ビニール袋が落ちているし、そのとなりにはタバコの吸い殻もある。そして、そのそれぞれに影が落ちている。この時、何に対して水平を取れば良いだろう。 「水平を取る」という言葉を簡単に使ってしまうが、そもそも何を基準に水平を考えるのかという問題もある。 さらに言えば、人が感じる水平は必ずしもカメラが示す水平とは一致しない。水準器では水平でも、傾いて見える写真がある。 私たちは一本の線だけを見て水平を感じるわけではない。建物の垂直、道路の角度、人物の姿勢、遠近感、あらゆる被写体の線が複合的に影響を及ぼす。 そうした様々な情報を無意識に組み合わせ、“水平らしさ”を感じ取っている。 つまり、写真における水平とは、物理的な数値だけで決まるものではなく、人の知覚と併せて成立していると考えた方が良い。 ここで、画面を二次元的に考えてみる。写真は三次元の世界を二次元へ置き換える表現だ。 水平を感じさせる線も、斜めの線も、曲線も、その全てが写真の構成要素となる。 水平に強い影響を及ぼす線は、確かに画面の印象を大きく左右するかもしれない。しかし、それは数ある構成要素の一つであり、必ずしも“水平を司る”ためにある必要はない。 もし、その線の目的を“水平を司る”ために固定してしまえば、写真の自由は制限されてしまう。「水平を取らなければ」という意識が、可能性を狭めてしまう。 水平を取ることの重要性を否定しない。水平が写真の印象に大きな影響を与える要素なのは間違いないだろう。 ただ同時に、それを絶対的なルールとして扱う必要もない。“水平を司る線”も、一つの線、一つの構成要素として先入観を排除して捉える。そんな見方ができれば、構図は、写真は少し自由になるだろう。 水平を取れることには意味がある。しかし、それ以上に大切なのは、そういった“一種のルール”に縛られない自由な視点を確保することだろう。ストリートフォトにおいて、それは際立つ。  

同じ場所を撮り続けること

同じ場所を撮り続けること

初めて街を訪れる時、浅草なら雷門、渋谷ならスクランブル交差点、新宿なら歌舞伎町、その街のランドマークに目がいくだろう。 同じ街を何度も歩いていると、目にとまるものがそういったランドマークから自然と少しずつ変化していく。 別に意識して避けているわけでもない。ただ、別のものが目に入るようになる。 寺社の裏にある朽ち果てたような像。ホテル街の中にある小さな公園。歓楽街に隣接するオフィスビル群。 はじめのうちは、ただ通り過ぎていた景色の前に、ふと立ち止まるようになる。 視線が変わる。 目立つものは、ほとんど誰でも目をとめる。けれど、そこに慣れた頃に気になりだすものには、人によって違いが生まれてくる。 何度も同じ街を歩いて撮られた写真からは、なんとなくそれが伝わってくることがある。その街の、その人の視点のディテールが滲み出てくるような気がする。 何度も訪れた街だとスナップが捗らないと感じる人もいるだろう。 新鮮さを失い、その場所に興味を持つこと、反応することが難しくなるのかもしれない。ただ、その一種の“退屈”の先に深化がきっとある。 慣れることで見えてくる景色がある。飽きたことで気づけるものがある。 その変化も街で写真を撮ることの面白さだと思う。 同じ街を歩き続けてみる。何度も同じ道を通ってみる。 そこでシャッターを切り続けていると、見逃していた何かに不意に捉えられることがある。 写真を撮るには新しい場所へ行かなければならない、ということはない。同じ場所を撮り続けることで得られるものもある。 だから、「もうこの場所は撮り飽きたな」というところでも、ぜひ撮り続けてみてほしい。 本当に面白い景色は、その先にあるかもしれないのだから。  

同じ場所を撮り続けること

初めて街を訪れる時、浅草なら雷門、渋谷ならスクランブル交差点、新宿なら歌舞伎町、その街のランドマークに目がいくだろう。 同じ街を何度も歩いていると、目にとまるものがそういったランドマークから自然と少しずつ変化していく。 別に意識して避けているわけでもない。ただ、別のものが目に入るようになる。 寺社の裏にある朽ち果てたような像。ホテル街の中にある小さな公園。歓楽街に隣接するオフィスビル群。 はじめのうちは、ただ通り過ぎていた景色の前に、ふと立ち止まるようになる。 視線が変わる。 目立つものは、ほとんど誰でも目をとめる。けれど、そこに慣れた頃に気になりだすものには、人によって違いが生まれてくる。 何度も同じ街を歩いて撮られた写真からは、なんとなくそれが伝わってくることがある。その街の、その人の視点のディテールが滲み出てくるような気がする。 何度も訪れた街だとスナップが捗らないと感じる人もいるだろう。 新鮮さを失い、その場所に興味を持つこと、反応することが難しくなるのかもしれない。ただ、その一種の“退屈”の先に深化がきっとある。 慣れることで見えてくる景色がある。飽きたことで気づけるものがある。 その変化も街で写真を撮ることの面白さだと思う。 同じ街を歩き続けてみる。何度も同じ道を通ってみる。 そこでシャッターを切り続けていると、見逃していた何かに不意に捉えられることがある。 写真を撮るには新しい場所へ行かなければならない、ということはない。同じ場所を撮り続けることで得られるものもある。 だから、「もうこの場所は撮り飽きたな」というところでも、ぜひ撮り続けてみてほしい。 本当に面白い景色は、その先にあるかもしれないのだから。  

写真と距離

写真と距離

スナップの定番アドバイスに「もう一歩前へ」というのがある。 大きな前提として、もちろん写真に正解はない。それでも私は、これは良い助言ではないかと思っている。 撮りたい被写体があったら、まずは近づけるところまでは近づいてみる、というのは自然な行為だろう。 単純に、大きく写るからではない。画面いっぱいに被写体が収まるからとも違う。 近づいて撮った写真には、何かが“宿る”ような気がする。 それは、“空気”なのかもしれない。“緊張感”なのかもしれない。あるいは周波数に由来する物理的な何か、としても良いかもしれない。 レンズの焦点距離の話でもない。望遠レンズで大きく写すことはできる。あとからトリミングすることだってできる。しかし、それでも物理的に近づいた写真にだけ“宿る”ものがある。 撮影者と被写体の距離そのものが写っていると解釈しても良いだろう。距離が遠いよりも近い方が良いとも限らないけれど、近い方がポテンシャルが高いのかもしれない。 だから、「もう一歩前へ」という助言を私もしようと思う。 まず近づいてみる。そうすると、被写体がよく見える。 人の表情の微かな動きが見える。植物の産毛が見える。鏡に残った指紋が見える。 それは写真には写らないかもしれない。しかし、存在している。それでも近づいたことで感知出来た、それらの存在そのものが写真に何かを与えるのかもしれない。 だから私は、まず近づいてみることを勧める。近づいた経験がある「ここは離れよう」という判断は、きっとそうでない場合よりも精度が高い。 最初から遠い距離に立っていては、自分にとって本当に必要な距離が見えてき難い。 写真には距離が写る。被写体との距離。世界との距離。今の自分との距離。 「もう一歩前へ」。技術論ではなく些細な提案として。  

写真と距離

スナップの定番アドバイスに「もう一歩前へ」というのがある。 大きな前提として、もちろん写真に正解はない。それでも私は、これは良い助言ではないかと思っている。 撮りたい被写体があったら、まずは近づけるところまでは近づいてみる、というのは自然な行為だろう。 単純に、大きく写るからではない。画面いっぱいに被写体が収まるからとも違う。 近づいて撮った写真には、何かが“宿る”ような気がする。 それは、“空気”なのかもしれない。“緊張感”なのかもしれない。あるいは周波数に由来する物理的な何か、としても良いかもしれない。 レンズの焦点距離の話でもない。望遠レンズで大きく写すことはできる。あとからトリミングすることだってできる。しかし、それでも物理的に近づいた写真にだけ“宿る”ものがある。 撮影者と被写体の距離そのものが写っていると解釈しても良いだろう。距離が遠いよりも近い方が良いとも限らないけれど、近い方がポテンシャルが高いのかもしれない。 だから、「もう一歩前へ」という助言を私もしようと思う。 まず近づいてみる。そうすると、被写体がよく見える。 人の表情の微かな動きが見える。植物の産毛が見える。鏡に残った指紋が見える。 それは写真には写らないかもしれない。しかし、存在している。それでも近づいたことで感知出来た、それらの存在そのものが写真に何かを与えるのかもしれない。 だから私は、まず近づいてみることを勧める。近づいた経験がある「ここは離れよう」という判断は、きっとそうでない場合よりも精度が高い。 最初から遠い距離に立っていては、自分にとって本当に必要な距離が見えてき難い。 写真には距離が写る。被写体との距離。世界との距離。今の自分との距離。 「もう一歩前へ」。技術論ではなく些細な提案として。