パンフォーカスという選択──街を“そのまま”撮るということ

パンフォーカスという選択──街を“そのまま”撮るということ

写真を撮り始めたばかりの頃、多くの人が一度は「背景をぼかした写真」に憧れると思います。
特定の被写体が強く浮かび上がり、背景がふわりと溶ける。
まるで「プロの写真のよう」に撮れたという感覚が、気分を高揚させてくれるのです。

しかし、長く撮影を続けていくうちに、だんだんとその逆──**手前から奥まで、すべてにピントが合っている“パンフォーカス”**という表現の面白さに気づく瞬間がやってきます。


森山大道がパンフォーカスで撮り続ける理由

「ストリートフォトにはパンフォーカスがふさわしい」
その考え方を象徴するのが、日本を代表するストリートフォトグラファー、森山大道です。
彼の写真には「とろけるような背景ボケ」はほとんど登場しません。
手前から奥までピントの合ったパンフォーカスの作品が圧倒的多数を占めています。

なぜか。
それは、彼が撮っているのが「主題」ではなく、「都市そのものの“相”」だからです。
街を歩き、人と光と建物、そして猥雑な看板と匂いが混ざり合った“塊”をまるごと写していく。
そのとき、特定の被写体を強調する浅い被写界深度はむしろ“妨げ”になります。

パンフォーカスは、視点の階層を消し去り、すべての要素を同列に置きます。街を構成する雑多なモノが全て等しく主役になる──それが、ストリートフォトの魅力なのです。



人間の視界は本質的に「パンフォーカス的」

そしてこの考え方は、実は人間の“見え方”そのものにもつながっています。

人間の目は、一度に一点にしかピントを合わせられません。
しかし、実際には常に眼球を細かく動かし(サッカード運動)、手前も奥も隅々まで走査しながら、脳がそれらの断片を統合して「すべてが見えている」という感覚をつくり出しています。

つまり、僕たちは本質的に“パンフォーカス的”な世界を生きているのです。
だからこそ、手前から奥までを等しく描くパンフォーカス写真は、現実の知覚と深く共鳴します。



センサーサイズと「深さ」の関係

ここで少し技術的な話をしましょう。
パンフォーカスが生まれやすい背景には、センサーサイズと焦点距離の関係があります。

たとえば、フルサイズセンサーのカメラで35mmの画角を得ようとすれば、35mmのレンズを使う必要があります。
一方、比較的安価なコンパクトデジタルカメラに搭載される 1/2.3インチセンサー機では同じ画角を得るには、約6mm前後という非常に短い焦点距離のレンズが使われることになります。

この「焦点距離の短さ」こそが、被写界深度を深くするポイントです。
焦点距離が短ければ短いほど、ピントが合う範囲は広がり、深い被写界深度を得やすくなります。
だからこそ、小型センサー機はパンフォーカス的な描写が得意なのです。

森山大道がCOOLPIXシリーズを愛用するのも、単なる軽さやサイズだけではなく、パンフォーカスを得やすい光学的な理由があったかもしれません。


初心者が「ボケ」に頼ってしまう理由

写真を始めたばかりの頃は「背景をぼかす=上手い写真」と思い込みがちです。
もちろんそれは一つの重要な表現手法ですが、ストリートフォトにおいてはその使いどころはかなり慎重に吟味する必要があります。

なぜなら多くの場合、ストリートで大切なのは、**特定の被写体の存在そのものよりも、それを内包する“相”としての街”**だからです。
特定の被写体だけを際立たせると、街の空気や時間が抜け落ちて見えてしますのです。
パンフォーカスならば、看板もゴミも電線も等しく写り込み、その街“そのまま”を記録することができます。


「フラットさ」がもたらす力

パンフォーカスの写真は一見“平板”です。
しかし、その“平板さ”こそが、都市という複雑な現実の姿を表すのです。

前景と背景の差が曖昧になり、空間がひとつの“面”として立ち上がると、形や配置、リズムといった要素が強く意識されるようになります。
主役を決めず、世界をそのまま受け入れることで、フレームの中のすべてが対等に語るのです。


終わりに──世界を“そのまま”受け入れるということ

街を歩くとき、僕たちは一つの主題だけを見ているわけではありません。
人、建物、光、匂い、音──それらが同時に存在して「街」という現実を形作っています。

パンフォーカスは、そうした雑多な世界を“そのまま”受け入れる撮り方です。

写真は被写体だけを見せるものではなく、世界そのものを伝える手段です。
あなたも、パンフォーカスという選択肢を、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。


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