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写真に時間を付与する

写真に時間を付与する

東京都写真美術館で開催されている森山大道の展示に、AIを使って写真を動画化した作品がある。 一枚の静止画に動きを与え、そこに存在しなかった前後の時間をつくる。写真の中で止まっていた人物が歩き出す。車が進む。風景が揺れる。 もちろん、それは実際にその場で生じた時間ではない。AIが写真から生成した時間だ。 こうした表現に対して、「余計なことをしないでほしい」と感じる人もきっといるだろう。 写真は止まっているからこそいい。固定された一瞬は、静止したまま、見る側の想像に委ねられるべきだ。 人物はこのあとどちらへ歩いたのか。その直前には何をしていたのか。写真の外側では何が起きていたのか。そうした余白を想像することも写真を見る楽しさの一つだろう。 そこへAIが動きを与えてしまえば、その想像の余地を奪うようにも見える。静止した時間は、静止したままで良い。そういう気持ちは理解出来る。 けれど、そこで少し考えてみる。 そもそも写真家というのは、時間に対してかなり無粋なことをしてきたのではなかろうか。 本来なら過ぎ去って消えていくはずだった時間に写真家はカメラを向ける。そしてシャッターを切る。時間を、写真の中に固定してしまう。誰かが記憶の中だけにとどめておきたかった時間を、写真家は無粋にも形にする。 写真は時間を保存する表現であり、時間の流れを断ち切る表現でもある。 だとすれば、AIが写真に時間を付与することを「写真に余計なものを足した」と批判することが出来るだろうか。 写真家は時間を止めた。AIは、その止められた時間に別の時間を与える。どちらも時間に手を加える行為だ。 この二つが同じだと言いたいわけではない。写真が切り取った瞬間は、実際に存在していた。AIによって生成されたそれは、実際に存在していた時間ではない。 それでもAIによる動画化を、写真の破壊行為のように考える必要はないだろう。元の写真は消えはしない。 静止した写真は、そのまま残っている。AIで動かした映像を見たからといって、元の写真が書き換えられるわけでもない。 静止した時間に浸りたい人は、元の写真を見ればいい。それとは別にAIによって生成された映像という別の入口がある。一枚の写真に、複数の見方が生まれた。 AIは元の作品を消すのではなく、その周囲に別の表現を作る。写真に細部を足す。写真に時間を足す。そういうことが、これからごく普通のことになっていくだろう。 それが写真の価値を下げるとは限らない。むしろ、「静止している」意味がこれまで以上にはっきり見えてくるかもしれない。 写真家は、時間を止めてきた。その止めた時間を再び動かす一つの方法が生まれた。時間に介入する方法が一つ増えた。 もともと写真家は、時間に対して無粋なことをしてきたのだ。AIの無粋さばかりを責めるのはフェアじゃない。  

写真に時間を付与する

東京都写真美術館で開催されている森山大道の展示に、AIを使って写真を動画化した作品がある。 一枚の静止画に動きを与え、そこに存在しなかった前後の時間をつくる。写真の中で止まっていた人物が歩き出す。車が進む。風景が揺れる。 もちろん、それは実際にその場で生じた時間ではない。AIが写真から生成した時間だ。 こうした表現に対して、「余計なことをしないでほしい」と感じる人もきっといるだろう。 写真は止まっているからこそいい。固定された一瞬は、静止したまま、見る側の想像に委ねられるべきだ。 人物はこのあとどちらへ歩いたのか。その直前には何をしていたのか。写真の外側では何が起きていたのか。そうした余白を想像することも写真を見る楽しさの一つだろう。 そこへAIが動きを与えてしまえば、その想像の余地を奪うようにも見える。静止した時間は、静止したままで良い。そういう気持ちは理解出来る。 けれど、そこで少し考えてみる。 そもそも写真家というのは、時間に対してかなり無粋なことをしてきたのではなかろうか。 本来なら過ぎ去って消えていくはずだった時間に写真家はカメラを向ける。そしてシャッターを切る。時間を、写真の中に固定してしまう。誰かが記憶の中だけにとどめておきたかった時間を、写真家は無粋にも形にする。 写真は時間を保存する表現であり、時間の流れを断ち切る表現でもある。 だとすれば、AIが写真に時間を付与することを「写真に余計なものを足した」と批判することが出来るだろうか。 写真家は時間を止めた。AIは、その止められた時間に別の時間を与える。どちらも時間に手を加える行為だ。 この二つが同じだと言いたいわけではない。写真が切り取った瞬間は、実際に存在していた。AIによって生成されたそれは、実際に存在していた時間ではない。 それでもAIによる動画化を、写真の破壊行為のように考える必要はないだろう。元の写真は消えはしない。 静止した写真は、そのまま残っている。AIで動かした映像を見たからといって、元の写真が書き換えられるわけでもない。 静止した時間に浸りたい人は、元の写真を見ればいい。それとは別にAIによって生成された映像という別の入口がある。一枚の写真に、複数の見方が生まれた。 AIは元の作品を消すのではなく、その周囲に別の表現を作る。写真に細部を足す。写真に時間を足す。そういうことが、これからごく普通のことになっていくだろう。 それが写真の価値を下げるとは限らない。むしろ、「静止している」意味がこれまで以上にはっきり見えてくるかもしれない。 写真家は、時間を止めてきた。その止めた時間を再び動かす一つの方法が生まれた。時間に介入する方法が一つ増えた。 もともと写真家は、時間に対して無粋なことをしてきたのだ。AIの無粋さばかりを責めるのはフェアじゃない。  

見た世界、写った世界

見た世界、写った世界

ニック・ナイトの個展「NICK KNIGHT, ROSES FOR TOKYO」が開催されている。 展示されているのはiPhoneで撮影した薔薇の写真を、AIを用いて鮮明化した作品だ。 ニック・ナイトは以前から、自宅の庭に咲く薔薇をiPhoneで撮影し、その画像を加工しながら作品化してきた。 近年はそこにAIを導入している。元画像では解像していなかった部分をAIが補い、細部を作り出していく。 当然、こうした作品に対しては、「それは写真なのか?」という疑問が出てくる。 「撮影時には記録されていなかったディテールを、AIが後から推測して補っている」そう聞けば、確かに従来の写真とは少し違う。 私はこういう表現を特に否定的には捉えていない。これからこうした方法は写真表現の一つとして、ごく普通のものになっていくのではないかとも思っている。 ここで少し考えてみたい。 iPhoneを持った人と、1億画素のハッセルブラッドを持った人では、見えている世界は違うのだろうか。 もちろん、人間の目そのものが変わるわけではない。同じ場所に立っていれば、基本的には同じ景色を見ている。 しかし、撮影された画像は大きく違う。 1億画素の中判カメラなら、遠くの細部まで大量の情報が残る。 iPhoneなら、それとは異なるレンズやセンサー、画像処理を経て、一枚の画像になる。では、実際にその場で本人が見ていた景色に近いのは、どちらなのだろう。 これは意外と簡単には答えられない。 そもそも、人間が見た景色と、カメラが記録した画像は一致しない。人間の目は一点だけを固定して見ているわけではない。視線を動かし、ピントを変え、明るさに順応しながら世界を見ている。 一方、写真はその複雑な知覚を一枚の平面に固定する。その時点ですでに、現実は別のものへ変換されている。 さらに、レンズが変われば見え方が変わる。センサーが変われば情報量が変わる。フィルムなら色味も粒状感も変わる。現像やレタッチによって、コントラストも彩度も変えられる。 つまり写真は、最初から機材と技術を通して作られてきたものだ。そう考えると、AIだけを突然、写真の外側にあるものとして扱うことは不当なのではという気もしてくる。 もちろん、AIはこれまでとは大きく違う要素も含むだろう。 例えばハッセルブラッドが細部まで記録できるのは、実際にその場から入ってきた光を高い密度で記録しているからだ。一方でAIによる高精細化は、元画像に存在しなかった情報を推測し、生成したものだ。 この違いは小さくない。しかし、この違いを「写真ではなくなる境界」と単純に決めてしまうことも出来ない。 ニック・ナイトが実際に薔薇を見た。iPhoneを向けた。構図を決め、シャッターを切った。そこから画像を加工し、AIで補完した。その完成画像を見て、私はやはりそれは「写真」だと感じる。 そもそも、それが「写真」なのかを厳密に定義しようとすること自体に、大きな意味がないようにも思う。 「写真とは、実際にその場にあった光を記録したものだけである」と定義すれば、境界は明確になる。 そして、その制約の中で表現することにも価値を見出すことは出来る。制約が表現を研ぎ澄ますことは確かにある。 しかし同時に、「写真だからここまでしかしてはいけない」と決めることが、写真という表現そのものの可能性を狭くしてしまうこともある。...

見た世界、写った世界

ニック・ナイトの個展「NICK KNIGHT, ROSES FOR TOKYO」が開催されている。 展示されているのはiPhoneで撮影した薔薇の写真を、AIを用いて鮮明化した作品だ。 ニック・ナイトは以前から、自宅の庭に咲く薔薇をiPhoneで撮影し、その画像を加工しながら作品化してきた。 近年はそこにAIを導入している。元画像では解像していなかった部分をAIが補い、細部を作り出していく。 当然、こうした作品に対しては、「それは写真なのか?」という疑問が出てくる。 「撮影時には記録されていなかったディテールを、AIが後から推測して補っている」そう聞けば、確かに従来の写真とは少し違う。 私はこういう表現を特に否定的には捉えていない。これからこうした方法は写真表現の一つとして、ごく普通のものになっていくのではないかとも思っている。 ここで少し考えてみたい。 iPhoneを持った人と、1億画素のハッセルブラッドを持った人では、見えている世界は違うのだろうか。 もちろん、人間の目そのものが変わるわけではない。同じ場所に立っていれば、基本的には同じ景色を見ている。 しかし、撮影された画像は大きく違う。 1億画素の中判カメラなら、遠くの細部まで大量の情報が残る。 iPhoneなら、それとは異なるレンズやセンサー、画像処理を経て、一枚の画像になる。では、実際にその場で本人が見ていた景色に近いのは、どちらなのだろう。 これは意外と簡単には答えられない。 そもそも、人間が見た景色と、カメラが記録した画像は一致しない。人間の目は一点だけを固定して見ているわけではない。視線を動かし、ピントを変え、明るさに順応しながら世界を見ている。 一方、写真はその複雑な知覚を一枚の平面に固定する。その時点ですでに、現実は別のものへ変換されている。 さらに、レンズが変われば見え方が変わる。センサーが変われば情報量が変わる。フィルムなら色味も粒状感も変わる。現像やレタッチによって、コントラストも彩度も変えられる。 つまり写真は、最初から機材と技術を通して作られてきたものだ。そう考えると、AIだけを突然、写真の外側にあるものとして扱うことは不当なのではという気もしてくる。 もちろん、AIはこれまでとは大きく違う要素も含むだろう。 例えばハッセルブラッドが細部まで記録できるのは、実際にその場から入ってきた光を高い密度で記録しているからだ。一方でAIによる高精細化は、元画像に存在しなかった情報を推測し、生成したものだ。 この違いは小さくない。しかし、この違いを「写真ではなくなる境界」と単純に決めてしまうことも出来ない。 ニック・ナイトが実際に薔薇を見た。iPhoneを向けた。構図を決め、シャッターを切った。そこから画像を加工し、AIで補完した。その完成画像を見て、私はやはりそれは「写真」だと感じる。 そもそも、それが「写真」なのかを厳密に定義しようとすること自体に、大きな意味がないようにも思う。 「写真とは、実際にその場にあった光を記録したものだけである」と定義すれば、境界は明確になる。 そして、その制約の中で表現することにも価値を見出すことは出来る。制約が表現を研ぎ澄ますことは確かにある。 しかし同時に、「写真だからここまでしかしてはいけない」と決めることが、写真という表現そのものの可能性を狭くしてしまうこともある。...

ズームレンズについて

ズームレンズについて

今でも森山大道氏がGRで撮っているというイメージを持っている人は少なくないだろう。 実際にGRを使っていることもある。しかし、デジタルにおけるメインカメラはCOOLPIXシリーズというのが正確だと思う。 GRは単焦点レンズだ。対して森山大道氏が使うCOOLPIXシリーズは、20倍前後の高倍率ズームを搭載している。サイズは同じくらいだけれど、かなり性格の違うカメラだ。 単焦点レンズを使っていると、段々とその焦点距離に視点が固定されていくような感覚がある。 カメラを構える前から、そのレンズで撮った時にどのあたりまで画面に入るかがなんとなくわかる。 被写体との距離がこの程度なら画面のうちにこのくらいの割合を占める。壁際まで引いても被写体の全てを入れて写すことはできない。最短撮影距離で撮ったら写る範囲はこのくらいに絞られる。そうした感覚が少しずつ身体化されていく。それが写真の精度につながる。 以前、縦位置だけで撮るという話を書いたけれど、それにも少し似ているところがある。焦点距離が固定されているという制約があることで、視線が研ぎ澄まされる。 単焦点レンズを使う意味は、画質の良さだけではない。この「固定された視点」の獲得にも価値があるように思う。 では、ズームレンズではそれが得られないのか。私はそうでもないように感じている。 ズームレンズは焦点距離が固定されていない。しかし、「固定された視点の連続」のような感覚は得られる。 それは固定されていないのと同じではないか、と言われれば、その通りかもしれない。ただ、長く使っていると実感としてそれほど変わりがないような気がするのも事実だ。 ズームレンズの最大の利点は、当然ながら構図の自由度だ。立ち位置を変えなくても、画面の中の関係を大きく変えることができる。 何を入れるか。何を外すか背景をどこまで引き寄せるか。単焦点よりもその選択肢は圧倒的に多い。 一方で、その自由度と引き換えに失うものもある。画質もその一つだ。 例えばGRとCOOLPIX S7000を比べれば、センサーサイズがまず大きく違う。純粋な画質だけを比べれば、GRの方が圧倒的に有利だろう。 小型の高倍率ズーム機だから特に望遠端では、解像度はかなり落ちる。一眼カメラに大きな望遠レンズを付けた写真と比べたらその差は歴然だ。 しかし、そのあまり解像していない画もそれほど悪くはないようにも思える。ストリートフォトにおいては特に、かもしれない。 街の中、自分から遠く離れたものを望遠側で捉えてシャッターを切る。その不鮮明な写りかたは、むしろ自然なことのようにも感じる。人間の目だって、遠くのものが近くのものと同じように明瞭に見えるわけではないのだ。 写真において、鮮明さがそのままリアリティであるとは限らない。遠くのものが遠くらしく写ることも一つの特性として扱えば良い。 単焦点には単焦点の良さがある。ズームにはズームの良さがある。 画質を取るか。自由度を取るか。視点を固定するか。焦点距離を選ぶことまで含めて視点にするか。 大切なのは、その道具によって、自分の視点、撮影スタイルがどう形づくられていくかということなのだと思う。 私は基本的に自由を愛する。  

ズームレンズについて

今でも森山大道氏がGRで撮っているというイメージを持っている人は少なくないだろう。 実際にGRを使っていることもある。しかし、デジタルにおけるメインカメラはCOOLPIXシリーズというのが正確だと思う。 GRは単焦点レンズだ。対して森山大道氏が使うCOOLPIXシリーズは、20倍前後の高倍率ズームを搭載している。サイズは同じくらいだけれど、かなり性格の違うカメラだ。 単焦点レンズを使っていると、段々とその焦点距離に視点が固定されていくような感覚がある。 カメラを構える前から、そのレンズで撮った時にどのあたりまで画面に入るかがなんとなくわかる。 被写体との距離がこの程度なら画面のうちにこのくらいの割合を占める。壁際まで引いても被写体の全てを入れて写すことはできない。最短撮影距離で撮ったら写る範囲はこのくらいに絞られる。そうした感覚が少しずつ身体化されていく。それが写真の精度につながる。 以前、縦位置だけで撮るという話を書いたけれど、それにも少し似ているところがある。焦点距離が固定されているという制約があることで、視線が研ぎ澄まされる。 単焦点レンズを使う意味は、画質の良さだけではない。この「固定された視点」の獲得にも価値があるように思う。 では、ズームレンズではそれが得られないのか。私はそうでもないように感じている。 ズームレンズは焦点距離が固定されていない。しかし、「固定された視点の連続」のような感覚は得られる。 それは固定されていないのと同じではないか、と言われれば、その通りかもしれない。ただ、長く使っていると実感としてそれほど変わりがないような気がするのも事実だ。 ズームレンズの最大の利点は、当然ながら構図の自由度だ。立ち位置を変えなくても、画面の中の関係を大きく変えることができる。 何を入れるか。何を外すか背景をどこまで引き寄せるか。単焦点よりもその選択肢は圧倒的に多い。 一方で、その自由度と引き換えに失うものもある。画質もその一つだ。 例えばGRとCOOLPIX S7000を比べれば、センサーサイズがまず大きく違う。純粋な画質だけを比べれば、GRの方が圧倒的に有利だろう。 小型の高倍率ズーム機だから特に望遠端では、解像度はかなり落ちる。一眼カメラに大きな望遠レンズを付けた写真と比べたらその差は歴然だ。 しかし、そのあまり解像していない画もそれほど悪くはないようにも思える。ストリートフォトにおいては特に、かもしれない。 街の中、自分から遠く離れたものを望遠側で捉えてシャッターを切る。その不鮮明な写りかたは、むしろ自然なことのようにも感じる。人間の目だって、遠くのものが近くのものと同じように明瞭に見えるわけではないのだ。 写真において、鮮明さがそのままリアリティであるとは限らない。遠くのものが遠くらしく写ることも一つの特性として扱えば良い。 単焦点には単焦点の良さがある。ズームにはズームの良さがある。 画質を取るか。自由度を取るか。視点を固定するか。焦点距離を選ぶことまで含めて視点にするか。 大切なのは、その道具によって、自分の視点、撮影スタイルがどう形づくられていくかということなのだと思う。 私は基本的に自由を愛する。  

チンピングの是非

チンピングの是非

写真を撮った直後に、背面液晶で画像を確認することを「チンピング」と呼ぶ。 カメラの背面液晶に大きく反応している姿を、チンパンジーになぞらえて揶揄したのが由来だ。デジタルカメラが普及し始めた2000年代初頭に英語圏の写真家の間で広まった言葉だと言われる。 言葉自体を聞いたことがないという人も多いかもしれないが、このチンピングはしばしば「やりすぎない方がいい」と言われる。 まず、撮った結果である液晶に気を取られてしまうと、目の前に起きた新たな出来事を見逃す。 撮影のリズムが途切れる。 その場で即座に判断するよりも、あとでまとめて大きな液晶で確認してからにした方がいい。 というような批判がされる。どれも、非常に妥当だと思う。 しかし、私は撮影後にかなり液晶を見る。更に気に入らない写真は、その場でどんどん消していく。 写真を始めた頃は、撮影途中に画像を消すことはほとんどなかった。 その時は良く見えなくても、あとから何か引っかかるかもしれない。数か月後、数年後に見たら、突然良く思えるかもしれない。そう考えて、消すのをためらった。 確かに、そういうことはある。 撮った直後には琴線に触れなかった写真が、あとから気になることは珍しくない。その時にはわからなかった魅力が、時間を経てわかったように感じられることがある。 ただ撮り続けている中で、私はそこをあまり気にしなくなった。後から見たら良いと思う写真を消してしまったところで大したことじゃない、と思うようになったのだ。 いくら躍起になって写真を撮ったところで、私たちは結局ほとんど無限に瞬間を撮り逃している。 寝ている間にも。仕事をしている間にも。別の方向を見ている間にも。 もちろん、残しておけば何かになる可能性はある。けれど、消してしまったところで、それもまた無数にある「残らなかった写真」の一つになるだけだ。 それよりも撮影を気持ちよく続けられることの方が大切だと、少なくとも今は感じる。 撮影中、液晶を見返すのは、消去の対象を探しているだけではない。その日に撮った写真が、カメラの中で並んでいく。それは一つの連続した作品のようにも認識することができる。 1枚目に撮ったこの写真があったから、次はこれに目が向いているのかもしれない。引いた写真が多くなっていたから、思い切りズームをして引き寄せたのだろう。同じ場所で振り返って撮ったこの2枚に何か示唆が感じられるような気がする。 言葉にすればこんなところかもしれない。実際はもっとこういう様々な判断が重なり、混ざり、矛盾しながら、指向性を伴うような、そんなフィーリングだ。 その中に「意にそぐわない写真」が残っていることが、気になるようになった。 失敗した構図。反応が遅れた一枚。意図した場所に人物が入らなかった写真。見返しても、もう一度見たいと思わない写真。 そういうものがカメラの中に並んでいると、その日の流れが濁るように感じる。 だから消す。 データの整理というよりは、気分を整えるためといったほうが近いかもしれない。 もちろん、撮影中に液晶ばかり見ていれば、目の前の出来事を逃すこともある。削除操作をしている数秒の間に、良い瞬間が過ぎることだってあるだろう。 それでも私は、その日の撮影体験が気持ちよく続く方を選びたい。少なくとも今はそう感じる。 写真を撮ることは、結果としての画像を集めるだけの作業ではない。 街を歩いている時間があり、何かに反応する瞬間があり、シャッターを切った感触がある。それを確認して、違うと思えば消す。 その一連が全て私にとっての写真を撮るという行為であり、つまり「写真」なのだと思う。...

チンピングの是非

写真を撮った直後に、背面液晶で画像を確認することを「チンピング」と呼ぶ。 カメラの背面液晶に大きく反応している姿を、チンパンジーになぞらえて揶揄したのが由来だ。デジタルカメラが普及し始めた2000年代初頭に英語圏の写真家の間で広まった言葉だと言われる。 言葉自体を聞いたことがないという人も多いかもしれないが、このチンピングはしばしば「やりすぎない方がいい」と言われる。 まず、撮った結果である液晶に気を取られてしまうと、目の前に起きた新たな出来事を見逃す。 撮影のリズムが途切れる。 その場で即座に判断するよりも、あとでまとめて大きな液晶で確認してからにした方がいい。 というような批判がされる。どれも、非常に妥当だと思う。 しかし、私は撮影後にかなり液晶を見る。更に気に入らない写真は、その場でどんどん消していく。 写真を始めた頃は、撮影途中に画像を消すことはほとんどなかった。 その時は良く見えなくても、あとから何か引っかかるかもしれない。数か月後、数年後に見たら、突然良く思えるかもしれない。そう考えて、消すのをためらった。 確かに、そういうことはある。 撮った直後には琴線に触れなかった写真が、あとから気になることは珍しくない。その時にはわからなかった魅力が、時間を経てわかったように感じられることがある。 ただ撮り続けている中で、私はそこをあまり気にしなくなった。後から見たら良いと思う写真を消してしまったところで大したことじゃない、と思うようになったのだ。 いくら躍起になって写真を撮ったところで、私たちは結局ほとんど無限に瞬間を撮り逃している。 寝ている間にも。仕事をしている間にも。別の方向を見ている間にも。 もちろん、残しておけば何かになる可能性はある。けれど、消してしまったところで、それもまた無数にある「残らなかった写真」の一つになるだけだ。 それよりも撮影を気持ちよく続けられることの方が大切だと、少なくとも今は感じる。 撮影中、液晶を見返すのは、消去の対象を探しているだけではない。その日に撮った写真が、カメラの中で並んでいく。それは一つの連続した作品のようにも認識することができる。 1枚目に撮ったこの写真があったから、次はこれに目が向いているのかもしれない。引いた写真が多くなっていたから、思い切りズームをして引き寄せたのだろう。同じ場所で振り返って撮ったこの2枚に何か示唆が感じられるような気がする。 言葉にすればこんなところかもしれない。実際はもっとこういう様々な判断が重なり、混ざり、矛盾しながら、指向性を伴うような、そんなフィーリングだ。 その中に「意にそぐわない写真」が残っていることが、気になるようになった。 失敗した構図。反応が遅れた一枚。意図した場所に人物が入らなかった写真。見返しても、もう一度見たいと思わない写真。 そういうものがカメラの中に並んでいると、その日の流れが濁るように感じる。 だから消す。 データの整理というよりは、気分を整えるためといったほうが近いかもしれない。 もちろん、撮影中に液晶ばかり見ていれば、目の前の出来事を逃すこともある。削除操作をしている数秒の間に、良い瞬間が過ぎることだってあるだろう。 それでも私は、その日の撮影体験が気持ちよく続く方を選びたい。少なくとも今はそう感じる。 写真を撮ることは、結果としての画像を集めるだけの作業ではない。 街を歩いている時間があり、何かに反応する瞬間があり、シャッターを切った感触がある。それを確認して、違うと思えば消す。 その一連が全て私にとっての写真を撮るという行為であり、つまり「写真」なのだと思う。...

テーマのない写真

テーマのない写真

ストリートフォトは、写真表現の中で「自由形」に近い表現だろう。 何を撮ってもいい。どこを歩いてもいい。人物を撮ってもいいし、建物を撮ってもいい。意味のありそうなものを撮ってもいいし、なぜ撮ったのか自分でもよくわからないものを撮ってもいい。 だから基本的には、なるべくコンセプトを作らずに撮る方が面白いと思っている。 「都市の孤独を撮る」「印象的な色彩を捉える」「変わりゆく東京の記録として」 テーマを持って撮るメリットもあるだろう。しかし、先に意味を決めてしまうと、街がそのテーマのための素材に矮小化されてしまうような感覚がある。 テーマは視線を鋭くするが、視野を狭くする。 だから、何も決めずに街を歩き、ただ気になったものに反応してシャッターを切る。その方が、ストリートフォトという表現には合っているような気がしている。そのスタンスの方が私は好きだ、ということだ。 けれど、制約を設けることで、新しい感覚を得られるということはある。 以前、森山大道氏の『犬と網タイツ』に倣って、しばらくの間、縦位置だけで撮ってみたことがある。横位置では撮らない。どんな場面でも、とにかく縦位置で撮る。 これを、しばらく続けていると、視線そのものが少し変わってくる。もちろん物理的に見える範囲が変わるわけではないけれど、縦位置で捉えることを前提に世界が見えてくる。我ながら、こういう理屈は後付けのような気がするが、新しい手応えがたしかにあった。 コンセプトもまた、ある種の制約として働く。 例えば「都市の孤独」というテーマを持てば、それは「意味の方向」の視線を絞る。「縦位置だけ」というルールは、「方法の方向」に視線を絞る。 どちらも無数にある選択肢の一部を閉じることで、残されたものへの感度を高める。いずれの制約も視野に志向性を与える。 何でも撮れる状態では、視野は全方向へ開いている。それが可能であることがストリートフォトの大きな魅力だとも思う。 一方で、ときどきその自由を少しだけ制限すると、今までぼんやり見えていたものの輪郭が濃くなる。 そしてしばらく制約の中で撮ったあと、その制約を外す。その時、横位置も撮れるように戻ったからといって、縦位置だけで撮っていた経験が、消えるわけではない。先鋭化した視線が、その後の写真にも少し残る。 そう考えると、制約は作品を縛るためだけのものではない。世界を見るための訓練ともなり得るだろう。 ストリートフォトは自由なのが良い。その自由こそが最大の魅力だろうと私は思う。だからこそ、時々、自分で小さな不自由を作ってみることに価値が見出せる。 時に制約によって自由な視点はさらに遠くに及ぶかもしれない。制約を設けることもまた自由なのだから。  

テーマのない写真

ストリートフォトは、写真表現の中で「自由形」に近い表現だろう。 何を撮ってもいい。どこを歩いてもいい。人物を撮ってもいいし、建物を撮ってもいい。意味のありそうなものを撮ってもいいし、なぜ撮ったのか自分でもよくわからないものを撮ってもいい。 だから基本的には、なるべくコンセプトを作らずに撮る方が面白いと思っている。 「都市の孤独を撮る」「印象的な色彩を捉える」「変わりゆく東京の記録として」 テーマを持って撮るメリットもあるだろう。しかし、先に意味を決めてしまうと、街がそのテーマのための素材に矮小化されてしまうような感覚がある。 テーマは視線を鋭くするが、視野を狭くする。 だから、何も決めずに街を歩き、ただ気になったものに反応してシャッターを切る。その方が、ストリートフォトという表現には合っているような気がしている。そのスタンスの方が私は好きだ、ということだ。 けれど、制約を設けることで、新しい感覚を得られるということはある。 以前、森山大道氏の『犬と網タイツ』に倣って、しばらくの間、縦位置だけで撮ってみたことがある。横位置では撮らない。どんな場面でも、とにかく縦位置で撮る。 これを、しばらく続けていると、視線そのものが少し変わってくる。もちろん物理的に見える範囲が変わるわけではないけれど、縦位置で捉えることを前提に世界が見えてくる。我ながら、こういう理屈は後付けのような気がするが、新しい手応えがたしかにあった。 コンセプトもまた、ある種の制約として働く。 例えば「都市の孤独」というテーマを持てば、それは「意味の方向」の視線を絞る。「縦位置だけ」というルールは、「方法の方向」に視線を絞る。 どちらも無数にある選択肢の一部を閉じることで、残されたものへの感度を高める。いずれの制約も視野に志向性を与える。 何でも撮れる状態では、視野は全方向へ開いている。それが可能であることがストリートフォトの大きな魅力だとも思う。 一方で、ときどきその自由を少しだけ制限すると、今までぼんやり見えていたものの輪郭が濃くなる。 そしてしばらく制約の中で撮ったあと、その制約を外す。その時、横位置も撮れるように戻ったからといって、縦位置だけで撮っていた経験が、消えるわけではない。先鋭化した視線が、その後の写真にも少し残る。 そう考えると、制約は作品を縛るためだけのものではない。世界を見るための訓練ともなり得るだろう。 ストリートフォトは自由なのが良い。その自由こそが最大の魅力だろうと私は思う。だからこそ、時々、自分で小さな不自由を作ってみることに価値が見出せる。 時に制約によって自由な視点はさらに遠くに及ぶかもしれない。制約を設けることもまた自由なのだから。  

動画を撮ろう

動画を撮ろう

実は、最初に一眼レフカメラを買ったのは、動画を撮ろうと思ったからだった。 「一眼ムービー」という言葉が盛んに使われていた頃、それをやってみようとCanon EOS 5D Mark IIIを購入した。 今でも時折、イベントやSNS用の動画を撮ることはあるけれど、写真に比べるとその頻度はかなり少ない。 それでも、たまに動画を撮るのもまた面白い。同じ場所で、同じカメラを構えているのに、写真を撮る時とは違うものに目がいく。 写真を撮る時はやはり、「画になる瞬間」を探しているのだと思う。 人物がちょうど良い位置にいる。光の下を通り過ぎる一瞬。何かと何かが不意に重なるとき。絡み合う複数の要素。 シャッターを切るという行為は、その「瞬間」を選び取ることだろう。 しかし、動画を撮る時には、その前後を含めた時間の流れを見ている。 画面を横切ろうとする人の動き。規則性を伴って動く水面。弧を描く指先。風で揺れる木の影。 写真では切り捨てられる時間が、動画には残る。すると、見ているもの自体が変わる。写真では「形」として見えていたものが、動画では「変化」として見えてくる。 しかし同時に、動いていないものに時間があることにも気づく。写真の中で止まって見える世界も、全て変化の中にある。 動画には、動画ならではの難しさがある。 カメラワーク。編集のテンポ。音の使い方。前後のつながり。 写真とは違う技術が必要になる。 写真を撮る人が動画を撮る意味は、必ずしも動画が上手くなることだけではないと思う。動画を撮ることで、写真で自分が何を切り捨てているのかが見えてくる。 写真は時間を止める。正確を期すならば、流れ続ける時間の中から、ごく短い一点を切り出す。 動画を撮ると、その前後が少し戻ってくる。 すると写真を撮る時、今度は決定的な一瞬だけではなく、その前後を想像するようになる。動いている途中の形に気づく。その先の形が少し予測しやすくなる。視点に時間がもたらす動きが加わる。 動画と写真は、別の表現として語られる。それはその通りだろう。 けれど、同じカメラを使って、同じ世界を撮っている。だから、普段写真ばかり撮っている人は、たまに動画を撮ってみるのも良いと思う。 上手く撮らなくていい。作品にする必要もない。 ただ、いつも写真を撮っている街で、動画を回してみる。そして、動いている世界を捉えたあとで、もう一度いつものようにファインダーを覗く。その時、「写真を撮る」ということが、少しだけ違って感じられるかもしれない。  

動画を撮ろう

実は、最初に一眼レフカメラを買ったのは、動画を撮ろうと思ったからだった。 「一眼ムービー」という言葉が盛んに使われていた頃、それをやってみようとCanon EOS 5D Mark IIIを購入した。 今でも時折、イベントやSNS用の動画を撮ることはあるけれど、写真に比べるとその頻度はかなり少ない。 それでも、たまに動画を撮るのもまた面白い。同じ場所で、同じカメラを構えているのに、写真を撮る時とは違うものに目がいく。 写真を撮る時はやはり、「画になる瞬間」を探しているのだと思う。 人物がちょうど良い位置にいる。光の下を通り過ぎる一瞬。何かと何かが不意に重なるとき。絡み合う複数の要素。 シャッターを切るという行為は、その「瞬間」を選び取ることだろう。 しかし、動画を撮る時には、その前後を含めた時間の流れを見ている。 画面を横切ろうとする人の動き。規則性を伴って動く水面。弧を描く指先。風で揺れる木の影。 写真では切り捨てられる時間が、動画には残る。すると、見ているもの自体が変わる。写真では「形」として見えていたものが、動画では「変化」として見えてくる。 しかし同時に、動いていないものに時間があることにも気づく。写真の中で止まって見える世界も、全て変化の中にある。 動画には、動画ならではの難しさがある。 カメラワーク。編集のテンポ。音の使い方。前後のつながり。 写真とは違う技術が必要になる。 写真を撮る人が動画を撮る意味は、必ずしも動画が上手くなることだけではないと思う。動画を撮ることで、写真で自分が何を切り捨てているのかが見えてくる。 写真は時間を止める。正確を期すならば、流れ続ける時間の中から、ごく短い一点を切り出す。 動画を撮ると、その前後が少し戻ってくる。 すると写真を撮る時、今度は決定的な一瞬だけではなく、その前後を想像するようになる。動いている途中の形に気づく。その先の形が少し予測しやすくなる。視点に時間がもたらす動きが加わる。 動画と写真は、別の表現として語られる。それはその通りだろう。 けれど、同じカメラを使って、同じ世界を撮っている。だから、普段写真ばかり撮っている人は、たまに動画を撮ってみるのも良いと思う。 上手く撮らなくていい。作品にする必要もない。 ただ、いつも写真を撮っている街で、動画を回してみる。そして、動いている世界を捉えたあとで、もう一度いつものようにファインダーを覗く。その時、「写真を撮る」ということが、少しだけ違って感じられるかもしれない。