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写真は歩き方に準ずる
「写真の持つ身体性」などと言われると、面倒くさい話が始まりそうな気がする。 しかし、これは別に難しい話ではない。 例えば、撮影者の身長。 少なくともストリートフォトにおいて、これはかなり写真に影響する。 背の高い人が撮る写真と、低い人が撮る写真はやはり違う。目線の高さ、カメラを構える高さが違うからだ。 当たり前と言えば当たり前なのだけれど、実際に並べてみるとよくわかる。 人物の圧迫感も変わるし、空の入り方も違う。 どの高さから見ているか。自然にカメラを構えた時にどのように写るのか。 特にそれは、写真集や展示で一連としてみた時に撮影者の存在感として浮かび上がる。 ストリートフォトだと、「この人はたくさん歩いて撮っているのだろうな」と感じる写真がある。 逆に、あまり歩かずに、立ち止まり、待っている人の写真もある。 本当にそうなのか、確認したことはないけれど、そういうものは確かに写っていると私は感じる。 たくさん歩いている人にしか見えてこない光景がある。そして瞬間的な構図の判断も、歩く距離や速度に応じて変わる。 視界に入ったものを、流れのまま撮っていく人がいる。 逆に、ゆっくり歩く人、待つ人の写真は空気が留まっている。 写真は、脳だけで撮れない。身体が撮る。 同じ人が撮っても、重いカメラを持った時と軽いカメラを持っている時で写真は変わる。歩く速度も距離も変わるからだ。 カメラが変われば、撮影のリズムが変わる。 そうなれば靴を変えたって写真は変わるだろう。 コツコツと地面を鳴らす革靴で街を歩くのと、ふわふわと弾むようにスニーカーで歩くのとでは、歩き方が異なる。 歩き方が変われば、移動距離も変わる。見るものも変わる。 つまり、写真には歩く力が効く。 「写真を撮るセンスが無い」という人がいる。どうしたらセンスを磨けるのか、と。 しかしストリートフォトに最も“効く”のは、身体の使い方を考えることだろう。わからなければ、とりあえずたくさん歩くことをおすすめする。 写真は概ね脚で撮るものかもしれない。 少なくとも、家で寝転がりながらストリートフォトを撮るのは難しい。
写真は歩き方に準ずる
「写真の持つ身体性」などと言われると、面倒くさい話が始まりそうな気がする。 しかし、これは別に難しい話ではない。 例えば、撮影者の身長。 少なくともストリートフォトにおいて、これはかなり写真に影響する。 背の高い人が撮る写真と、低い人が撮る写真はやはり違う。目線の高さ、カメラを構える高さが違うからだ。 当たり前と言えば当たり前なのだけれど、実際に並べてみるとよくわかる。 人物の圧迫感も変わるし、空の入り方も違う。 どの高さから見ているか。自然にカメラを構えた時にどのように写るのか。 特にそれは、写真集や展示で一連としてみた時に撮影者の存在感として浮かび上がる。 ストリートフォトだと、「この人はたくさん歩いて撮っているのだろうな」と感じる写真がある。 逆に、あまり歩かずに、立ち止まり、待っている人の写真もある。 本当にそうなのか、確認したことはないけれど、そういうものは確かに写っていると私は感じる。 たくさん歩いている人にしか見えてこない光景がある。そして瞬間的な構図の判断も、歩く距離や速度に応じて変わる。 視界に入ったものを、流れのまま撮っていく人がいる。 逆に、ゆっくり歩く人、待つ人の写真は空気が留まっている。 写真は、脳だけで撮れない。身体が撮る。 同じ人が撮っても、重いカメラを持った時と軽いカメラを持っている時で写真は変わる。歩く速度も距離も変わるからだ。 カメラが変われば、撮影のリズムが変わる。 そうなれば靴を変えたって写真は変わるだろう。 コツコツと地面を鳴らす革靴で街を歩くのと、ふわふわと弾むようにスニーカーで歩くのとでは、歩き方が異なる。 歩き方が変われば、移動距離も変わる。見るものも変わる。 つまり、写真には歩く力が効く。 「写真を撮るセンスが無い」という人がいる。どうしたらセンスを磨けるのか、と。 しかしストリートフォトに最も“効く”のは、身体の使い方を考えることだろう。わからなければ、とりあえずたくさん歩くことをおすすめする。 写真は概ね脚で撮るものかもしれない。 少なくとも、家で寝転がりながらストリートフォトを撮るのは難しい。
おすすめのカメラを紹介します
長く写真をやっていると、周りからおすすめのカメラを訊かれることが時々ある。 もちろん、予算や、その人が何を撮りたいのか、どのような場面で使うのかによって答えは変わる。そんな中、私がよく挙げるカメラのひとつに、キヤノンの6Dがある。 2012年に発売されたこのカメラは、2020万画素のフルサイズ機だ。 今となっては少し古い機種だが、中古市場ではボディが3万円台で手に入る。レンズを合わせて、5万円ほどあれば標準域をカバーするフルサイズ機として機能する。 スペックを最新のものと比較すれば優秀とは言えない。弱点は少なくない。 例えば連写性能は低い。 最近のカメラに慣れた人からすれば、もどかしく感じるかもしれない。 しかし、そもそも最初から連写で撮る必要がそれほどあるだろうか。 一枚ずつ、タイミングを見てシャッターを切る。その方が、写真を撮っている感覚はむしろ強くなる。 もちろん、そのせいでチャンスを逃すこともある。決定的な瞬間を逃した、と思うことがあるかもしれない。 しかし、考えてみてほしい。世界には無限みたいに決定的瞬間というのはあって、あなたが逃したのはそのほんの一つに過ぎない。 そしてシャッターを切りさえすれば、写らなかったものも含めて、そのときの選択は残る。 AFも同様だ。 6DはAFが弱いと言われる。確かに、測距点の数は少ないし、最新機のような高度な追従性能はない。 それでも、中央一点でピントを合わせて、そこから構図を作ることは出来る。それで、ほとんどの写真は撮れる。 もし周囲にカメラに詳しい人がいると、「コサイン誤差が」とか、言われるかもしれない。 それはそれで正しい話ではあるけれど、まずは気にしなくていい。 理屈として気になるなら、もちろん調べればいいけれど、極めて瑣末なことだと思って良い。 写りについても、十分だ。 普通に写る。癖が少なく、主張は強くない。 フルサイズ一眼レフとしては軽量の部類の機種であるけれど、ボディも堅牢で、扱いに不安はない。この辺りは最近のミラーレス機と比べて、むしろメリットになることもあるだろう。 シャッター音は「軽くて安っぽい」などと言われ、当時あまり評判が良くなかった記憶もあるが、悪くないと思う。 特に静音シャッターの、少し柔らかい音はかなり心地良い。 6Dは特別なカメラではない。 機材の話になると、どうしても性能や新しさに目がいきがちだ。 もちろん、それが必要な場面もある。 ただ、普段のスナップ写真においては、シビアな性能が求められることはそれほど多くない。ほとんどない、と言っても良いと私は思う。 ということで、私は今もこのカメラを使っている。
おすすめのカメラを紹介します
長く写真をやっていると、周りからおすすめのカメラを訊かれることが時々ある。 もちろん、予算や、その人が何を撮りたいのか、どのような場面で使うのかによって答えは変わる。そんな中、私がよく挙げるカメラのひとつに、キヤノンの6Dがある。 2012年に発売されたこのカメラは、2020万画素のフルサイズ機だ。 今となっては少し古い機種だが、中古市場ではボディが3万円台で手に入る。レンズを合わせて、5万円ほどあれば標準域をカバーするフルサイズ機として機能する。 スペックを最新のものと比較すれば優秀とは言えない。弱点は少なくない。 例えば連写性能は低い。 最近のカメラに慣れた人からすれば、もどかしく感じるかもしれない。 しかし、そもそも最初から連写で撮る必要がそれほどあるだろうか。 一枚ずつ、タイミングを見てシャッターを切る。その方が、写真を撮っている感覚はむしろ強くなる。 もちろん、そのせいでチャンスを逃すこともある。決定的な瞬間を逃した、と思うことがあるかもしれない。 しかし、考えてみてほしい。世界には無限みたいに決定的瞬間というのはあって、あなたが逃したのはそのほんの一つに過ぎない。 そしてシャッターを切りさえすれば、写らなかったものも含めて、そのときの選択は残る。 AFも同様だ。 6DはAFが弱いと言われる。確かに、測距点の数は少ないし、最新機のような高度な追従性能はない。 それでも、中央一点でピントを合わせて、そこから構図を作ることは出来る。それで、ほとんどの写真は撮れる。 もし周囲にカメラに詳しい人がいると、「コサイン誤差が」とか、言われるかもしれない。 それはそれで正しい話ではあるけれど、まずは気にしなくていい。 理屈として気になるなら、もちろん調べればいいけれど、極めて瑣末なことだと思って良い。 写りについても、十分だ。 普通に写る。癖が少なく、主張は強くない。 フルサイズ一眼レフとしては軽量の部類の機種であるけれど、ボディも堅牢で、扱いに不安はない。この辺りは最近のミラーレス機と比べて、むしろメリットになることもあるだろう。 シャッター音は「軽くて安っぽい」などと言われ、当時あまり評判が良くなかった記憶もあるが、悪くないと思う。 特に静音シャッターの、少し柔らかい音はかなり心地良い。 6Dは特別なカメラではない。 機材の話になると、どうしても性能や新しさに目がいきがちだ。 もちろん、それが必要な場面もある。 ただ、普段のスナップ写真においては、シビアな性能が求められることはそれほど多くない。ほとんどない、と言っても良いと私は思う。 ということで、私は今もこのカメラを使っている。
シャッタースピードを考える
写真を始めるときにまず覚えることのひとつに シャッタースピードがある。 速くすればブレが止まり、遅くすれば光を多く取り込める。 f値、ISOと合わせて、まず理解しなくてはいけな い概念であり、それを知ることでカメラについて 詳しくなったような気がした。 1/1000秒で切れば、動いているものは止まる。 1/10秒で切れば、被写体は流れる。 シャッタスピードひとつで、写真の見え方は大き く変わる。 撮影を重ねるうちにシチュエーションによってブ レないシャッタスピードがわかってくる。 動きが少ない場面なら1/60、日常的な動きなら 1/250、スポーツに類する場合は1/1000、 1/2000、のような具合に。 更にしばらく撮っていくと、また少し違う感 覚も出てくる。 同じブレていない写真でも1/100と1/1000では受 ける印象が異なるのだ。 見た目には、どちらも止まっている。 画像を拡大していっても、ブレている箇所は見当たらない。 それでも、どこか違う。...
シャッタースピードを考える
写真を始めるときにまず覚えることのひとつに シャッタースピードがある。 速くすればブレが止まり、遅くすれば光を多く取り込める。 f値、ISOと合わせて、まず理解しなくてはいけな い概念であり、それを知ることでカメラについて 詳しくなったような気がした。 1/1000秒で切れば、動いているものは止まる。 1/10秒で切れば、被写体は流れる。 シャッタスピードひとつで、写真の見え方は大き く変わる。 撮影を重ねるうちにシチュエーションによってブ レないシャッタスピードがわかってくる。 動きが少ない場面なら1/60、日常的な動きなら 1/250、スポーツに類する場合は1/1000、 1/2000、のような具合に。 更にしばらく撮っていくと、また少し違う感 覚も出てくる。 同じブレていない写真でも1/100と1/1000では受 ける印象が異なるのだ。 見た目には、どちらも止まっている。 画像を拡大していっても、ブレている箇所は見当たらない。 それでも、どこか違う。...
AIがどんな画像も生成出来る時代に、写真を撮る理由
どんな画像でも生成できる時代になった。 風景も、人物も、存在しない場所も、 それらしく作ることができる。 これまで写真であったものが、 これから、それらの画像に置き換わっていくだろ う。 それでも私たちは写真を撮るのだろうか。 少なくとも“画像を得る”ための別の方法は用意されたのだ。 ここで少し考えてみよう。 写真と生成された画像の違いはなんだろうか。 写真は画像でもある。 しかし、“写真を撮ること”と、 “画像を得ること”は違う。 世界を徘徊し、 何かを見て、 何かに触れ、 反応して、シャッターを切る。 その一連そのものが、 “写真”なのではないだろうか。 AIは画像を生成する。 しかしそれは、“自身である主体”が世界に対峙 し、シャッターを切るという反応を起こすことと は全く異なる現象だろう。 写真は、結果としてのみ存在するのではなく、 “一連の事象”なのだ。 もちろん、例えば仕事としての写真撮影には少な からず影響を及ぼすだろう。 商品撮影やイメージビジュアルのように、 成果としての「画像」が求められている領域では、...
AIがどんな画像も生成出来る時代に、写真を撮る理由
どんな画像でも生成できる時代になった。 風景も、人物も、存在しない場所も、 それらしく作ることができる。 これまで写真であったものが、 これから、それらの画像に置き換わっていくだろ う。 それでも私たちは写真を撮るのだろうか。 少なくとも“画像を得る”ための別の方法は用意されたのだ。 ここで少し考えてみよう。 写真と生成された画像の違いはなんだろうか。 写真は画像でもある。 しかし、“写真を撮ること”と、 “画像を得ること”は違う。 世界を徘徊し、 何かを見て、 何かに触れ、 反応して、シャッターを切る。 その一連そのものが、 “写真”なのではないだろうか。 AIは画像を生成する。 しかしそれは、“自身である主体”が世界に対峙 し、シャッターを切るという反応を起こすことと は全く異なる現象だろう。 写真は、結果としてのみ存在するのではなく、 “一連の事象”なのだ。 もちろん、例えば仕事としての写真撮影には少な からず影響を及ぼすだろう。 商品撮影やイメージビジュアルのように、 成果としての「画像」が求められている領域では、...
フィルム写真の価値
フィルムで写真を撮る理由は何だろう。 色が良いから。 粒子が美しいから。 ノスタルジーがあるから。 どれも間違いではないのだろう。 しかし、フィルム写真の本質はもう少し別のところにあるかもしれない。 フィルムで写真を撮ることは、光を物質として固定することだ。 レンズを通った光は、フィルムの乳剤に含まれるハロゲン化銀に作用し、化学変化を起こす。 現像を経て像が定着すると、それは単なる情報ではなく、実際にそこに存在する物質になる。 ネガフィルムでもポジフィルムでも構わない。ある瞬間の光は化学反応を経て、物質としてそこに残る。 この点が、デジタル写真とは違うのだ。 デジタルカメラで、光はセンサーに届く。センサーは電気信号としてそれを読み取り、最終的にそれはデータとして記録される。 どちらも写真である。しかし、フィルムでは光が物質になり、デジタルでは光が情報になる。この違いは、それぞれの写真の有り様を少し別のものにしている。 例えばフィルム写真には、どこか質量を感じる。 多分それは、そこに記録されているものが「情報」ではなく「物質」であるという感覚が影響している。 ネガフィルムは棚の引き出しに入れればそこにあり、光にかざせば像が見える。物理的に“ある”のだ。 だからフィルムの方が優れている、という話ではない。写真の価値は、どの媒体で記録されたかで決まるものでもない。スマートフォンで撮った写真も輝いているし、大判カメラで撮った写真も時に退屈だ。 それでも、光が物質になるというこのプロセスには、写真というメディアの本質の一つが秘められているようにも思う。 写真は、ある瞬間の光を取り出し、それを何らかの形で固定する。絵画のように人間が描いたものでもなく、文章のように言葉で説明されたものでもない。光そのものの痕跡を残す。 フィルム写真では、その痕跡が物質として残る。 デジタル写真では、その痕跡が情報として残る。 光が実際の物質として定着しているという感覚は原始的で、魅力的だ。フィルム写真に惹かれる人が多い理由はこのあたりにあるのだろう。 ちなみに、私は一切フィルムで写真を撮らない。まず、せっかちなので、結果がすぐに見られないことを許容できない。そして、言わずもがな一枚を撮るのにかかるコストが莫大だからだ。 それでも、撮りたい人はきっといつまでもフィルムで撮るだろう。その意思もまた美しい。
フィルム写真の価値
フィルムで写真を撮る理由は何だろう。 色が良いから。 粒子が美しいから。 ノスタルジーがあるから。 どれも間違いではないのだろう。 しかし、フィルム写真の本質はもう少し別のところにあるかもしれない。 フィルムで写真を撮ることは、光を物質として固定することだ。 レンズを通った光は、フィルムの乳剤に含まれるハロゲン化銀に作用し、化学変化を起こす。 現像を経て像が定着すると、それは単なる情報ではなく、実際にそこに存在する物質になる。 ネガフィルムでもポジフィルムでも構わない。ある瞬間の光は化学反応を経て、物質としてそこに残る。 この点が、デジタル写真とは違うのだ。 デジタルカメラで、光はセンサーに届く。センサーは電気信号としてそれを読み取り、最終的にそれはデータとして記録される。 どちらも写真である。しかし、フィルムでは光が物質になり、デジタルでは光が情報になる。この違いは、それぞれの写真の有り様を少し別のものにしている。 例えばフィルム写真には、どこか質量を感じる。 多分それは、そこに記録されているものが「情報」ではなく「物質」であるという感覚が影響している。 ネガフィルムは棚の引き出しに入れればそこにあり、光にかざせば像が見える。物理的に“ある”のだ。 だからフィルムの方が優れている、という話ではない。写真の価値は、どの媒体で記録されたかで決まるものでもない。スマートフォンで撮った写真も輝いているし、大判カメラで撮った写真も時に退屈だ。 それでも、光が物質になるというこのプロセスには、写真というメディアの本質の一つが秘められているようにも思う。 写真は、ある瞬間の光を取り出し、それを何らかの形で固定する。絵画のように人間が描いたものでもなく、文章のように言葉で説明されたものでもない。光そのものの痕跡を残す。 フィルム写真では、その痕跡が物質として残る。 デジタル写真では、その痕跡が情報として残る。 光が実際の物質として定着しているという感覚は原始的で、魅力的だ。フィルム写真に惹かれる人が多い理由はこのあたりにあるのだろう。 ちなみに、私は一切フィルムで写真を撮らない。まず、せっかちなので、結果がすぐに見られないことを許容できない。そして、言わずもがな一枚を撮るのにかかるコストが莫大だからだ。 それでも、撮りたい人はきっといつまでもフィルムで撮るだろう。その意思もまた美しい。
写真家になる方法
写真家になるのは簡単だ。 そう名乗れば良い。 私がそう名乗るのも、 「カメラマン」というよりは、 “ライフワークとして写真を撮っています”という ニュアンスが「写真家」の方が伝わるかなという 程度のことだ。 「写真家」に定義はない。 極論を言えば、生まれてから一度も写真を撮った ことがない人が、 「私は人生で最高の瞬間が訪れた時に、一度きりシャッターを押すために存在している写真家だ。まだその時は訪れていない」 と言っていたとしても、何も問題はない。 そんな人がいたら、 太刀打ちできないような気もする。 写真家を名乗るということは、 名乗った人自身の生き方が、そのまま一つの写真 家の形になるということだ。 その人生を、 「ある写真家の一例」とする、というだけのこと だろう。 誰かが作った「写真家」の定義があったとしても それに従う必要は全くない。 だから、「写真家を名乗るなんておこがましい」 などと思わず、 軽はずみに名乗ってしまえばいいと個人的には思う。 ただ、...
写真家になる方法
写真家になるのは簡単だ。 そう名乗れば良い。 私がそう名乗るのも、 「カメラマン」というよりは、 “ライフワークとして写真を撮っています”という ニュアンスが「写真家」の方が伝わるかなという 程度のことだ。 「写真家」に定義はない。 極論を言えば、生まれてから一度も写真を撮った ことがない人が、 「私は人生で最高の瞬間が訪れた時に、一度きりシャッターを押すために存在している写真家だ。まだその時は訪れていない」 と言っていたとしても、何も問題はない。 そんな人がいたら、 太刀打ちできないような気もする。 写真家を名乗るということは、 名乗った人自身の生き方が、そのまま一つの写真 家の形になるということだ。 その人生を、 「ある写真家の一例」とする、というだけのこと だろう。 誰かが作った「写真家」の定義があったとしても それに従う必要は全くない。 だから、「写真家を名乗るなんておこがましい」 などと思わず、 軽はずみに名乗ってしまえばいいと個人的には思う。 ただ、...