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写真家になる方法
写真家になるのは簡単だ。 そう名乗れば良い。 私がそう名乗るのも、 「カメラマン」というよりは、 “ライフワークとして写真を撮っています”という ニュアンスが「写真家」の方が伝わるかなという 程度のことだ。 「写真家」に定義はない。 極論を言えば、生まれてから一度も写真を撮った ことがない人が、 「私は人生で最高の瞬間が訪れた時に、一度きりシャッターを押すために存在している写真家だ。まだその時は訪れていない」 と言っていたとしても、何も問題はない。 そんな人がいたら、 太刀打ちできないような気もする。 写真家を名乗るということは、 名乗った人自身の生き方が、そのまま一つの写真 家の形になるということだ。 その人生を、 「ある写真家の一例」とする、というだけのこと だろう。 誰かが作った「写真家」の定義があったとしても それに従う必要は全くない。 だから、「写真家を名乗るなんておこがましい」 などと思わず、 軽はずみに名乗ってしまえばいいと個人的には思う。 ただ、...
写真家になる方法
写真家になるのは簡単だ。 そう名乗れば良い。 私がそう名乗るのも、 「カメラマン」というよりは、 “ライフワークとして写真を撮っています”という ニュアンスが「写真家」の方が伝わるかなという 程度のことだ。 「写真家」に定義はない。 極論を言えば、生まれてから一度も写真を撮った ことがない人が、 「私は人生で最高の瞬間が訪れた時に、一度きりシャッターを押すために存在している写真家だ。まだその時は訪れていない」 と言っていたとしても、何も問題はない。 そんな人がいたら、 太刀打ちできないような気もする。 写真家を名乗るということは、 名乗った人自身の生き方が、そのまま一つの写真 家の形になるということだ。 その人生を、 「ある写真家の一例」とする、というだけのこと だろう。 誰かが作った「写真家」の定義があったとしても それに従う必要は全くない。 だから、「写真家を名乗るなんておこがましい」 などと思わず、 軽はずみに名乗ってしまえばいいと個人的には思う。 ただ、...
写真は「物語」の挿絵ではない
写真は、物語を必要としない。 それは映画や小説とは違う“強さの形式”だろう。 ただ、そこにある瞬間を固定するのが写真なのだ。 前後関係を説明しなくても成立する。 登場人物の背景も因果関係も知らなくてよい。 語らない方が写真は基本的に“強い”。 写真の強みは、その“断片性”なのだ。 時間の流れから切り離された一瞬。 それが“物語から切断される快感”を生む。 写真は説明の外側で存在できる。 だから写真は、ナラティブに従属しなくていい。 従属の逆を志向するのが“写真らしい”と思う。 だが、ほとんどの鑑賞者はナラティブを切り離して見ることは出来ない。 人は意味を求める。 無意識のうちに前後関係を想像する。 ここに写っている人はこれまでどう生きてきたのか。 この花束はどうしてここに捨てられているのか。 これは夜明けなのか夕暮れなのか。 写真が語らずとも、 物語は、鑑賞者の側から現出する。 人は経験や価値観を通して写真を見る。 “静止した写真”に、ナラティブは鑑賞者の中で動き出す。 だから、鑑賞者のナラティブを想定しておくことには意味がある。 “東京のストリートフォト”にも、 ある種のナラティブへの期待がまとわりつく。 例えばそれは、...
写真は「物語」の挿絵ではない
写真は、物語を必要としない。 それは映画や小説とは違う“強さの形式”だろう。 ただ、そこにある瞬間を固定するのが写真なのだ。 前後関係を説明しなくても成立する。 登場人物の背景も因果関係も知らなくてよい。 語らない方が写真は基本的に“強い”。 写真の強みは、その“断片性”なのだ。 時間の流れから切り離された一瞬。 それが“物語から切断される快感”を生む。 写真は説明の外側で存在できる。 だから写真は、ナラティブに従属しなくていい。 従属の逆を志向するのが“写真らしい”と思う。 だが、ほとんどの鑑賞者はナラティブを切り離して見ることは出来ない。 人は意味を求める。 無意識のうちに前後関係を想像する。 ここに写っている人はこれまでどう生きてきたのか。 この花束はどうしてここに捨てられているのか。 これは夜明けなのか夕暮れなのか。 写真が語らずとも、 物語は、鑑賞者の側から現出する。 人は経験や価値観を通して写真を見る。 “静止した写真”に、ナラティブは鑑賞者の中で動き出す。 だから、鑑賞者のナラティブを想定しておくことには意味がある。 “東京のストリートフォト”にも、 ある種のナラティブへの期待がまとわりつく。 例えばそれは、...
写真家にインプットは必要か?
写真家は、美術を知らなければならないのだろうか? まず個人的な所感。 美術もまた、世界を構成する要素のひとつとして“思い入れる”ことなく見つめるのが写真家の態度としては妥当だと思う。 写真が特別なわけではない。絵画も、彫刻も、インスタレーションも、映画も、音楽も、すべて同じ地平、かなり“近い世界”に位置している。 写真家が美術を知っていることは、自然なことだろう。 私は写真集を見るのも好きだし、写真展や美術展を見るのも好きだ。 静かな美術館を展示物を見て過ごす時間は、非常に贅沢だ。 価値を感じるし、シンプルに楽しい。 しかし、同時に思う。「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」、と。 でも別に、夜に酒を飲んでいるときに、「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」とは、思わない。 つまりそれは、インプットが刺激になっているということだ。 美術館で作品を見ていると、自分の身体のどこかが、わずかに動き出す。 それは、知識の蓄積というより、むしろ点火に近い。 インプットというのは、受動である。 情報を入れること。勉強すること。参照を増やすこと。あるいは娯楽として。 けれど、もしそれが“衝動”を生むのだとしたら、それはアウトプットの一部でもある。 見ることは撮ることの代替とはならない。しかし、見ることは撮ることの前触れになるかもしれない。
写真家にインプットは必要か?
写真家は、美術を知らなければならないのだろうか? まず個人的な所感。 美術もまた、世界を構成する要素のひとつとして“思い入れる”ことなく見つめるのが写真家の態度としては妥当だと思う。 写真が特別なわけではない。絵画も、彫刻も、インスタレーションも、映画も、音楽も、すべて同じ地平、かなり“近い世界”に位置している。 写真家が美術を知っていることは、自然なことだろう。 私は写真集を見るのも好きだし、写真展や美術展を見るのも好きだ。 静かな美術館を展示物を見て過ごす時間は、非常に贅沢だ。 価値を感じるし、シンプルに楽しい。 しかし、同時に思う。「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」、と。 でも別に、夜に酒を飲んでいるときに、「こんなものを見ている時間があるなら、写真を撮るべきではないか」とは、思わない。 つまりそれは、インプットが刺激になっているということだ。 美術館で作品を見ていると、自分の身体のどこかが、わずかに動き出す。 それは、知識の蓄積というより、むしろ点火に近い。 インプットというのは、受動である。 情報を入れること。勉強すること。参照を増やすこと。あるいは娯楽として。 けれど、もしそれが“衝動”を生むのだとしたら、それはアウトプットの一部でもある。 見ることは撮ることの代替とはならない。しかし、見ることは撮ることの前触れになるかもしれない。
写真を批評すること
写真家の 森山大道 は「写真はすべて等価だ」という言葉を残している。 この言葉は比喩などではなく、“文字通り”そうであると私は受け取っている。 すべての写真は、世界を写したもの、世界の複写であるという点において、同じ地平に立っている。 “良い写真”とか“悪い写真”という評価はナンセンスだろう。少なくとも、“存在”のレベルで、そのような区分はし得ない。 極端に言えば、すべての写真は素晴らしい。 それでも私は、ときどき人の写真に言及する。辛辣で、批判的だと感じられるものにもなる。言葉にすればこれは矛盾しているだろう。 しかし、この2つは、相容れないものではない。 例えば、すべての生命は等しく大切だ。 それでも私たちは、個人の生き方について言及する。 その選択は楽かもしれない、と伝えることもあるし、それを選択すればどこかで行き詰まるかもしれない、と伝えることもある。 生命の価値と、生き方の選択は、別の次元にある。 写真も、たぶんそれに近い。 写真は、等価だ。全ての存在は同様に尊重されなければならない。 けれど、例えば、その写真がどこへ向かおうとしているのか、あるいは、どこで止まってしまっているのかについて、言葉を添えることはできる。 写真に対する意見というのは、作家にとってありがたいものだ。 自分では見えていなかったものが、否定的なものであったとしても、他人の視点を通して、初めて輪郭を持つことがある。 もちろん、ただの誹謗中傷は、この限りではない。それは批評ではないし、意見ですらない。 ただし、仕事としての批評が意味を持つ条件があるとすれば、それは、その批評自体が「作品」として成立しているときだけだと、私は思う。 写真を説明する、正解を誘導する、評価を代行するだけの批評。 それらは便利かもしれないが、写真と同じ緊張感の中にはない。 写真は、批評で価値を得るわけではない。しかし、批評そのものが作品として成立していれば、それはひとつの表現として、写真と同じ地平に立つだろう。
写真を批評すること
写真家の 森山大道 は「写真はすべて等価だ」という言葉を残している。 この言葉は比喩などではなく、“文字通り”そうであると私は受け取っている。 すべての写真は、世界を写したもの、世界の複写であるという点において、同じ地平に立っている。 “良い写真”とか“悪い写真”という評価はナンセンスだろう。少なくとも、“存在”のレベルで、そのような区分はし得ない。 極端に言えば、すべての写真は素晴らしい。 それでも私は、ときどき人の写真に言及する。辛辣で、批判的だと感じられるものにもなる。言葉にすればこれは矛盾しているだろう。 しかし、この2つは、相容れないものではない。 例えば、すべての生命は等しく大切だ。 それでも私たちは、個人の生き方について言及する。 その選択は楽かもしれない、と伝えることもあるし、それを選択すればどこかで行き詰まるかもしれない、と伝えることもある。 生命の価値と、生き方の選択は、別の次元にある。 写真も、たぶんそれに近い。 写真は、等価だ。全ての存在は同様に尊重されなければならない。 けれど、例えば、その写真がどこへ向かおうとしているのか、あるいは、どこで止まってしまっているのかについて、言葉を添えることはできる。 写真に対する意見というのは、作家にとってありがたいものだ。 自分では見えていなかったものが、否定的なものであったとしても、他人の視点を通して、初めて輪郭を持つことがある。 もちろん、ただの誹謗中傷は、この限りではない。それは批評ではないし、意見ですらない。 ただし、仕事としての批評が意味を持つ条件があるとすれば、それは、その批評自体が「作品」として成立しているときだけだと、私は思う。 写真を説明する、正解を誘導する、評価を代行するだけの批評。 それらは便利かもしれないが、写真と同じ緊張感の中にはない。 写真は、批評で価値を得るわけではない。しかし、批評そのものが作品として成立していれば、それはひとつの表現として、写真と同じ地平に立つだろう。
「作品撮り」ってなんだろう?
SNSで「作品撮りの被写体募集します」という投稿を見かける。 もちろん、それが悪いわけではない。ただ、少し引っかかる。 被写体がいると写真は“作品”になるのだろうか。そもそも、“作品撮り”とはなにか。 たとえば、家で一人くつろいでいる時にふと窓際の光が綺麗だなとシャッターを切ったとする。見返すと、その一枚がとても綺麗だった。その写真は、作品にはならないだろうか。 逆に初めから「これは作品を撮るぞ」と思って撮った写真は、必ず作品になるだろうか。 モデルを使うかどうか。街なのかスタジオなのか。それらは全部「方法」の話であって、「作品かどうか」とは別軸のものだろう。 写真を自動的に「作品」に変える魔法はない。 それに、「作品」を撮ろうとか思わずにふとシャッターを切った写真の方が、ずっと「写真的」だと僕は思ったりもする。 そのいう中から、後から見て「これ、いいな」と思うものが出てくる。そして、それが増えてくる。それくらいの態度でいたほうが、世界に素直に対峙できるような気がするのだ。 写真は、まず行為であって、次に記録で、そのあと、作品になることもある。 最初から作品である必要はない。 撮ったものが、作品だと思われても、思われなくても構わない。それで写真が変わるわけではないから。
「作品撮り」ってなんだろう?
SNSで「作品撮りの被写体募集します」という投稿を見かける。 もちろん、それが悪いわけではない。ただ、少し引っかかる。 被写体がいると写真は“作品”になるのだろうか。そもそも、“作品撮り”とはなにか。 たとえば、家で一人くつろいでいる時にふと窓際の光が綺麗だなとシャッターを切ったとする。見返すと、その一枚がとても綺麗だった。その写真は、作品にはならないだろうか。 逆に初めから「これは作品を撮るぞ」と思って撮った写真は、必ず作品になるだろうか。 モデルを使うかどうか。街なのかスタジオなのか。それらは全部「方法」の話であって、「作品かどうか」とは別軸のものだろう。 写真を自動的に「作品」に変える魔法はない。 それに、「作品」を撮ろうとか思わずにふとシャッターを切った写真の方が、ずっと「写真的」だと僕は思ったりもする。 そのいう中から、後から見て「これ、いいな」と思うものが出てくる。そして、それが増えてくる。それくらいの態度でいたほうが、世界に素直に対峙できるような気がするのだ。 写真は、まず行為であって、次に記録で、そのあと、作品になることもある。 最初から作品である必要はない。 撮ったものが、作品だと思われても、思われなくても構わない。それで写真が変わるわけではないから。
久しぶりに革靴を買った
久しぶりに革靴を買った。Scotch Grainという日本のメーカーのものだ。 最近はずっとスニーカーばかりだったし、革靴を買うつもりもまるでなかったのだけれど、古着店で見かけて、未使用に近いような美品、サイズもぴったりだったので、衝動的に購入した。 街で写真を撮り始めてからは、とにかく、たくさん歩くようになった。 徒歩の“線”では、街の“面”を埋めることなんて到底できないのだけれど、それでも、出来るだけ“隈なく”世界をなぞりたいというような気持ちがあった。 そういう撮り方をする時には、どうしても足元はスニーカーになった。革靴を履く選択肢はなかった。 今日はどれだけ歩いたか、何枚撮ったか。そういうことが、やはりどこか気になっていたのだろう。たくさん歩いた日は、それだけで「今日はちゃんと写真を撮った」気がして、安堵したのだろう。 最近、そういう感覚が少し薄れてきた。 写真を取りにいっても、それほど歩かない日もあるし、何も撮れていない日も受け入れられる。 もしかすると、その変化が、革靴を買った“見えない動機”だったかもしれない。 久しぶりに、歩くための靴ではなく、履きたい靴を選んだ。 まあ、そういうのはもちろん後付けであって、ただ、久しぶりに買った新しい革靴が気に入っている、というだけのことだろう。 履くと、少し気分が変わるが変わるのが楽しい。もちろん、ストリートフォトは、出来るだけたくさん撮った方がいいし、“もう充分撮った”なんてことは全くない。 スニーカーもまだまだ必要だし、これからもたくさん歩かなくてはな、と思う。ただ、「今日は革靴でもいいか」と思える日が出来た。少なくとも、今はそれがある。 その変化もネガティヴなものだとは思わない。
久しぶりに革靴を買った
久しぶりに革靴を買った。Scotch Grainという日本のメーカーのものだ。 最近はずっとスニーカーばかりだったし、革靴を買うつもりもまるでなかったのだけれど、古着店で見かけて、未使用に近いような美品、サイズもぴったりだったので、衝動的に購入した。 街で写真を撮り始めてからは、とにかく、たくさん歩くようになった。 徒歩の“線”では、街の“面”を埋めることなんて到底できないのだけれど、それでも、出来るだけ“隈なく”世界をなぞりたいというような気持ちがあった。 そういう撮り方をする時には、どうしても足元はスニーカーになった。革靴を履く選択肢はなかった。 今日はどれだけ歩いたか、何枚撮ったか。そういうことが、やはりどこか気になっていたのだろう。たくさん歩いた日は、それだけで「今日はちゃんと写真を撮った」気がして、安堵したのだろう。 最近、そういう感覚が少し薄れてきた。 写真を取りにいっても、それほど歩かない日もあるし、何も撮れていない日も受け入れられる。 もしかすると、その変化が、革靴を買った“見えない動機”だったかもしれない。 久しぶりに、歩くための靴ではなく、履きたい靴を選んだ。 まあ、そういうのはもちろん後付けであって、ただ、久しぶりに買った新しい革靴が気に入っている、というだけのことだろう。 履くと、少し気分が変わるが変わるのが楽しい。もちろん、ストリートフォトは、出来るだけたくさん撮った方がいいし、“もう充分撮った”なんてことは全くない。 スニーカーもまだまだ必要だし、これからもたくさん歩かなくてはな、と思う。ただ、「今日は革靴でもいいか」と思える日が出来た。少なくとも、今はそれがある。 その変化もネガティヴなものだとは思わない。