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中央線の西側、吉祥寺の手触り
吉祥寺と言えば「住みたい街ランキング」の常連として知られているだろう。同時に近郊に住む人らの集まる観光地でもある。 週末になれば街は人で溢れ、小さな子どもを連れた家族やカップルで賑わう。商業施設も多く、食べるものも買うものもなんでも揃っている。一度来て街を数時間歩いただけだと高円寺や阿佐ヶ谷のような「中央線文化圏」とは一線を画すように感じられるかもしれない。 しかし、確かに吉祥寺には「中央線文化の匂い」が残っている。 わかりやすいのはやはりランドマーク、ハモニカ横丁だろう。それは「観光地化」の代名詞でもあるけれど、時間をかけて付き合うと、そこには他の中央線の街に漂うのと同じ空気が流れていることがわかる。昼間から飲める居酒屋、狭い階段を上った先の喫茶店、骨董店にアメリカンカジュアルの服飾店。それは図らずも「中央線文化」のテーマパークのようでもある。 街としては端正だ。その整いの中で時折、柔らかくも芯のある「ナニカ」に触ることがある。ピストバイクを手足のように操る若い人、閉店後のシャッターの前で楽器を奏でるミュージシャン、井の頭の森から迷い込んでしまった狸。そのどれもが、吉祥寺を吉祥寺たらしめている。 今の私にとっては一番「近所の街」なのでふとした合間に出かけて行って写真を撮る。身内の写真を撮る時のような気恥ずかしさが微かにあるかもしれない。整っていながら、どこかすき間がある。そのすき間から吹く風を或いはすき間それ自体の感触を確かめるようにシャッターを切る。 この日は、SEIKOのSUPERIOR 9983-8000を着けて歩いた。 GRANDの上位にも位置付けられるSUPERIORの中でも、ツインクォーツを採用したこのモデルは精度と共に極めて洗練されたフォルム。近所のお散歩には過ぎた腕時計かもしれなけれど、そういうのが良いとも思う。シャッターを切るたび、メタルブレスも微かに鳴った。 吉祥寺は、誰にでも開かれている街だ。そのカジュアルな外見に囚われて「ナニカ」を見逃さないように注意深く歩を進めて欲しい。
中央線の西側、吉祥寺の手触り
吉祥寺と言えば「住みたい街ランキング」の常連として知られているだろう。同時に近郊に住む人らの集まる観光地でもある。 週末になれば街は人で溢れ、小さな子どもを連れた家族やカップルで賑わう。商業施設も多く、食べるものも買うものもなんでも揃っている。一度来て街を数時間歩いただけだと高円寺や阿佐ヶ谷のような「中央線文化圏」とは一線を画すように感じられるかもしれない。 しかし、確かに吉祥寺には「中央線文化の匂い」が残っている。 わかりやすいのはやはりランドマーク、ハモニカ横丁だろう。それは「観光地化」の代名詞でもあるけれど、時間をかけて付き合うと、そこには他の中央線の街に漂うのと同じ空気が流れていることがわかる。昼間から飲める居酒屋、狭い階段を上った先の喫茶店、骨董店にアメリカンカジュアルの服飾店。それは図らずも「中央線文化」のテーマパークのようでもある。 街としては端正だ。その整いの中で時折、柔らかくも芯のある「ナニカ」に触ることがある。ピストバイクを手足のように操る若い人、閉店後のシャッターの前で楽器を奏でるミュージシャン、井の頭の森から迷い込んでしまった狸。そのどれもが、吉祥寺を吉祥寺たらしめている。 今の私にとっては一番「近所の街」なのでふとした合間に出かけて行って写真を撮る。身内の写真を撮る時のような気恥ずかしさが微かにあるかもしれない。整っていながら、どこかすき間がある。そのすき間から吹く風を或いはすき間それ自体の感触を確かめるようにシャッターを切る。 この日は、SEIKOのSUPERIOR 9983-8000を着けて歩いた。 GRANDの上位にも位置付けられるSUPERIORの中でも、ツインクォーツを採用したこのモデルは精度と共に極めて洗練されたフォルム。近所のお散歩には過ぎた腕時計かもしれなけれど、そういうのが良いとも思う。シャッターを切るたび、メタルブレスも微かに鳴った。 吉祥寺は、誰にでも開かれている街だ。そのカジュアルな外見に囚われて「ナニカ」を見逃さないように注意深く歩を進めて欲しい。
写真の構図とは何か|意味・意図に頼らないフレーミング論
「構図」には、しばしば“意味”や“意図”の伝達が求められる。視線誘導の線、主題の配置、背景の整理を意図することが「良い構図」につながるという理屈だ。確かにロジックの一つではあるだろう。 しかし、意味や意図の明確さが、写真の価値と直結するとは思わない。それなら、構図もまた違う視点から捉えられていいはずだ。 構図とは、単なる物の配置ではない。そこに写り込んだあらゆる要素――光の量、色の濃淡、シャッターのタイミング、ピントのズレやブレも含めた“全体”で成立している。ブレは平面に焼きつけられた運動であり、ピンボケは視界の不確かさの写しだ。それらは撮影者の意図を超え更には鑑賞者が容易に把握し得る意味をも超える。 意味や意図が伝わることは、写真の持つ力の一側面にすぎない。その一側面に囚われてしまえば「写真」は不自由なものになる。 構図とはつまり、写真に写ったすべてのものの配置、というよりも“存在した事象それ自体からなる構成物”に近い。綺麗な整理よりも「リアルな」関係性として、それは表層的な意味や意図を超えて強く響くことがある。 私は今も構図について考えている。けれど、答えを出すつもりはない。それは優れた答えを出すことよりも、問い続けることのほうが正解にいくらか近づける気がするからだ。
写真の構図とは何か|意味・意図に頼らないフレーミング論
「構図」には、しばしば“意味”や“意図”の伝達が求められる。視線誘導の線、主題の配置、背景の整理を意図することが「良い構図」につながるという理屈だ。確かにロジックの一つではあるだろう。 しかし、意味や意図の明確さが、写真の価値と直結するとは思わない。それなら、構図もまた違う視点から捉えられていいはずだ。 構図とは、単なる物の配置ではない。そこに写り込んだあらゆる要素――光の量、色の濃淡、シャッターのタイミング、ピントのズレやブレも含めた“全体”で成立している。ブレは平面に焼きつけられた運動であり、ピンボケは視界の不確かさの写しだ。それらは撮影者の意図を超え更には鑑賞者が容易に把握し得る意味をも超える。 意味や意図が伝わることは、写真の持つ力の一側面にすぎない。その一側面に囚われてしまえば「写真」は不自由なものになる。 構図とはつまり、写真に写ったすべてのものの配置、というよりも“存在した事象それ自体からなる構成物”に近い。綺麗な整理よりも「リアルな」関係性として、それは表層的な意味や意図を超えて強く響くことがある。 私は今も構図について考えている。けれど、答えを出すつもりはない。それは優れた答えを出すことよりも、問い続けることのほうが正解にいくらか近づける気がするからだ。
荒木経惟とストリートフォト|通過者ではなく生活者としての視線
日本を代表する写真家といえば間違いなく荒木経惟である。「私写真」やポートレートのイメージが強いが森山大道とは別のアプローチのストリートフォトもまた傑出している。 森山の視線が「通過者」のものだとすれば、荒木の視線は「生活者」のものに近い。ストリートフォトでも「センチメンタル」を感じさせるが、「センチメンタルそのもの」ではなくそれを俯瞰して見ている。これは彼の全ての写真に共通するように思う。湿度のある感情をフィルムに焼き付けることで俯瞰しているのかもしれない。 例えば1990年代に撮影された『東京物語』には、人物が不在の街並みのカットが多い。人がいない「物語」は「生活者」としての荒木の視点によって推進力を得ている。それは「センチメンタルそのもの」を捉えるのではなく、それを引いた視線で捉えているからこそ可能になっているだろう。荒木のストリートフォトには、「偶然性」と共に「関係性」が写っている。東京という街を「対象」としてではなく「一部」として写し続けた荒木経惟。それが彼のストリートフォトの大きな特徴と言えるだろう。 彼はその独特の風貌で、かつてはメディアにも多数出演していたこともあり、特に40代より上の世代では認知度が高いと同時に写真家としての評価を見誤っている人も多いように思う。私は彼が森山大道と並び日本を、世界を代表する写真家であることに疑念の余地はないと考える。もし写真家を志していて、彼の作品をしっかりと見たことのない人がいれば直ちに見るべきだ、と老婆心ながらお伝えしておきたい。
荒木経惟とストリートフォト|通過者ではなく生活者としての視線
日本を代表する写真家といえば間違いなく荒木経惟である。「私写真」やポートレートのイメージが強いが森山大道とは別のアプローチのストリートフォトもまた傑出している。 森山の視線が「通過者」のものだとすれば、荒木の視線は「生活者」のものに近い。ストリートフォトでも「センチメンタル」を感じさせるが、「センチメンタルそのもの」ではなくそれを俯瞰して見ている。これは彼の全ての写真に共通するように思う。湿度のある感情をフィルムに焼き付けることで俯瞰しているのかもしれない。 例えば1990年代に撮影された『東京物語』には、人物が不在の街並みのカットが多い。人がいない「物語」は「生活者」としての荒木の視点によって推進力を得ている。それは「センチメンタルそのもの」を捉えるのではなく、それを引いた視線で捉えているからこそ可能になっているだろう。荒木のストリートフォトには、「偶然性」と共に「関係性」が写っている。東京という街を「対象」としてではなく「一部」として写し続けた荒木経惟。それが彼のストリートフォトの大きな特徴と言えるだろう。 彼はその独特の風貌で、かつてはメディアにも多数出演していたこともあり、特に40代より上の世代では認知度が高いと同時に写真家としての評価を見誤っている人も多いように思う。私は彼が森山大道と並び日本を、世界を代表する写真家であることに疑念の余地はないと考える。もし写真家を志していて、彼の作品をしっかりと見たことのない人がいれば直ちに見るべきだ、と老婆心ながらお伝えしておきたい。
写真がブレる時
写真を撮る時にはまずブレないようにした方が良いだろう。 ブレていない写真の方が「ありのままの視界」に近いと私には感じられるし、それを念頭にシャッターを切るのが一種の作法だとも思う。祈りに作法があるのと同じように、スナップにも作法があるほうが身が引き締まる。 森山大道の「アレ・ブレ・ボケ」は、写真表現に新しい扉を開いた。しかし実際には、彼の写真もほとんどはピントが合っているし、ブレてもいない。 ブレた写真を見返して「悪くないな」と思うこともある。歩きながら咄嗟に切った一枚、思わずカメラを傾けた瞬間のカット。それを否定しない。 写真において「ブレ」は、“味”や“演出”になりやすい。それは“良くも悪くも”だろう。少なくとも今の自分はなるべくブレずに撮るという姿勢が世界に対峙する姿勢として自然に感じられる。 その上で、偶然にブレたカットに気に入るものが見つかれば、それはギフトだと思うのがよい。
写真がブレる時
写真を撮る時にはまずブレないようにした方が良いだろう。 ブレていない写真の方が「ありのままの視界」に近いと私には感じられるし、それを念頭にシャッターを切るのが一種の作法だとも思う。祈りに作法があるのと同じように、スナップにも作法があるほうが身が引き締まる。 森山大道の「アレ・ブレ・ボケ」は、写真表現に新しい扉を開いた。しかし実際には、彼の写真もほとんどはピントが合っているし、ブレてもいない。 ブレた写真を見返して「悪くないな」と思うこともある。歩きながら咄嗟に切った一枚、思わずカメラを傾けた瞬間のカット。それを否定しない。 写真において「ブレ」は、“味”や“演出”になりやすい。それは“良くも悪くも”だろう。少なくとも今の自分はなるべくブレずに撮るという姿勢が世界に対峙する姿勢として自然に感じられる。 その上で、偶然にブレたカットに気に入るものが見つかれば、それはギフトだと思うのがよい。
中央線の西側、高円寺の午後
高円寺では、口数は少ないけれど、一緒にいると不思議と退屈しない友人と過ごすような時間が流れる。推進力があるけれど急かさない、肩を組んで一緒に歩いてくれるような街。 駅前のアーケードは昔ながらの佇まいだけれど若者の姿も目立つ。古着屋の前に設置された灰皿には紙たばこの吸い殻が溢れ、店内のBGMが漏れ聞こえる。そこから細い路地へ入ると、スーパーマーケットとその前に並ぶたくさんの自転車。子供用シートの付いたものも多い。部屋着のような格好で買い物に来ている人たちもいるけれど、それでもどこか高円寺らしいファッションにも見える。 この日もいつもの「儀式」として腕時計を着けていた。セイコーのヴィンテージウォッチの中でも特に気に入っている一本「フジツボVFA」と呼ばれるモデル。VFAは「Very Fine Ajusted」の略。クォーツ技術の黎明期に最高クラスの精度を誇った時計だ。フジツボのような特徴的なフォルムはおそらく温度差による時刻のズレを最小限に抑えるための設計だったのだろう。 グラフィティの描かれた店舗のシャッター、首輪に鈴の付いた野良猫、商店街の中に紛れた住家のベランダには所狭しと洗濯物がかけられている。それは「生活」そのものであると同時にこの街の舞台装置。シャッターチャンスを探して注意深く歩くのではなく、街のリズムに合わせて歩を進め、時折出す足を揃え直すかのようにシャッターを切る。 気の置けない街で気の済むまで写真を撮り歩いたら、賑やかになり始めた居酒屋の店頭を横目に帰路に着く。
中央線の西側、高円寺の午後
高円寺では、口数は少ないけれど、一緒にいると不思議と退屈しない友人と過ごすような時間が流れる。推進力があるけれど急かさない、肩を組んで一緒に歩いてくれるような街。 駅前のアーケードは昔ながらの佇まいだけれど若者の姿も目立つ。古着屋の前に設置された灰皿には紙たばこの吸い殻が溢れ、店内のBGMが漏れ聞こえる。そこから細い路地へ入ると、スーパーマーケットとその前に並ぶたくさんの自転車。子供用シートの付いたものも多い。部屋着のような格好で買い物に来ている人たちもいるけれど、それでもどこか高円寺らしいファッションにも見える。 この日もいつもの「儀式」として腕時計を着けていた。セイコーのヴィンテージウォッチの中でも特に気に入っている一本「フジツボVFA」と呼ばれるモデル。VFAは「Very Fine Ajusted」の略。クォーツ技術の黎明期に最高クラスの精度を誇った時計だ。フジツボのような特徴的なフォルムはおそらく温度差による時刻のズレを最小限に抑えるための設計だったのだろう。 グラフィティの描かれた店舗のシャッター、首輪に鈴の付いた野良猫、商店街の中に紛れた住家のベランダには所狭しと洗濯物がかけられている。それは「生活」そのものであると同時にこの街の舞台装置。シャッターチャンスを探して注意深く歩くのではなく、街のリズムに合わせて歩を進め、時折出す足を揃え直すかのようにシャッターを切る。 気の置けない街で気の済むまで写真を撮り歩いたら、賑やかになり始めた居酒屋の店頭を横目に帰路に着く。
街に出る為の装置としてのカメラ
人間はなるべくたくさん歩いた方がいい。歳を取ってきたら尚更だ。しかし、まったくの無目的ではなかなか動き出せない。そんな時はカメラを持つのがいい。 写真を撮るために歩くのではなく、歩くために写真を撮る。そこで撮れた写真だって価値は同じだ。店先に干された布巾、剥がれかけたポスター、積み上げられた土嚢。他の誰が見たいわけでもないものを拾い集めるようにシャッターを切る。記録ですらなく、ほとんど条件反射みたいなもの。それでもその行為は私を街に連れ出してくれる。 カメラがあれば、普段入らない路地にも自然に足が向く。いい写真なんて撮れなくたって構わない。いや、いい写真なんてそもそもない。何も撮らなくたって、それはそれで構わない。 だからカメラを持って歩こう。なんと言っても歩くのは体に良い。
街に出る為の装置としてのカメラ
人間はなるべくたくさん歩いた方がいい。歳を取ってきたら尚更だ。しかし、まったくの無目的ではなかなか動き出せない。そんな時はカメラを持つのがいい。 写真を撮るために歩くのではなく、歩くために写真を撮る。そこで撮れた写真だって価値は同じだ。店先に干された布巾、剥がれかけたポスター、積み上げられた土嚢。他の誰が見たいわけでもないものを拾い集めるようにシャッターを切る。記録ですらなく、ほとんど条件反射みたいなもの。それでもその行為は私を街に連れ出してくれる。 カメラがあれば、普段入らない路地にも自然に足が向く。いい写真なんて撮れなくたって構わない。いや、いい写真なんてそもそもない。何も撮らなくたって、それはそれで構わない。 だからカメラを持って歩こう。なんと言っても歩くのは体に良い。