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GRとCOOLPIXを比較してみる
ストリートフォトに適したカメラというと、多くの人がまず思い浮かべるのはRICOHのGRシリーズだろう。コンパクトで軽く、片手で撮れる操作性。28mmの画角もストリート向きとされ、長年多くのスナップシューターに愛されている。 一方で、森山大道は長くNikonのCOOLPIXシリーズを使用している。いわゆる“高級”コンデジではない、ごく普通の小型カメラを使い続けているのは興味深い。大きさはGRとそれほど変わらないが大きく異なるのはセンサーサイズ、つまり画質と、単焦点レンズか高倍率ズームレンズかという点である。端的に言えば、彼は画質よりもズームレンズによる構図の選択肢の幅を優先していると言っても良いかもしれない。 大きな一眼レフやミラーレスでストリートフォトを撮ると言う人も少なくない。大きなカメラを使うことのデメリットはそれが街に溶け込まないことだ。慣れない人であれば周囲からの視線も気になる。それは写真に写る空気や距離感に影響を与えるだろう。対して小さなカメラは街に溶け込みやすい。これはストリートフォトにおいて大きなアドバンテージとなる。もう一つ馬鹿にできない要素は大きなカメラの重量は撮影者の体力を奪う。 もちろん、大きなカメラでこそ撮れるものもある。画質の良さや大きなカメラを構えて撮ることによって生まれる創造性というのは間違いなく存在する。実際、私はCOOLPIXとペンタックスの645Dで主に撮影を行なっているが、これはサイズという点では、ほとんど対極にあるカメラだ。。 ただ、ストリートフォトにとって何より重要なカメラの性質はいつでも持っていられること、撮影のチャンスをいかに多く与えてくれるかということだと私は思っている。それはやはり写真において「量のない質はない」からである。 もしあなたがストリートフォトを始めてみようと思い、その為のカメラを選ぼうとしているのなら、まずはこのことを念頭に置くのが良いだろう。
GRとCOOLPIXを比較してみる
ストリートフォトに適したカメラというと、多くの人がまず思い浮かべるのはRICOHのGRシリーズだろう。コンパクトで軽く、片手で撮れる操作性。28mmの画角もストリート向きとされ、長年多くのスナップシューターに愛されている。 一方で、森山大道は長くNikonのCOOLPIXシリーズを使用している。いわゆる“高級”コンデジではない、ごく普通の小型カメラを使い続けているのは興味深い。大きさはGRとそれほど変わらないが大きく異なるのはセンサーサイズ、つまり画質と、単焦点レンズか高倍率ズームレンズかという点である。端的に言えば、彼は画質よりもズームレンズによる構図の選択肢の幅を優先していると言っても良いかもしれない。 大きな一眼レフやミラーレスでストリートフォトを撮ると言う人も少なくない。大きなカメラを使うことのデメリットはそれが街に溶け込まないことだ。慣れない人であれば周囲からの視線も気になる。それは写真に写る空気や距離感に影響を与えるだろう。対して小さなカメラは街に溶け込みやすい。これはストリートフォトにおいて大きなアドバンテージとなる。もう一つ馬鹿にできない要素は大きなカメラの重量は撮影者の体力を奪う。 もちろん、大きなカメラでこそ撮れるものもある。画質の良さや大きなカメラを構えて撮ることによって生まれる創造性というのは間違いなく存在する。実際、私はCOOLPIXとペンタックスの645Dで主に撮影を行なっているが、これはサイズという点では、ほとんど対極にあるカメラだ。。 ただ、ストリートフォトにとって何より重要なカメラの性質はいつでも持っていられること、撮影のチャンスをいかに多く与えてくれるかということだと私は思っている。それはやはり写真において「量のない質はない」からである。 もしあなたがストリートフォトを始めてみようと思い、その為のカメラを選ぼうとしているのなら、まずはこのことを念頭に置くのが良いだろう。
中央線の西側、阿佐ヶ谷の静かな日
中央線の駅の中で、阿佐ヶ谷は幾らかの「静謐」を抱いている。駅前から続く商店街には活気がある。しかしそれは生活に根付いたブルースのように煩くない。 老舗のアジアレストランに花屋、金物店を過ぎるとロースターやジェラテリアといった比較的新しいお店が少しずつ合流してくる。駅から遠くない場所で「住宅地」が感じられるのもこの街の特徴だろう。 ふと目をやると、壁に貼られたポスターが風に吹かれている。「昔風」の色彩を狙っているのだと思うけれど、それは「現在」に既に溶け込んでいる。この日は気温が高く、日の当たるところを歩いているとかなり汗をかいた。コンビニでドリンクを買って高架下のベンチで休憩を取る。 少し話はそれるけれど、街に写真を撮りに出る際、私は必ず腕時計をする。時間を見るためというよりは「儀式」に近い。この日着けていたのはセイコーの「Asie」というシリーズの一本。過去の短い期間に展開されたラインで、凝った造りのステンレスブレスとブルーグレーの文字盤が特徴的なモデル。腕時計の中でも特に1970〜1980年頃のクォーツ時計が好きだ。そこに思想が感じられる。 しばらく休んで再び阿佐ヶ谷の街を撮って歩く。この日は工事中の場所も多かった。私の写真には所謂肉体労働者の姿が割と多いと思う。プロレタリア写真かもしれない。 強い日差しがつくる電線の影、高架下を行く作業車、咲き始めた紫陽花の花。どこにでもあるような風景がこの街にもある。 そういったものこそ撮りそびれてはいけないような気がする。
中央線の西側、阿佐ヶ谷の静かな日
中央線の駅の中で、阿佐ヶ谷は幾らかの「静謐」を抱いている。駅前から続く商店街には活気がある。しかしそれは生活に根付いたブルースのように煩くない。 老舗のアジアレストランに花屋、金物店を過ぎるとロースターやジェラテリアといった比較的新しいお店が少しずつ合流してくる。駅から遠くない場所で「住宅地」が感じられるのもこの街の特徴だろう。 ふと目をやると、壁に貼られたポスターが風に吹かれている。「昔風」の色彩を狙っているのだと思うけれど、それは「現在」に既に溶け込んでいる。この日は気温が高く、日の当たるところを歩いているとかなり汗をかいた。コンビニでドリンクを買って高架下のベンチで休憩を取る。 少し話はそれるけれど、街に写真を撮りに出る際、私は必ず腕時計をする。時間を見るためというよりは「儀式」に近い。この日着けていたのはセイコーの「Asie」というシリーズの一本。過去の短い期間に展開されたラインで、凝った造りのステンレスブレスとブルーグレーの文字盤が特徴的なモデル。腕時計の中でも特に1970〜1980年頃のクォーツ時計が好きだ。そこに思想が感じられる。 しばらく休んで再び阿佐ヶ谷の街を撮って歩く。この日は工事中の場所も多かった。私の写真には所謂肉体労働者の姿が割と多いと思う。プロレタリア写真かもしれない。 強い日差しがつくる電線の影、高架下を行く作業車、咲き始めた紫陽花の花。どこにでもあるような風景がこの街にもある。 そういったものこそ撮りそびれてはいけないような気がする。
中央線の西側のこと
中央線というのは、東京都の東西を貫くように走るJRの路線だ。東京駅を起点に高尾方面へと続いている。 そのなかでも特に新宿から西のエリア、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺付近は「中央線文化圏」と呼ばれることもあり、どこか共通する空気がある。新宿や渋谷、銀座といった東京の中心部ほどギラギラしたところはないけれど、郊外のように静まり返っているわけでもない。人の多さと緩さ、文化の匂いと生活感が、ちょうど良く混ざっている。 共通した空気を持ちながらも同時に駅ごとに特徴があって、それを感じながら歩き、そして写真を撮るのも楽しい。 私はこの沿線に住み始めてちょうど5年になる。初めて訪れた街というのは刺激的でストリートフォトを撮るのにも良い条件であるけれど、同じ場所に何度も訪れることによって見えてくるものもまた有る。 「中央線の西側」は私にとっては何度も訪れた街の集合体として意味を成し始めた。 このブログでもそれぞれの街について少しずつ書いていこうと思う。もちろん写真と共に。
中央線の西側のこと
中央線というのは、東京都の東西を貫くように走るJRの路線だ。東京駅を起点に高尾方面へと続いている。 そのなかでも特に新宿から西のエリア、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺付近は「中央線文化圏」と呼ばれることもあり、どこか共通する空気がある。新宿や渋谷、銀座といった東京の中心部ほどギラギラしたところはないけれど、郊外のように静まり返っているわけでもない。人の多さと緩さ、文化の匂いと生活感が、ちょうど良く混ざっている。 共通した空気を持ちながらも同時に駅ごとに特徴があって、それを感じながら歩き、そして写真を撮るのも楽しい。 私はこの沿線に住み始めてちょうど5年になる。初めて訪れた街というのは刺激的でストリートフォトを撮るのにも良い条件であるけれど、同じ場所に何度も訪れることによって見えてくるものもまた有る。 「中央線の西側」は私にとっては何度も訪れた街の集合体として意味を成し始めた。 このブログでもそれぞれの街について少しずつ書いていこうと思う。もちろん写真と共に。
ストリートスナップの始め方|なぜ難しいと感じるのか?
「ストリートフォトは難しい」と言われることがあります。もちろんカメラを持って街に出れば、誰でもスナップは撮れるのですが、しかし「ストリートフォト」と呼べるような写真を撮ることが難しいと感じている人は少なくないでしょう。 私は、「ストリートフォトらしい」写真である必要はなく、街に出て自分の心に留まったものを撮りたいように撮ればそれは「ストリートフォト」以外の何ものでもないと考えています。しかし、そうは言っても、何かコツのようなものがあったらという期待もあるかと思いますので少し書いてみましょう。 まず、重要なのは「何を撮るか」です。あなたが街をどのように見ているのかが写真には表れます。世の中で「美しいとされているもの」だけではなく「その人だけが感じることのできる美しさ」が街にはあるかもしれません。もちろん「美しさ」にとらわれる必要もありません。「美しさ」を感じているわけではないし、なぜそれに目が留まったのか自分自身でもわからないということもあるでしょう。だからこそ写真に撮っておくのだとも言えます。 「何を撮るか」が決まれば、あとは「どう撮るか」です。構図を様々に分類して考えるような人もいますが、私はもっとシンプルに考えれば良いと思います。 「どう撮るか」というのはつまり「何を写して何を写さないか」を決めることです。例えば「百合の花」に目が留まったとしましょう。あなたのいる場所からそれを撮ると百合の背景の池の様子も写ります。「百合の花」だけを撮りたいと思えばどうしたら池の様子が写らないかを考えれば良いでしょう。逆に最初は「百合の花」に目が留まったと思っていたけれど実は「池を背景に咲く百合の花」に惹かれていたのだと気がつくこともあるはずです。 では池の対岸にぼんやりと見える木々の様子はどうか、百合の花には葉も含まれるのか、そういう取捨選択が「どう撮るか」ということなのです。 もしかすると難しさを感じるのはストリートフォトがあまりにも自由であるからかもしれません。「何を撮るか」も「どう撮るか」も全てを自由に決められることに「取っ掛かりの無さ」のようなものを感じるというのは想像できます。 もう一つ想像されるのは、多くの人が目に留める瞬間や構図、所謂「決定的瞬間」と呼ばれるものが撮りたいという気持ちかもしれません。初めからそれを求めればそれは確かに難しいかもしれませんが、それに関して私が言えるのは、少なくともそれが「ストリートフォト」の正解だなどとは考えないほうが良いということです。 「ストリートフォトは難しい?」というこの文章のタイトルに私はこう答えます。「ストリートフォトのように簡単で魅力的なものは他にはなかなかない」と。街に出てシャッターを切ってみてください。きっとそれを「取っ掛かり」にしてあなたの世界が見えてきます。
ストリートスナップの始め方|なぜ難しいと感じるのか?
「ストリートフォトは難しい」と言われることがあります。もちろんカメラを持って街に出れば、誰でもスナップは撮れるのですが、しかし「ストリートフォト」と呼べるような写真を撮ることが難しいと感じている人は少なくないでしょう。 私は、「ストリートフォトらしい」写真である必要はなく、街に出て自分の心に留まったものを撮りたいように撮ればそれは「ストリートフォト」以外の何ものでもないと考えています。しかし、そうは言っても、何かコツのようなものがあったらという期待もあるかと思いますので少し書いてみましょう。 まず、重要なのは「何を撮るか」です。あなたが街をどのように見ているのかが写真には表れます。世の中で「美しいとされているもの」だけではなく「その人だけが感じることのできる美しさ」が街にはあるかもしれません。もちろん「美しさ」にとらわれる必要もありません。「美しさ」を感じているわけではないし、なぜそれに目が留まったのか自分自身でもわからないということもあるでしょう。だからこそ写真に撮っておくのだとも言えます。 「何を撮るか」が決まれば、あとは「どう撮るか」です。構図を様々に分類して考えるような人もいますが、私はもっとシンプルに考えれば良いと思います。 「どう撮るか」というのはつまり「何を写して何を写さないか」を決めることです。例えば「百合の花」に目が留まったとしましょう。あなたのいる場所からそれを撮ると百合の背景の池の様子も写ります。「百合の花」だけを撮りたいと思えばどうしたら池の様子が写らないかを考えれば良いでしょう。逆に最初は「百合の花」に目が留まったと思っていたけれど実は「池を背景に咲く百合の花」に惹かれていたのだと気がつくこともあるはずです。 では池の対岸にぼんやりと見える木々の様子はどうか、百合の花には葉も含まれるのか、そういう取捨選択が「どう撮るか」ということなのです。 もしかすると難しさを感じるのはストリートフォトがあまりにも自由であるからかもしれません。「何を撮るか」も「どう撮るか」も全てを自由に決められることに「取っ掛かりの無さ」のようなものを感じるというのは想像できます。 もう一つ想像されるのは、多くの人が目に留める瞬間や構図、所謂「決定的瞬間」と呼ばれるものが撮りたいという気持ちかもしれません。初めからそれを求めればそれは確かに難しいかもしれませんが、それに関して私が言えるのは、少なくともそれが「ストリートフォト」の正解だなどとは考えないほうが良いということです。 「ストリートフォトは難しい?」というこの文章のタイトルに私はこう答えます。「ストリートフォトのように簡単で魅力的なものは他にはなかなかない」と。街に出てシャッターを切ってみてください。きっとそれを「取っ掛かり」にしてあなたの世界が見えてきます。
モノクロとカラー、どちらで撮るべきか?
その昔、アート写真といえばモノクロという時代があった。その後にはもちろんニューカラーの台頭があり、鮮烈な色彩を活かした素晴らしいストリートフォトが数多く撮られている。 森山大道の作品は、モノクロが多い。しかし、本人が公言しているが、デジタル移行後はカラーで撮影したものをモノクロ化して仕上げているし、カラーのまま発表しているものも少なくない。 白と黒だけで構成された写真は、街の不純物をそぎ落とし、物語性を浮かび上がらせやすいかもしれない。ある種の「写真らしさ」が、そこにはある。 一方、カラーにはカラーの強みがある。路上に放置された傘の赤、夕方の斜光で輝くビルのガラス、あるいはコンビニの袋にプリントされたロゴ。色があるからこそ画になることがある。都市には無数の色が落ちている。白黒にすることで失われるリアリティもあるだろう。 結論を言えば、「どちらで撮るべきか」に正解はない。 「モノクロ」からも「カラー」からも自由であること、概念に縛られないことが重要なのだろうと私は思う。時にはモノクロを念頭に撮るのも良いし、あるいはメーカーのカラーフィルターに振り回されてみるのも良いだろう。 その上でモノクロを念頭に撮ったものを躊躇なくカラー作品にし、カラーフィルターに当てはめて撮ったものをモノクロ作品にしてしまう自由が許されるのがストリートフォトだ。 写真に正解はない。近道もない。自分がどれだけ自由で在れるか。そういうアプローチがストリートフォトには相応しいだろう。
モノクロとカラー、どちらで撮るべきか?
その昔、アート写真といえばモノクロという時代があった。その後にはもちろんニューカラーの台頭があり、鮮烈な色彩を活かした素晴らしいストリートフォトが数多く撮られている。 森山大道の作品は、モノクロが多い。しかし、本人が公言しているが、デジタル移行後はカラーで撮影したものをモノクロ化して仕上げているし、カラーのまま発表しているものも少なくない。 白と黒だけで構成された写真は、街の不純物をそぎ落とし、物語性を浮かび上がらせやすいかもしれない。ある種の「写真らしさ」が、そこにはある。 一方、カラーにはカラーの強みがある。路上に放置された傘の赤、夕方の斜光で輝くビルのガラス、あるいはコンビニの袋にプリントされたロゴ。色があるからこそ画になることがある。都市には無数の色が落ちている。白黒にすることで失われるリアリティもあるだろう。 結論を言えば、「どちらで撮るべきか」に正解はない。 「モノクロ」からも「カラー」からも自由であること、概念に縛られないことが重要なのだろうと私は思う。時にはモノクロを念頭に撮るのも良いし、あるいはメーカーのカラーフィルターに振り回されてみるのも良いだろう。 その上でモノクロを念頭に撮ったものを躊躇なくカラー作品にし、カラーフィルターに当てはめて撮ったものをモノクロ作品にしてしまう自由が許されるのがストリートフォトだ。 写真に正解はない。近道もない。自分がどれだけ自由で在れるか。そういうアプローチがストリートフォトには相応しいだろう。
写真で語るということ
このストアで販売しているTシャツには、すべての写真にタイトルと短い文章を添えています。詩や小説の一節、撮影地の紹介など、その内容は多岐にわたります。一般的なオンラインストアにある「商品説明文」とは全く異なるものですが、そこにこそ“写真の余白を楽しむ”という遊び心を込めています。 「写真家は写真で語る」とよく言われます。しかし私自身は、優れた写真家ほど優れた文筆家でもあると考えています。その代表例が森山大道です。彼の人生観や写真論を綴った文章は、詩的で情緒的でありながらも、突き放すようなドライさを持ち、彼の写真そのものと見事に響き合っています。 写真集を開けば、多くの場合そこに添えられているのは「説明」ではありません。むしろテキストは音楽のBGMのように、写真の体験を広げる役割を果たしているのです。写真と文字が共鳴することで、視覚だけでなく感情や記憶に働きかける――そこに写真表現のもう一つの奥深さがあるのだと思います。 このストアのTシャツに添えたテキストもまた、説明ではなく“音楽”として機能するものです。たとえば街角で切り取った一瞬のスナップが、短い言葉と組み合わさることで、まるで別の物語を紡ぎ出すかもしれません。写真とテキストを組み合わせることで生まれる新たなレイヤーを、着る人や見る人が自由に感じ取っていただければ嬉しいです。
写真で語るということ
このストアで販売しているTシャツには、すべての写真にタイトルと短い文章を添えています。詩や小説の一節、撮影地の紹介など、その内容は多岐にわたります。一般的なオンラインストアにある「商品説明文」とは全く異なるものですが、そこにこそ“写真の余白を楽しむ”という遊び心を込めています。 「写真家は写真で語る」とよく言われます。しかし私自身は、優れた写真家ほど優れた文筆家でもあると考えています。その代表例が森山大道です。彼の人生観や写真論を綴った文章は、詩的で情緒的でありながらも、突き放すようなドライさを持ち、彼の写真そのものと見事に響き合っています。 写真集を開けば、多くの場合そこに添えられているのは「説明」ではありません。むしろテキストは音楽のBGMのように、写真の体験を広げる役割を果たしているのです。写真と文字が共鳴することで、視覚だけでなく感情や記憶に働きかける――そこに写真表現のもう一つの奥深さがあるのだと思います。 このストアのTシャツに添えたテキストもまた、説明ではなく“音楽”として機能するものです。たとえば街角で切り取った一瞬のスナップが、短い言葉と組み合わさることで、まるで別の物語を紡ぎ出すかもしれません。写真とテキストを組み合わせることで生まれる新たなレイヤーを、着る人や見る人が自由に感じ取っていただければ嬉しいです。