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誰も美しいと思わなくても
秋になり、街の色が少し変わる。 赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。 観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。 同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。 それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。 濃く色づいた葉はサイケデリックで、 光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。 でも、時々思う。 “きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。 持ち主を失い錆びた看板、 積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、 折れたビニール傘に溜まった雨水。 そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。 それは、誰に見せなくても良い。 引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。 わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。 世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。 それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。 「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。 SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。 そう“仮定”した方がきっと面白い。 誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。 しかし、ふとシャッターを切っていた。...
誰も美しいと思わなくても
秋になり、街の色が少し変わる。 赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。 観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。 同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。 それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。 濃く色づいた葉はサイケデリックで、 光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。 でも、時々思う。 “きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。 持ち主を失い錆びた看板、 積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、 折れたビニール傘に溜まった雨水。 そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。 それは、誰に見せなくても良い。 引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。 わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。 世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。 それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。 「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。 SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。 そう“仮定”した方がきっと面白い。 誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。 しかし、ふとシャッターを切っていた。...
カメラを持たない日
写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、 たまにカメラを置いて外を歩いていると、 不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。 僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。 ──例えば、身軽さとか、体力とかだ。 カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。 陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。 無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。 それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、 同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。 カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。 「撮るために見る」ことをやめたとき、 街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。 光がただ光として差し込み、 風がただ風として吹きつけ、 人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。 “レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。 写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。 それでも、やはり 「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。 けれどその時、カメラはない。 シャッターは押せない。 しかし、不思議と焦りはない。 その「撮れなさ」も心地いい。 撮らないことで、...
カメラを持たない日
写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、 たまにカメラを置いて外を歩いていると、 不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。 僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。 ──例えば、身軽さとか、体力とかだ。 カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。 陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。 無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。 それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、 同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。 カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。 「撮るために見る」ことをやめたとき、 街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。 光がただ光として差し込み、 風がただ風として吹きつけ、 人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。 “レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。 写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。 それでも、やはり 「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。 けれどその時、カメラはない。 シャッターは押せない。 しかし、不思議と焦りはない。 その「撮れなさ」も心地いい。 撮らないことで、...
パンフォーカスという選択──街を“そのまま”撮るということ
写真を撮り始めたばかりの頃、多くの人が一度は「背景をぼかした写真」に憧れると思います。特定の被写体が強く浮かび上がり、背景がふわりと溶ける。まるで「プロの写真のよう」に撮れたという感覚が、気分を高揚させてくれるのです。 しかし、長く撮影を続けていくうちに、だんだんとその逆──**手前から奥まで、すべてにピントが合っている“パンフォーカス”**という表現の面白さに気づく瞬間がやってきます。 森山大道がパンフォーカスで撮り続ける理由 「ストリートフォトにはパンフォーカスがふさわしい」その考え方を象徴するのが、日本を代表するストリートフォトグラファー、森山大道です。彼の写真には「とろけるような背景ボケ」はほとんど登場しません。手前から奥までピントの合ったパンフォーカスの作品が圧倒的多数を占めています。 なぜか。それは、彼が撮っているのが「主題」ではなく、「都市そのものの“相”」だからです。街を歩き、人と光と建物、そして猥雑な看板と匂いが混ざり合った“塊”をまるごと写していく。そのとき、特定の被写体を強調する浅い被写界深度はむしろ“妨げ”になります。 パンフォーカスは、視点の階層を消し去り、すべての要素を同列に置きます。街を構成する雑多なモノが全て等しく主役になる──それが、ストリートフォトの魅力なのです。 人間の視界は本質的に「パンフォーカス的」 そしてこの考え方は、実は人間の“見え方”そのものにもつながっています。 人間の目は、一度に一点にしかピントを合わせられません。しかし、実際には常に眼球を細かく動かし(サッカード運動)、手前も奥も隅々まで走査しながら、脳がそれらの断片を統合して「すべてが見えている」という感覚をつくり出しています。 つまり、僕たちは本質的に“パンフォーカス的”な世界を生きているのです。だからこそ、手前から奥までを等しく描くパンフォーカス写真は、現実の知覚と深く共鳴します。 センサーサイズと「深さ」の関係 ここで少し技術的な話をしましょう。パンフォーカスが生まれやすい背景には、センサーサイズと焦点距離の関係があります。 たとえば、フルサイズセンサーのカメラで35mmの画角を得ようとすれば、35mmのレンズを使う必要があります。一方、比較的安価なコンパクトデジタルカメラに搭載される 1/2.3インチセンサー機では同じ画角を得るには、約6mm前後という非常に短い焦点距離のレンズが使われることになります。 この「焦点距離の短さ」こそが、被写界深度を深くするポイントです。焦点距離が短ければ短いほど、ピントが合う範囲は広がり、深い被写界深度を得やすくなります。だからこそ、小型センサー機はパンフォーカス的な描写が得意なのです。 森山大道がCOOLPIXシリーズを愛用するのも、単なる軽さやサイズだけではなく、パンフォーカスを得やすい光学的な理由があったかもしれません。 初心者が「ボケ」に頼ってしまう理由 写真を始めたばかりの頃は「背景をぼかす=上手い写真」と思い込みがちです。もちろんそれは一つの重要な表現手法ですが、ストリートフォトにおいてはその使いどころはかなり慎重に吟味する必要があります。 なぜなら多くの場合、ストリートで大切なのは、**特定の被写体の存在そのものよりも、それを内包する“相”としての街”**だからです。特定の被写体だけを際立たせると、街の空気や時間が抜け落ちて見えてしますのです。パンフォーカスならば、看板もゴミも電線も等しく写り込み、その街“そのまま”を記録することができます。 「フラットさ」がもたらす力 パンフォーカスの写真は一見“平板”です。しかし、その“平板さ”こそが、都市という複雑な現実の姿を表すのです。 前景と背景の差が曖昧になり、空間がひとつの“面”として立ち上がると、形や配置、リズムといった要素が強く意識されるようになります。主役を決めず、世界をそのまま受け入れることで、フレームの中のすべてが対等に語るのです。 終わりに──世界を“そのまま”受け入れるということ 街を歩くとき、僕たちは一つの主題だけを見ているわけではありません。人、建物、光、匂い、音──それらが同時に存在して「街」という現実を形作っています。 パンフォーカスは、そうした雑多な世界を“そのまま”受け入れる撮り方です。 写真は被写体だけを見せるものではなく、世界そのものを伝える手段です。あなたも、パンフォーカスという選択肢を、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。
パンフォーカスという選択──街を“そのまま”撮るということ
写真を撮り始めたばかりの頃、多くの人が一度は「背景をぼかした写真」に憧れると思います。特定の被写体が強く浮かび上がり、背景がふわりと溶ける。まるで「プロの写真のよう」に撮れたという感覚が、気分を高揚させてくれるのです。 しかし、長く撮影を続けていくうちに、だんだんとその逆──**手前から奥まで、すべてにピントが合っている“パンフォーカス”**という表現の面白さに気づく瞬間がやってきます。 森山大道がパンフォーカスで撮り続ける理由 「ストリートフォトにはパンフォーカスがふさわしい」その考え方を象徴するのが、日本を代表するストリートフォトグラファー、森山大道です。彼の写真には「とろけるような背景ボケ」はほとんど登場しません。手前から奥までピントの合ったパンフォーカスの作品が圧倒的多数を占めています。 なぜか。それは、彼が撮っているのが「主題」ではなく、「都市そのものの“相”」だからです。街を歩き、人と光と建物、そして猥雑な看板と匂いが混ざり合った“塊”をまるごと写していく。そのとき、特定の被写体を強調する浅い被写界深度はむしろ“妨げ”になります。 パンフォーカスは、視点の階層を消し去り、すべての要素を同列に置きます。街を構成する雑多なモノが全て等しく主役になる──それが、ストリートフォトの魅力なのです。 人間の視界は本質的に「パンフォーカス的」 そしてこの考え方は、実は人間の“見え方”そのものにもつながっています。 人間の目は、一度に一点にしかピントを合わせられません。しかし、実際には常に眼球を細かく動かし(サッカード運動)、手前も奥も隅々まで走査しながら、脳がそれらの断片を統合して「すべてが見えている」という感覚をつくり出しています。 つまり、僕たちは本質的に“パンフォーカス的”な世界を生きているのです。だからこそ、手前から奥までを等しく描くパンフォーカス写真は、現実の知覚と深く共鳴します。 センサーサイズと「深さ」の関係 ここで少し技術的な話をしましょう。パンフォーカスが生まれやすい背景には、センサーサイズと焦点距離の関係があります。 たとえば、フルサイズセンサーのカメラで35mmの画角を得ようとすれば、35mmのレンズを使う必要があります。一方、比較的安価なコンパクトデジタルカメラに搭載される 1/2.3インチセンサー機では同じ画角を得るには、約6mm前後という非常に短い焦点距離のレンズが使われることになります。 この「焦点距離の短さ」こそが、被写界深度を深くするポイントです。焦点距離が短ければ短いほど、ピントが合う範囲は広がり、深い被写界深度を得やすくなります。だからこそ、小型センサー機はパンフォーカス的な描写が得意なのです。 森山大道がCOOLPIXシリーズを愛用するのも、単なる軽さやサイズだけではなく、パンフォーカスを得やすい光学的な理由があったかもしれません。 初心者が「ボケ」に頼ってしまう理由 写真を始めたばかりの頃は「背景をぼかす=上手い写真」と思い込みがちです。もちろんそれは一つの重要な表現手法ですが、ストリートフォトにおいてはその使いどころはかなり慎重に吟味する必要があります。 なぜなら多くの場合、ストリートで大切なのは、**特定の被写体の存在そのものよりも、それを内包する“相”としての街”**だからです。特定の被写体だけを際立たせると、街の空気や時間が抜け落ちて見えてしますのです。パンフォーカスならば、看板もゴミも電線も等しく写り込み、その街“そのまま”を記録することができます。 「フラットさ」がもたらす力 パンフォーカスの写真は一見“平板”です。しかし、その“平板さ”こそが、都市という複雑な現実の姿を表すのです。 前景と背景の差が曖昧になり、空間がひとつの“面”として立ち上がると、形や配置、リズムといった要素が強く意識されるようになります。主役を決めず、世界をそのまま受け入れることで、フレームの中のすべてが対等に語るのです。 終わりに──世界を“そのまま”受け入れるということ 街を歩くとき、僕たちは一つの主題だけを見ているわけではありません。人、建物、光、匂い、音──それらが同時に存在して「街」という現実を形作っています。 パンフォーカスは、そうした雑多な世界を“そのまま”受け入れる撮り方です。 写真は被写体だけを見せるものではなく、世界そのものを伝える手段です。あなたも、パンフォーカスという選択肢を、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。
RICOH GXR──リコーの異端児
GRⅣが話題になっているこのタイミングで、こんなカメラを振り返ってみましょう。2009年に登場した RICOH GXRです。リコーが送り出した、極めて異端で、そして野心的なシステムです。GR DIGITALやGRシリーズの延長線上にあるようでいて、実際にはまったく違う思想を持ったカメラでした。 レンズとセンサーを一体化──“ユニット交換式”という構造 GXR最大の特徴は「ユニット交換式」という仕組みでした。現在の一眼カメラはレフ機でもミラーレスでも、センサーを組み込んだカメラボディがあり、それにレンズを取り付けて使用します。ところがGXRはセンサーとレンズの一体化した“カメラユニット”をボディに装着する方式を採用しました。 つまり、ボディにはシャッターボタンや液晶、グリップ、ダイヤルなどの操作系だけがあり、センサーは組み込まれていない、“写りの肝”をすべてユニットに委ねる構造なのです。ユニットごとにセンサーサイズも変えられるため、「広角単焦点スナップはAPS-Cで、ズームは小型センサーで」など、撮影目的に合わせてセンサーも交換するという発想でした。 今でこそモジュール式の製品は珍しくありませんが、2009年当時にこれを実現したリコーは先見性があったとも言えます。もっとも、市場に受け入れられたかというと、後述のようにユニット展開の遅さや価格面でつまずき、商業的には失敗したといって良いでしょう。 個性豊かなユニット GXRに用意されたユニットは、非常に個性的なラインナップでした。 まず目玉となったのは A12 50mm F2.5 Macro。APS-Cセンサーを搭載し、最短1cmまで寄れる、非常に優秀なマクロレンズを擁したユニットでした。ピントが合った部分のシャープさ、そこからなだらかにボケていく柔らかさを伴った立体感は、当時のコンデジとは一線を画す描写力でした。 続いて A12 28mm F2.5。こちらもAPS-Cセンサー搭載で、いわば「GR的スナップ」を実現するためのユニットでした。GR DIGITAL IVなどがまだ小型センサーだった中、気軽に持ち歩けるサイズでAPS-Cセンサー、 28mmF2.5というスペックは驚異的なものでした。発色も独特で、硬質ながらフィルムを想起させる階調は今でも評価されています。 小型センサー系のユニットもありました。たとえば S10 24-72mm相当 F2.5-4.4。1/1.7型CCDを搭載し、手軽にズームを使いたい人向け。GR DIGITALの延長のような写りで、ややクセはありつつも万能なカメラでした。 さらに、P10 28-300mm相当 F3.5-5.6。1/2.3型センサーを積んだ高倍率ズームユニットで、正直画質は“高画質”とは言い難い部分がありますが、「これ一本で旅を済ませたい」という場合には便利でした。また望遠側での最大撮影倍率が非常に大きく“テレマクロ専用”ユニットのように使うマニアックな層もいました。 そして“変わり種”の極めつけは...
RICOH GXR──リコーの異端児
GRⅣが話題になっているこのタイミングで、こんなカメラを振り返ってみましょう。2009年に登場した RICOH GXRです。リコーが送り出した、極めて異端で、そして野心的なシステムです。GR DIGITALやGRシリーズの延長線上にあるようでいて、実際にはまったく違う思想を持ったカメラでした。 レンズとセンサーを一体化──“ユニット交換式”という構造 GXR最大の特徴は「ユニット交換式」という仕組みでした。現在の一眼カメラはレフ機でもミラーレスでも、センサーを組み込んだカメラボディがあり、それにレンズを取り付けて使用します。ところがGXRはセンサーとレンズの一体化した“カメラユニット”をボディに装着する方式を採用しました。 つまり、ボディにはシャッターボタンや液晶、グリップ、ダイヤルなどの操作系だけがあり、センサーは組み込まれていない、“写りの肝”をすべてユニットに委ねる構造なのです。ユニットごとにセンサーサイズも変えられるため、「広角単焦点スナップはAPS-Cで、ズームは小型センサーで」など、撮影目的に合わせてセンサーも交換するという発想でした。 今でこそモジュール式の製品は珍しくありませんが、2009年当時にこれを実現したリコーは先見性があったとも言えます。もっとも、市場に受け入れられたかというと、後述のようにユニット展開の遅さや価格面でつまずき、商業的には失敗したといって良いでしょう。 個性豊かなユニット GXRに用意されたユニットは、非常に個性的なラインナップでした。 まず目玉となったのは A12 50mm F2.5 Macro。APS-Cセンサーを搭載し、最短1cmまで寄れる、非常に優秀なマクロレンズを擁したユニットでした。ピントが合った部分のシャープさ、そこからなだらかにボケていく柔らかさを伴った立体感は、当時のコンデジとは一線を画す描写力でした。 続いて A12 28mm F2.5。こちらもAPS-Cセンサー搭載で、いわば「GR的スナップ」を実現するためのユニットでした。GR DIGITAL IVなどがまだ小型センサーだった中、気軽に持ち歩けるサイズでAPS-Cセンサー、 28mmF2.5というスペックは驚異的なものでした。発色も独特で、硬質ながらフィルムを想起させる階調は今でも評価されています。 小型センサー系のユニットもありました。たとえば S10 24-72mm相当 F2.5-4.4。1/1.7型CCDを搭載し、手軽にズームを使いたい人向け。GR DIGITALの延長のような写りで、ややクセはありつつも万能なカメラでした。 さらに、P10 28-300mm相当 F3.5-5.6。1/2.3型センサーを積んだ高倍率ズームユニットで、正直画質は“高画質”とは言い難い部分がありますが、「これ一本で旅を済ませたい」という場合には便利でした。また望遠側での最大撮影倍率が非常に大きく“テレマクロ専用”ユニットのように使うマニアックな層もいました。 そして“変わり種”の極めつけは...
GRとスマホの“境界線”──iPhone 17時代に考える、カメラを持ち歩く意味
そして2025年秋、ついにiPhone 17が登場しました。 搭載カメラのセンサーサイズは1/1.3型まで大型化、メインカメラは48MP、iPhone17Proでは望遠も5倍の光学ズームや動画のログ撮影にも対応し、ナイトモードはもはや肉眼以上に世界を捉えます。 「SNSに写真を上げるだけなら、もうiPhoneで十分」。これはもう検討事実だと言って良いでしょう。 では──ついでに、なぜ私たちはカメラを持ち歩くのか? iPhone 17という最新のスマホと、「コンパクトカメラの完成形」とも言うGR IVを比較しながら、その境界線について考えてみましょう。 スマホは「生活の記録」、GRは「意識の記録」 iPhone 17のカメラは、本当に優秀です。とっさにポケットから取り出し、タップひとつで光も構図も自動的に整えてくれる。HDR合成で空も白も飛ばない、夜景だってノイズレス。撮って出しでそのままSNSに上げられる完成度があります。 しかし、これは裏を返せば「いつでも自動で“記録”してくれる」ということもあります。その写真は便利で正確だけど、撮影者の「意識」や「判断」が入るところはあまりありません。 対してGRは、撮るたびに「どう撮るか」を考えさせられるカメラです。露出、ホワイトバランス、ピント位置、被写界深度、構図──小さなことを自分で決めなくてもいい。そのワンアクションごとに、写真は「自分の選択」になります。スマホの写真が「起きた出来事」なら、GRの写真は「自分が見た世界」。 GRの強み①:レンズとセンサーが描き出す「空気」 この違いは、撮った写真を並べてみるとよくわかります。最新のiPhone 17は確かに解像感が高く、色も美しい。でも、どこか均質で「演出された美しさ」です。一方、GR IVの28mmレンズが描き出す空気には、わずかなゆとりのある余白が残っています。 特にAPS-Cセンサーとスマホと単焦点レンズの組み合わせは、空気の「認識」を理解のが得意です。 例えば、渋谷の交差点で立ち止まり、光と人の流れを一枚に悟ったとき。 GRの強み②:操作が身体の一部になる もうひとつ、GRがスマホに勝っている点は「操作と身体の一体感」です。スマホはどうしても手持ちで、画面をタップして撮る動作が必要です。 撮影が“スマホを操作する行為”になります。GRとはそれとは違います。動作撮影を可能にします。 ストリートフォトではこの差は非常に大きいと感じます。一瞬の表情、不安ざまの光、考えない不安── ことがありまして「偶然」は、操作のワンテンポの遅れで簡単に消えてしまいます。 GRではその一瞬に「身体の反応としてシャッターを切る」ことができる、これはスマホにはない感覚です。 連携という現実的な「橋渡し」 いえ、スマホとの連携は今の時代、無視できません。GRは今画像同期アプリでWi-Fi接続し、撮った写真をその場でスマホに送ることができます。SNS用にJPEGだけ転送して、RAWは少しずつ入れる、という使い方も一般的になりました。 さらに、GRはSDカードをiPhoneに直接挿せるリーダーを使えば、ケーブルレスで高速転送も可能です。 この「撮るのはGR、共有はスマホ」というワークフローは、現代のストリートフォトグラファーにとって理想的なバランスです。スマホだけでは撮らない写真を撮り、スマホのスピード感で世界と共有する──これは10年前にはなかった撮影体験でしょう。 「どちらで取れるか」ではなく「どう使い分けるか」...
GRとスマホの“境界線”──iPhone 17時代に考える、カメラを持ち歩く意味
そして2025年秋、ついにiPhone 17が登場しました。 搭載カメラのセンサーサイズは1/1.3型まで大型化、メインカメラは48MP、iPhone17Proでは望遠も5倍の光学ズームや動画のログ撮影にも対応し、ナイトモードはもはや肉眼以上に世界を捉えます。 「SNSに写真を上げるだけなら、もうiPhoneで十分」。これはもう検討事実だと言って良いでしょう。 では──ついでに、なぜ私たちはカメラを持ち歩くのか? iPhone 17という最新のスマホと、「コンパクトカメラの完成形」とも言うGR IVを比較しながら、その境界線について考えてみましょう。 スマホは「生活の記録」、GRは「意識の記録」 iPhone 17のカメラは、本当に優秀です。とっさにポケットから取り出し、タップひとつで光も構図も自動的に整えてくれる。HDR合成で空も白も飛ばない、夜景だってノイズレス。撮って出しでそのままSNSに上げられる完成度があります。 しかし、これは裏を返せば「いつでも自動で“記録”してくれる」ということもあります。その写真は便利で正確だけど、撮影者の「意識」や「判断」が入るところはあまりありません。 対してGRは、撮るたびに「どう撮るか」を考えさせられるカメラです。露出、ホワイトバランス、ピント位置、被写界深度、構図──小さなことを自分で決めなくてもいい。そのワンアクションごとに、写真は「自分の選択」になります。スマホの写真が「起きた出来事」なら、GRの写真は「自分が見た世界」。 GRの強み①:レンズとセンサーが描き出す「空気」 この違いは、撮った写真を並べてみるとよくわかります。最新のiPhone 17は確かに解像感が高く、色も美しい。でも、どこか均質で「演出された美しさ」です。一方、GR IVの28mmレンズが描き出す空気には、わずかなゆとりのある余白が残っています。 特にAPS-Cセンサーとスマホと単焦点レンズの組み合わせは、空気の「認識」を理解のが得意です。 例えば、渋谷の交差点で立ち止まり、光と人の流れを一枚に悟ったとき。 GRの強み②:操作が身体の一部になる もうひとつ、GRがスマホに勝っている点は「操作と身体の一体感」です。スマホはどうしても手持ちで、画面をタップして撮る動作が必要です。 撮影が“スマホを操作する行為”になります。GRとはそれとは違います。動作撮影を可能にします。 ストリートフォトではこの差は非常に大きいと感じます。一瞬の表情、不安ざまの光、考えない不安── ことがありまして「偶然」は、操作のワンテンポの遅れで簡単に消えてしまいます。 GRではその一瞬に「身体の反応としてシャッターを切る」ことができる、これはスマホにはない感覚です。 連携という現実的な「橋渡し」 いえ、スマホとの連携は今の時代、無視できません。GRは今画像同期アプリでWi-Fi接続し、撮った写真をその場でスマホに送ることができます。SNS用にJPEGだけ転送して、RAWは少しずつ入れる、という使い方も一般的になりました。 さらに、GRはSDカードをiPhoneに直接挿せるリーダーを使えば、ケーブルレスで高速転送も可能です。 この「撮るのはGR、共有はスマホ」というワークフローは、現代のストリートフォトグラファーにとって理想的なバランスです。スマホだけでは撮らない写真を撮り、スマホのスピード感で世界と共有する──これは10年前にはなかった撮影体験でしょう。 「どちらで取れるか」ではなく「どう使い分けるか」...
リコーGRⅢからGRⅣへ──手に入らないならどうする?代わりに選びたいカメラたち
9月12日、リコーから GRⅣが発売されました。発表直後から予約が殺到し、すでに品薄状態。SNSでも「届いた!」「予約すら出来ていない」など悲喜交々の声が飛び交っています。 しかし、GRシリーズの真骨頂は「いつでもポケットに入れて、いつでも写真が撮れること」。新型を待っている間、写真を撮らずにいたのでは無為に時間を過ごすことになってしまいます。まずは何より、手に入るカメラで日常を切り取るのが写真家の在り方として正しいでしょう。 そこで今回は、GRⅣを待っていられない人のために、GRⅣの代替機をいくつか挙げていこうと思います。GR III、GR II、そして少し“変化球”な選択肢としてパナソニックの LX100 II。どれもそれぞれに個性があり、ストリートフォトの確かな相棒になってくれるカメラたちです。 GR III/GR IIIx──28mmと40mm、二つのGRの現在地 一つ目はやはり前機種であるGR IIIです。 2019年に登場したこのモデルは、APS-Cセンサーと28mm F2.8のレンズを組み合わせた、「ポケットに入る一眼画質」の完成形として今なお多くのユーザーに愛されています。描写はシャープでありながら素直で、街角の光や人の動き、カフェのコーヒーの湯気までも、端正に切り取ってくれます。手ブレ補正も備わっているのでローライトの撮影にも十分に対応できます。ふと思いついた瞬間に反射的にシャッターを切ることができる、GRシリーズがずっと追い求めてきた「即写性」を、現代的な水準で体現したカメラなのです。 そして、その後に登場したのが GR IIIx。外観はGR IIIとほぼ同じですが、他のGR機種とは異なる40mm相当のレンズを備えています。広角の28mmとは異なる標準域40mmの世界は全く新しい撮影体験を提供してくれます。28mmが「焦点を定めない自然な視界の切り取り」だとすれば、40mmは「ふと目の留まった対象に微かに踏み込んだ視線」です。切り取れる“物語”が変わるのです。 実際に両方を使ってみると、28mmは歩きながらの一瞬を空気ごと残し、光や影、街並みと撮影者の“関係性”をスッと収めてくれる。一方の40mmは、被写体の表情や佇まいを自然な距離感で捉えるのに向いていて、ポートレート的なスナップがぐっとしやすくなる。つまりGR IIIとGR IIIxを持っている時では、世界に対峙する視点を異にすることになるのです。 したがって「GRⅣを手に入れたらGRⅢxが不要になる」ということはありません。40mmでしか撮れない世界が確実にあるからです。両方をポケットに忍ばせ、その時の気分や街の空気に合わせて使っても良いでしょう。これは一眼でレンズを付け替えるのと似ているけれど、もっと軽やかで“決定的”です。 GR II——内蔵ストロボが光る、古き良き名機 一方で、前機種であるGRⅢですら入手が難しく、価格も高止まっているという現実もあります。ではGR IIという選択肢は無いのでしょうか。2015年に登場したこの機種は、 GRⅣ、GRⅢと同じAPS-Cセンサーを搭載しつつ、画素数は約1600万画素と控えめです。今となっては少なく感じるかもしれませんが、そのぶんデータが軽く、扱いやすさでは優れています。シャープなレンズの描写と合わせて、PCでの鑑賞やA4、A3サイズ程度までの印刷であれば全く問題はないでしょう。 そして忘れてはならないのが、内蔵ストロボの存在です。GR III以降は小型化、携帯性のために内蔵ストロボが省かれましたが、GR...
リコーGRⅢからGRⅣへ──手に入らないならどうする?代わりに選びたいカメラたち
9月12日、リコーから GRⅣが発売されました。発表直後から予約が殺到し、すでに品薄状態。SNSでも「届いた!」「予約すら出来ていない」など悲喜交々の声が飛び交っています。 しかし、GRシリーズの真骨頂は「いつでもポケットに入れて、いつでも写真が撮れること」。新型を待っている間、写真を撮らずにいたのでは無為に時間を過ごすことになってしまいます。まずは何より、手に入るカメラで日常を切り取るのが写真家の在り方として正しいでしょう。 そこで今回は、GRⅣを待っていられない人のために、GRⅣの代替機をいくつか挙げていこうと思います。GR III、GR II、そして少し“変化球”な選択肢としてパナソニックの LX100 II。どれもそれぞれに個性があり、ストリートフォトの確かな相棒になってくれるカメラたちです。 GR III/GR IIIx──28mmと40mm、二つのGRの現在地 一つ目はやはり前機種であるGR IIIです。 2019年に登場したこのモデルは、APS-Cセンサーと28mm F2.8のレンズを組み合わせた、「ポケットに入る一眼画質」の完成形として今なお多くのユーザーに愛されています。描写はシャープでありながら素直で、街角の光や人の動き、カフェのコーヒーの湯気までも、端正に切り取ってくれます。手ブレ補正も備わっているのでローライトの撮影にも十分に対応できます。ふと思いついた瞬間に反射的にシャッターを切ることができる、GRシリーズがずっと追い求めてきた「即写性」を、現代的な水準で体現したカメラなのです。 そして、その後に登場したのが GR IIIx。外観はGR IIIとほぼ同じですが、他のGR機種とは異なる40mm相当のレンズを備えています。広角の28mmとは異なる標準域40mmの世界は全く新しい撮影体験を提供してくれます。28mmが「焦点を定めない自然な視界の切り取り」だとすれば、40mmは「ふと目の留まった対象に微かに踏み込んだ視線」です。切り取れる“物語”が変わるのです。 実際に両方を使ってみると、28mmは歩きながらの一瞬を空気ごと残し、光や影、街並みと撮影者の“関係性”をスッと収めてくれる。一方の40mmは、被写体の表情や佇まいを自然な距離感で捉えるのに向いていて、ポートレート的なスナップがぐっとしやすくなる。つまりGR IIIとGR IIIxを持っている時では、世界に対峙する視点を異にすることになるのです。 したがって「GRⅣを手に入れたらGRⅢxが不要になる」ということはありません。40mmでしか撮れない世界が確実にあるからです。両方をポケットに忍ばせ、その時の気分や街の空気に合わせて使っても良いでしょう。これは一眼でレンズを付け替えるのと似ているけれど、もっと軽やかで“決定的”です。 GR II——内蔵ストロボが光る、古き良き名機 一方で、前機種であるGRⅢですら入手が難しく、価格も高止まっているという現実もあります。ではGR IIという選択肢は無いのでしょうか。2015年に登場したこの機種は、 GRⅣ、GRⅢと同じAPS-Cセンサーを搭載しつつ、画素数は約1600万画素と控えめです。今となっては少なく感じるかもしれませんが、そのぶんデータが軽く、扱いやすさでは優れています。シャープなレンズの描写と合わせて、PCでの鑑賞やA4、A3サイズ程度までの印刷であれば全く問題はないでしょう。 そして忘れてはならないのが、内蔵ストロボの存在です。GR III以降は小型化、携帯性のために内蔵ストロボが省かれましたが、GR...