ノイズと粒子の話

ノイズと粒子の話

“ノイズ”という言葉には「本来必要としない不要な音、電波、情報」という意味がある。つまり不要なもの、ということである。

しかし写真におけるノイズは実は少し違う。

確かにデジタルで写真を撮る人は、ノイズを「消すべきもの」と捉えている面はある。
高感度でザラついた写真は“悪い例”として挙げられ、
それは現像ソフトで滑らかに整えられる。


フィルム時代の“粒子”

フィルム写真の時代、粒子(グレイン)「味」として認識されていた。
ISO400のトライX、1600のネオパン、3200のデルタ。
それぞれの粒子のニュアンスを生かした写真が撮られた。

被写体の肌や影の中の粒子は、
それが写真“空気”を演出した。

フィルムの粒子は、化学的な結晶がランダムに並ぶことで生まれる。
この“偶然の配置”が写真の質感そのものになっていた。
この不均一さが、アナログ写真に“空気”を与えるのだ。


デジタルノイズの誤解

デジタルにおけるノイズは、原理が違う。
センサー上の電気信号の乱れ、読み出し時の熱、増幅回路の誤差。
それらがピクセル単位で微細な“誤差”を生み出す。

しかし、それでもやはりそれはただの「悪者」ではない。

デジタルのセンサーは、元々あまりに正確すぎる。
一様で、乱れがなく、滑らか。
その結果、陰影の境界が整いすぎてしまう。
つまり、「現実のざらつき」が抜け落ちてしまうのだ。

ノイズを少し加えると、不思議と階調のつながりが自然になる。
暗部から中間調へのグラデーションが滑らかに見えるのは、
細かな乱れがトーンの境界を“ぼかす”からだ。
これは、絵画で言うところの“にじみ”に近い。


階調とざらつきの関係

Lightroomなどでデジタルノイズを少し加えると、
画面の中の“空気”が変わるのは気のせい、ではない。

完璧にノイズを除去した肌は滑らかだが、どこか“無機的”になる。
そこに少し粒を足すと、質感が戻り、呼吸を感じる。

人間の目は、完全に均一なグラデーションを見ると、
小さな階調差(特に8bit画像などでの量子化段差)を“段階”として感じ取ってしまう。
いわゆる バンディング(banding) 現象だ。

そこで使われるのが**ディザリング(dithering)**という手法。
わずかなノイズを加えることで、
階調の境界をランダム化し、視覚的に“滑らか”に見せる効果がある。

これは古くから印刷技術や音響処理でも使われてきた。
人間の知覚は“完全な直線”よりも、“微細なゆらぎを含む線”を自然だと感じる。

写真においても同じで、
少量のノイズがトーンカーブの隙間を埋める微細な揺らぎとして働き、
デジタル特有の硬さをやわらげてくれる。

トーンカーブを滑らかに繋ぐための“視覚的なバッファ”。
デジタル写真の線のような階調を“面”に変える。


フィルムとデジタルの“揺らぎ”

フィルムでは、粒子が“光の痕跡”としてそこに残る。
デジタルでは、ノイズが“電子のゆらぎ”として現れる。
どちらも、完璧ではない。
だが、その不完全が“手触り”を作る。

北島敬三がトライXを好んだのも、
森山大道が高感度のネオパンで焼いたのも、
粒子に“現実のざらつき”を見たからだろう。

デジタルでも変わらない。
高感度で撮った夜の街、
暗部に浮かぶノイズの斑点。
そこに“現実の温度”を感じる瞬間がある。


ノイズは記憶の粒

結局のところ、ノイズとは“記憶の粒”のようなものだと思う。
記憶はいつも完璧ではなく、ところどころ曖昧で、
滲んだり、揺らいだりしている。
それでも、そこにしかない質感がある。

ノイズを消すことは、
記憶のざらつきを削り取ることに似ている。

フィルムでもデジタルでも、
ノイズには「光が通過した痕跡」が見える。

 

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