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“誰が決めたのか分からない正しさ”から自由になる
「適正露出はどのくらいですか?」 と、聞かれることがある。 カメラが提示した明るさ、 それが答えのように思ってしまうかもしれない。 写真を撮り続けていくと自然に気づくだろう。 適正露出とは、誰かが決めた“正しさ”に過ぎない。 カメラが出す“±0”には、 あなたの意図も感情も入らない。 そのとき感じた温度も、匂いも、心の揺らぎも反映されない。 露出ひとつで、写真はまったく違う表情を見せる。 露出補正を+1にするだけで 光は蒸散し、 陰の輪郭は曖昧に。 −1にすれば、 街の音は遠ざかり、 影は境界をもたらす。 露出は写真の“性格”を変える。 だから、適正露出という言葉に縛られない方が良い。 それはあなたが見ている世界を“均質”にしようとする。 全てを決めるのは、あなただ。 写真において露出とは、 技術的な話であると同時に、 「その光をどう感じたか」という、あなたの記憶を反映させるものだ。...
“誰が決めたのか分からない正しさ”から自由になる
「適正露出はどのくらいですか?」 と、聞かれることがある。 カメラが提示した明るさ、 それが答えのように思ってしまうかもしれない。 写真を撮り続けていくと自然に気づくだろう。 適正露出とは、誰かが決めた“正しさ”に過ぎない。 カメラが出す“±0”には、 あなたの意図も感情も入らない。 そのとき感じた温度も、匂いも、心の揺らぎも反映されない。 露出ひとつで、写真はまったく違う表情を見せる。 露出補正を+1にするだけで 光は蒸散し、 陰の輪郭は曖昧に。 −1にすれば、 街の音は遠ざかり、 影は境界をもたらす。 露出は写真の“性格”を変える。 だから、適正露出という言葉に縛られない方が良い。 それはあなたが見ている世界を“均質”にしようとする。 全てを決めるのは、あなただ。 写真において露出とは、 技術的な話であると同時に、 「その光をどう感じたか」という、あなたの記憶を反映させるものだ。...
写真とインストゥルメンタル— 伝達効率と映像表現
1. インストゥルメンタルという余白 僕は普段、ポストロック、特にインストゥルメンタルの音楽をよく聴く。 歌詞のない音楽には、どこか“開かれた”印象を持つ。 感情の方向を特定せず、聴く人それぞれの感性に余白を委ねる。 インストゥルメンタルのバンドはメジャーになりにくい。 それは「伝達効率」が悪いからなのだと思う。 例えばメジャーなロックバンドの曲の多くは、言葉を届けるための構造を持っている。 歌詞を感情の軸として、聴き手が分かりやすいように“言葉の意味”を届ける仕組みだ。 それに対して、インストゥルメンタルは“何を感じるか”をリスナーに委ねる。 特定の感情を伝えるというより、リスナーに“ある感情”を発生させる、というのが近いだろう。 だからメッセージは“曖昧”で、受け取る側はその解釈に“労力”を要する。 その「非効率」こそが、音楽に深さを与える。 伝達効率の低さが、想像の余地を増やすのだ。 2. “インストゥルメンタル”としての写真 この構図は、「映画」と「写真」の関係に似ている。 映画は時間を持つメディアだ。 ストーリー、台詞、音楽——これらが受け手の感情を導く。 観客は“どんな気持ちになるべきか”を、構成の中で理解しやすい。 映画は、歌詞を持った音楽と類似の構造を持っている。 伝達効率の高いメディアであり、感情の設計を前提とする。 一方、写真はどうだろう。 そこには台詞も脚本もない。...
写真とインストゥルメンタル— 伝達効率と映像表現
1. インストゥルメンタルという余白 僕は普段、ポストロック、特にインストゥルメンタルの音楽をよく聴く。 歌詞のない音楽には、どこか“開かれた”印象を持つ。 感情の方向を特定せず、聴く人それぞれの感性に余白を委ねる。 インストゥルメンタルのバンドはメジャーになりにくい。 それは「伝達効率」が悪いからなのだと思う。 例えばメジャーなロックバンドの曲の多くは、言葉を届けるための構造を持っている。 歌詞を感情の軸として、聴き手が分かりやすいように“言葉の意味”を届ける仕組みだ。 それに対して、インストゥルメンタルは“何を感じるか”をリスナーに委ねる。 特定の感情を伝えるというより、リスナーに“ある感情”を発生させる、というのが近いだろう。 だからメッセージは“曖昧”で、受け取る側はその解釈に“労力”を要する。 その「非効率」こそが、音楽に深さを与える。 伝達効率の低さが、想像の余地を増やすのだ。 2. “インストゥルメンタル”としての写真 この構図は、「映画」と「写真」の関係に似ている。 映画は時間を持つメディアだ。 ストーリー、台詞、音楽——これらが受け手の感情を導く。 観客は“どんな気持ちになるべきか”を、構成の中で理解しやすい。 映画は、歌詞を持った音楽と類似の構造を持っている。 伝達効率の高いメディアであり、感情の設計を前提とする。 一方、写真はどうだろう。 そこには台詞も脚本もない。...
曇りの日の写真
仕事の撮影の日に曇っていると、「今日は曇ってしまいましたね」と言われることがある。確かに、強い日差しが生むコントラスト、くっきりと伸びる影、明瞭に照らされた肌や建物の輪郭、それらは“写真らしさ”として端的に浮かび上がる。 けれど、曇った日には曇った日なりの魅力がある。それは、太陽が雲に隠れたときにだけ現れる、やわらかな陰影の世界だ。 曇りの日は“世界最大のソフトボックスの下の世界”と言える。被写体はフラットに照らされ、階調は繊細につながっていく。 晴れの日は“光の写真”を撮る日。曇りの日は“空気の写真”を撮る日だ。 光が主張をやめた時、被写体そのものが前に出る。たとえば、壁の質感、濡れたアスファルト、人の肌の柔らかさ。そうした細部が、いつもより静かに、しかし確かに見えてくる。 曇り空の下では、光の方向が曖昧になる。陰影は朧げとなり、被写体はフラットに並ぶ。「好き嫌い」や「主観的なドラマ」が剥ぎ取られ、“そこにある現実”が、淡々と立ち上がる。 曇りの日の写真には、静けさが宿る。 白や黒はやさしく溶け、街はグレースケールの海になる。それは“被写体の集合体”ではなく、“世界そのもの”を写すような感覚かもしれない。 「曇ってしまいましたね」と言われた時、僕は思う。曇りの日にしか見えない世界があることを。 そして曇り空の下で、柔らかな世界にカメラを向けてシャッターを切る。
曇りの日の写真
仕事の撮影の日に曇っていると、「今日は曇ってしまいましたね」と言われることがある。確かに、強い日差しが生むコントラスト、くっきりと伸びる影、明瞭に照らされた肌や建物の輪郭、それらは“写真らしさ”として端的に浮かび上がる。 けれど、曇った日には曇った日なりの魅力がある。それは、太陽が雲に隠れたときにだけ現れる、やわらかな陰影の世界だ。 曇りの日は“世界最大のソフトボックスの下の世界”と言える。被写体はフラットに照らされ、階調は繊細につながっていく。 晴れの日は“光の写真”を撮る日。曇りの日は“空気の写真”を撮る日だ。 光が主張をやめた時、被写体そのものが前に出る。たとえば、壁の質感、濡れたアスファルト、人の肌の柔らかさ。そうした細部が、いつもより静かに、しかし確かに見えてくる。 曇り空の下では、光の方向が曖昧になる。陰影は朧げとなり、被写体はフラットに並ぶ。「好き嫌い」や「主観的なドラマ」が剥ぎ取られ、“そこにある現実”が、淡々と立ち上がる。 曇りの日の写真には、静けさが宿る。 白や黒はやさしく溶け、街はグレースケールの海になる。それは“被写体の集合体”ではなく、“世界そのもの”を写すような感覚かもしれない。 「曇ってしまいましたね」と言われた時、僕は思う。曇りの日にしか見えない世界があることを。 そして曇り空の下で、柔らかな世界にカメラを向けてシャッターを切る。
ノイズと粒子の話
“ノイズ”という言葉には「本来必要としない不要な音、電波、情報」という意味がある。つまり不要なもの、ということである。 しかし写真におけるノイズは実は少し違う。 確かにデジタルで写真を撮る人は、ノイズを「消すべきもの」と捉えている面はある。高感度でザラついた写真は“悪い例”として挙げられ、それは現像ソフトで滑らかに整えられる。 フィルム時代の“粒子” フィルム写真の時代、粒子(グレイン)「味」として認識されていた。ISO400のトライX、1600のネオパン、3200のデルタ。それぞれの粒子のニュアンスを生かした写真が撮られた。 被写体の肌や影の中の粒子は、それが写真“空気”を演出した。 フィルムの粒子は、化学的な結晶がランダムに並ぶことで生まれる。この“偶然の配置”が写真の質感そのものになっていた。この不均一さが、アナログ写真に“空気”を与えるのだ。 デジタルノイズの誤解 デジタルにおけるノイズは、原理が違う。センサー上の電気信号の乱れ、読み出し時の熱、増幅回路の誤差。それらがピクセル単位で微細な“誤差”を生み出す。 しかし、それでもやはりそれはただの「悪者」ではない。 デジタルのセンサーは、元々あまりに正確すぎる。一様で、乱れがなく、滑らか。その結果、陰影の境界が整いすぎてしまう。つまり、「現実のざらつき」が抜け落ちてしまうのだ。 ノイズを少し加えると、不思議と階調のつながりが自然になる。暗部から中間調へのグラデーションが滑らかに見えるのは、細かな乱れがトーンの境界を“ぼかす”からだ。これは、絵画で言うところの“にじみ”に近い。 階調とざらつきの関係 Lightroomなどでデジタルノイズを少し加えると、画面の中の“空気”が変わるのは気のせい、ではない。 完璧にノイズを除去した肌は滑らかだが、どこか“無機的”になる。そこに少し粒を足すと、質感が戻り、呼吸を感じる。 人間の目は、完全に均一なグラデーションを見ると、小さな階調差(特に8bit画像などでの量子化段差)を“段階”として感じ取ってしまう。いわゆる バンディング(banding) 現象だ。 そこで使われるのが**ディザリング(dithering)**という手法。わずかなノイズを加えることで、階調の境界をランダム化し、視覚的に“滑らか”に見せる効果がある。 これは古くから印刷技術や音響処理でも使われてきた。人間の知覚は“完全な直線”よりも、“微細なゆらぎを含む線”を自然だと感じる。 写真においても同じで、少量のノイズがトーンカーブの隙間を埋める微細な揺らぎとして働き、デジタル特有の硬さをやわらげてくれる。 トーンカーブを滑らかに繋ぐための“視覚的なバッファ”。デジタル写真の線のような階調を“面”に変える。 フィルムとデジタルの“揺らぎ” フィルムでは、粒子が“光の痕跡”としてそこに残る。デジタルでは、ノイズが“電子のゆらぎ”として現れる。どちらも、完璧ではない。だが、その不完全が“手触り”を作る。 北島敬三がトライXを好んだのも、森山大道が高感度のネオパンで焼いたのも、粒子に“現実のざらつき”を見たからだろう。 デジタルでも変わらない。高感度で撮った夜の街、暗部に浮かぶノイズの斑点。そこに“現実の温度”を感じる瞬間がある。 ノイズは記憶の粒 結局のところ、ノイズとは“記憶の粒”のようなものだと思う。記憶はいつも完璧ではなく、ところどころ曖昧で、滲んだり、揺らいだりしている。それでも、そこにしかない質感がある。 ノイズを消すことは、記憶のざらつきを削り取ることに似ている。 フィルムでもデジタルでも、ノイズには「光が通過した痕跡」が見える。...
ノイズと粒子の話
“ノイズ”という言葉には「本来必要としない不要な音、電波、情報」という意味がある。つまり不要なもの、ということである。 しかし写真におけるノイズは実は少し違う。 確かにデジタルで写真を撮る人は、ノイズを「消すべきもの」と捉えている面はある。高感度でザラついた写真は“悪い例”として挙げられ、それは現像ソフトで滑らかに整えられる。 フィルム時代の“粒子” フィルム写真の時代、粒子(グレイン)「味」として認識されていた。ISO400のトライX、1600のネオパン、3200のデルタ。それぞれの粒子のニュアンスを生かした写真が撮られた。 被写体の肌や影の中の粒子は、それが写真“空気”を演出した。 フィルムの粒子は、化学的な結晶がランダムに並ぶことで生まれる。この“偶然の配置”が写真の質感そのものになっていた。この不均一さが、アナログ写真に“空気”を与えるのだ。 デジタルノイズの誤解 デジタルにおけるノイズは、原理が違う。センサー上の電気信号の乱れ、読み出し時の熱、増幅回路の誤差。それらがピクセル単位で微細な“誤差”を生み出す。 しかし、それでもやはりそれはただの「悪者」ではない。 デジタルのセンサーは、元々あまりに正確すぎる。一様で、乱れがなく、滑らか。その結果、陰影の境界が整いすぎてしまう。つまり、「現実のざらつき」が抜け落ちてしまうのだ。 ノイズを少し加えると、不思議と階調のつながりが自然になる。暗部から中間調へのグラデーションが滑らかに見えるのは、細かな乱れがトーンの境界を“ぼかす”からだ。これは、絵画で言うところの“にじみ”に近い。 階調とざらつきの関係 Lightroomなどでデジタルノイズを少し加えると、画面の中の“空気”が変わるのは気のせい、ではない。 完璧にノイズを除去した肌は滑らかだが、どこか“無機的”になる。そこに少し粒を足すと、質感が戻り、呼吸を感じる。 人間の目は、完全に均一なグラデーションを見ると、小さな階調差(特に8bit画像などでの量子化段差)を“段階”として感じ取ってしまう。いわゆる バンディング(banding) 現象だ。 そこで使われるのが**ディザリング(dithering)**という手法。わずかなノイズを加えることで、階調の境界をランダム化し、視覚的に“滑らか”に見せる効果がある。 これは古くから印刷技術や音響処理でも使われてきた。人間の知覚は“完全な直線”よりも、“微細なゆらぎを含む線”を自然だと感じる。 写真においても同じで、少量のノイズがトーンカーブの隙間を埋める微細な揺らぎとして働き、デジタル特有の硬さをやわらげてくれる。 トーンカーブを滑らかに繋ぐための“視覚的なバッファ”。デジタル写真の線のような階調を“面”に変える。 フィルムとデジタルの“揺らぎ” フィルムでは、粒子が“光の痕跡”としてそこに残る。デジタルでは、ノイズが“電子のゆらぎ”として現れる。どちらも、完璧ではない。だが、その不完全が“手触り”を作る。 北島敬三がトライXを好んだのも、森山大道が高感度のネオパンで焼いたのも、粒子に“現実のざらつき”を見たからだろう。 デジタルでも変わらない。高感度で撮った夜の街、暗部に浮かぶノイズの斑点。そこに“現実の温度”を感じる瞬間がある。 ノイズは記憶の粒 結局のところ、ノイズとは“記憶の粒”のようなものだと思う。記憶はいつも完璧ではなく、ところどころ曖昧で、滲んだり、揺らいだりしている。それでも、そこにしかない質感がある。 ノイズを消すことは、記憶のざらつきを削り取ることに似ている。 フィルムでもデジタルでも、ノイズには「光が通過した痕跡」が見える。...
誰も美しいと思わなくても
秋になり、街の色が少し変わる。 赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。 観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。 同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。 それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。 濃く色づいた葉はサイケデリックで、 光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。 でも、時々思う。 “きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。 持ち主を失い錆びた看板、 積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、 折れたビニール傘に溜まった雨水。 そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。 それは、誰に見せなくても良い。 引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。 わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。 世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。 それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。 「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。 SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。 そう“仮定”した方がきっと面白い。 誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。 しかし、ふとシャッターを切っていた。...
誰も美しいと思わなくても
秋になり、街の色が少し変わる。 赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。 観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。 同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。 それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。 濃く色づいた葉はサイケデリックで、 光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。 でも、時々思う。 “きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。 持ち主を失い錆びた看板、 積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、 折れたビニール傘に溜まった雨水。 そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。 それは、誰に見せなくても良い。 引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。 わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。 世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。 それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。 「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。 SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。 そう“仮定”した方がきっと面白い。 誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。 しかし、ふとシャッターを切っていた。...
カメラを持たない日
写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、 たまにカメラを置いて外を歩いていると、 不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。 僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。 ──例えば、身軽さとか、体力とかだ。 カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。 陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。 無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。 それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、 同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。 カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。 「撮るために見る」ことをやめたとき、 街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。 光がただ光として差し込み、 風がただ風として吹きつけ、 人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。 “レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。 写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。 それでも、やはり 「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。 けれどその時、カメラはない。 シャッターは押せない。 しかし、不思議と焦りはない。 その「撮れなさ」も心地いい。 撮らないことで、...
カメラを持たない日
写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、 たまにカメラを置いて外を歩いていると、 不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。 僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。 ──例えば、身軽さとか、体力とかだ。 カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。 陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。 無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。 それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、 同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。 カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。 「撮るために見る」ことをやめたとき、 街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。 光がただ光として差し込み、 風がただ風として吹きつけ、 人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。 “レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。 写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。 それでも、やはり 「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。 けれどその時、カメラはない。 シャッターは押せない。 しかし、不思議と焦りはない。 その「撮れなさ」も心地いい。 撮らないことで、...