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写真を批評すること

写真を批評すること

写真家の 森山大道 は「写真はすべて等価だ」という言葉を残している。 この言葉は比喩などではなく、“文字通り”そうであると私は受け取っている。 すべての写真は、世界を写したもの、世界の複写であるという点において、同じ地平に立っている。 “良い写真”とか“悪い写真”という評価はナンセンスだろう。少なくとも、“存在”のレベルで、そのような区分はし得ない。 極端に言えば、すべての写真は素晴らしい。 それでも私は、ときどき人の写真に言及する。辛辣で、批判的だと感じられるものにもなる。言葉にすればこれは矛盾しているだろう。 しかし、この2つは、相容れないものではない。 例えば、すべての生命は等しく大切だ。 それでも私たちは、個人の生き方について言及する。 その選択は楽かもしれない、と伝えることもあるし、それを選択すればどこかで行き詰まるかもしれない、と伝えることもある。 生命の価値と、生き方の選択は、別の次元にある。 写真も、たぶんそれに近い。 写真は、等価だ。全ての存在は同様に尊重されなければならない。 けれど、例えば、その写真がどこへ向かおうとしているのか、あるいは、どこで止まってしまっているのかについて、言葉を添えることはできる。 写真に対する意見というのは、作家にとってありがたいものだ。 自分では見えていなかったものが、否定的なものであったとしても、他人の視点を通して、初めて輪郭を持つことがある。 もちろん、ただの誹謗中傷は、この限りではない。それは批評ではないし、意見ですらない。 ただし、仕事としての批評が意味を持つ条件があるとすれば、それは、その批評自体が「作品」として成立しているときだけだと、私は思う。 写真を説明する、正解を誘導する、評価を代行するだけの批評。 それらは便利かもしれないが、写真と同じ緊張感の中にはない。 写真は、批評で価値を得るわけではない。しかし、批評そのものが作品として成立していれば、それはひとつの表現として、写真と同じ地平に立つだろう。

写真を批評すること

写真家の 森山大道 は「写真はすべて等価だ」という言葉を残している。 この言葉は比喩などではなく、“文字通り”そうであると私は受け取っている。 すべての写真は、世界を写したもの、世界の複写であるという点において、同じ地平に立っている。 “良い写真”とか“悪い写真”という評価はナンセンスだろう。少なくとも、“存在”のレベルで、そのような区分はし得ない。 極端に言えば、すべての写真は素晴らしい。 それでも私は、ときどき人の写真に言及する。辛辣で、批判的だと感じられるものにもなる。言葉にすればこれは矛盾しているだろう。 しかし、この2つは、相容れないものではない。 例えば、すべての生命は等しく大切だ。 それでも私たちは、個人の生き方について言及する。 その選択は楽かもしれない、と伝えることもあるし、それを選択すればどこかで行き詰まるかもしれない、と伝えることもある。 生命の価値と、生き方の選択は、別の次元にある。 写真も、たぶんそれに近い。 写真は、等価だ。全ての存在は同様に尊重されなければならない。 けれど、例えば、その写真がどこへ向かおうとしているのか、あるいは、どこで止まってしまっているのかについて、言葉を添えることはできる。 写真に対する意見というのは、作家にとってありがたいものだ。 自分では見えていなかったものが、否定的なものであったとしても、他人の視点を通して、初めて輪郭を持つことがある。 もちろん、ただの誹謗中傷は、この限りではない。それは批評ではないし、意見ですらない。 ただし、仕事としての批評が意味を持つ条件があるとすれば、それは、その批評自体が「作品」として成立しているときだけだと、私は思う。 写真を説明する、正解を誘導する、評価を代行するだけの批評。 それらは便利かもしれないが、写真と同じ緊張感の中にはない。 写真は、批評で価値を得るわけではない。しかし、批評そのものが作品として成立していれば、それはひとつの表現として、写真と同じ地平に立つだろう。

「作品撮り」ってなんだろう?

「作品撮り」ってなんだろう?

SNSで「作品撮りの被写体募集します」という投稿を見かける。 もちろん、それが悪いわけではない。ただ、少し引っかかる。 被写体がいると写真は“作品”になるのだろうか。そもそも、“作品撮り”とはなにか。 たとえば、家で一人くつろいでいる時にふと窓際の光が綺麗だなとシャッターを切ったとする。見返すと、その一枚がとても綺麗だった。その写真は、作品にはならないだろうか。 逆に初めから「これは作品を撮るぞ」と思って撮った写真は、必ず作品になるだろうか。 モデルを使うかどうか。街なのかスタジオなのか。それらは全部「方法」の話であって、「作品かどうか」とは別軸のものだろう。 写真を自動的に「作品」に変える魔法はない。 それに、「作品」を撮ろうとか思わずにふとシャッターを切った写真の方が、ずっと「写真的」だと僕は思ったりもする。 そのいう中から、後から見て「これ、いいな」と思うものが出てくる。そして、それが増えてくる。それくらいの態度でいたほうが、世界に素直に対峙できるような気がするのだ。 写真は、まず行為であって、次に記録で、そのあと、作品になることもある。 最初から作品である必要はない。 撮ったものが、作品だと思われても、思われなくても構わない。それで写真が変わるわけではないから。

「作品撮り」ってなんだろう?

SNSで「作品撮りの被写体募集します」という投稿を見かける。 もちろん、それが悪いわけではない。ただ、少し引っかかる。 被写体がいると写真は“作品”になるのだろうか。そもそも、“作品撮り”とはなにか。 たとえば、家で一人くつろいでいる時にふと窓際の光が綺麗だなとシャッターを切ったとする。見返すと、その一枚がとても綺麗だった。その写真は、作品にはならないだろうか。 逆に初めから「これは作品を撮るぞ」と思って撮った写真は、必ず作品になるだろうか。 モデルを使うかどうか。街なのかスタジオなのか。それらは全部「方法」の話であって、「作品かどうか」とは別軸のものだろう。 写真を自動的に「作品」に変える魔法はない。 それに、「作品」を撮ろうとか思わずにふとシャッターを切った写真の方が、ずっと「写真的」だと僕は思ったりもする。 そのいう中から、後から見て「これ、いいな」と思うものが出てくる。そして、それが増えてくる。それくらいの態度でいたほうが、世界に素直に対峙できるような気がするのだ。 写真は、まず行為であって、次に記録で、そのあと、作品になることもある。 最初から作品である必要はない。 撮ったものが、作品だと思われても、思われなくても構わない。それで写真が変わるわけではないから。

久しぶりに革靴を買った

久しぶりに革靴を買った

久しぶりに革靴を買った。Scotch Grainという日本のメーカーのものだ。 最近はずっとスニーカーばかりだったし、革靴を買うつもりもまるでなかったのだけれど、古着店で見かけて、未使用に近いような美品、サイズもぴったりだったので、衝動的に購入した。 街で写真を撮り始めてからは、とにかく、たくさん歩くようになった。 徒歩の“線”では、街の“面”を埋めることなんて到底できないのだけれど、それでも、出来るだけ“隈なく”世界をなぞりたいというような気持ちがあった。 そういう撮り方をする時には、どうしても足元はスニーカーになった。革靴を履く選択肢はなかった。 今日はどれだけ歩いたか、何枚撮ったか。そういうことが、やはりどこか気になっていたのだろう。たくさん歩いた日は、それだけで「今日はちゃんと写真を撮った」気がして、安堵したのだろう。 最近、そういう感覚が少し薄れてきた。 写真を取りにいっても、それほど歩かない日もあるし、何も撮れていない日も受け入れられる。 もしかすると、その変化が、革靴を買った“見えない動機”だったかもしれない。 久しぶりに、歩くための靴ではなく、履きたい靴を選んだ。 まあ、そういうのはもちろん後付けであって、ただ、久しぶりに買った新しい革靴が気に入っている、というだけのことだろう。 履くと、少し気分が変わるが変わるのが楽しい。もちろん、ストリートフォトは、出来るだけたくさん撮った方がいいし、“もう充分撮った”なんてことは全くない。 スニーカーもまだまだ必要だし、これからもたくさん歩かなくてはな、と思う。ただ、「今日は革靴でもいいか」と思える日が出来た。少なくとも、今はそれがある。 その変化もネガティヴなものだとは思わない。

久しぶりに革靴を買った

久しぶりに革靴を買った。Scotch Grainという日本のメーカーのものだ。 最近はずっとスニーカーばかりだったし、革靴を買うつもりもまるでなかったのだけれど、古着店で見かけて、未使用に近いような美品、サイズもぴったりだったので、衝動的に購入した。 街で写真を撮り始めてからは、とにかく、たくさん歩くようになった。 徒歩の“線”では、街の“面”を埋めることなんて到底できないのだけれど、それでも、出来るだけ“隈なく”世界をなぞりたいというような気持ちがあった。 そういう撮り方をする時には、どうしても足元はスニーカーになった。革靴を履く選択肢はなかった。 今日はどれだけ歩いたか、何枚撮ったか。そういうことが、やはりどこか気になっていたのだろう。たくさん歩いた日は、それだけで「今日はちゃんと写真を撮った」気がして、安堵したのだろう。 最近、そういう感覚が少し薄れてきた。 写真を取りにいっても、それほど歩かない日もあるし、何も撮れていない日も受け入れられる。 もしかすると、その変化が、革靴を買った“見えない動機”だったかもしれない。 久しぶりに、歩くための靴ではなく、履きたい靴を選んだ。 まあ、そういうのはもちろん後付けであって、ただ、久しぶりに買った新しい革靴が気に入っている、というだけのことだろう。 履くと、少し気分が変わるが変わるのが楽しい。もちろん、ストリートフォトは、出来るだけたくさん撮った方がいいし、“もう充分撮った”なんてことは全くない。 スニーカーもまだまだ必要だし、これからもたくさん歩かなくてはな、と思う。ただ、「今日は革靴でもいいか」と思える日が出来た。少なくとも、今はそれがある。 その変化もネガティヴなものだとは思わない。

“写真の言語化”は必要か?

“写真の言語化”は必要か?

写真を撮っていると、聞かれることがある。   「この写真、どういう意味なんですか?」 「コンセプトは?」 「キャプションはつけないんですか?」 キャプションやステートメントがあったほうが良い場面はもちろんあるだろう。 展示、販売、SNS、ブランドとしての発信。 何も書かないより、言葉を添えたが意図は伝わりやすい。 一方で、こう思う。   “言葉”で写真を語り尽くすことは、決してできない。   言葉にできない。 その「余白」こそが、写真やアートと呼ばれるものの本質だと言っても良いだろう。   その言葉がいかに詩的だろうと哲学的だろうとそれは変わらない。   説明される前に生じた感情、それは肯定的なものである必要もない。 「理由はわからないけど気になる」 その感覚のほうが大切だ。 いや、大切かどうかはわからないけれど、私は面白いと思う。   たとえば、インストゥルメンタルの音楽を思い浮かべてみて欲しい。 ポストロックとか、アンビエントとか。 歌詞はない。 メロディーは説明されない。 でも、それは人々の心を打つ。   “答え”はない。 感じたことが、その人にとっての正解だ。...

“写真の言語化”は必要か?

写真を撮っていると、聞かれることがある。   「この写真、どういう意味なんですか?」 「コンセプトは?」 「キャプションはつけないんですか?」 キャプションやステートメントがあったほうが良い場面はもちろんあるだろう。 展示、販売、SNS、ブランドとしての発信。 何も書かないより、言葉を添えたが意図は伝わりやすい。 一方で、こう思う。   “言葉”で写真を語り尽くすことは、決してできない。   言葉にできない。 その「余白」こそが、写真やアートと呼ばれるものの本質だと言っても良いだろう。   その言葉がいかに詩的だろうと哲学的だろうとそれは変わらない。   説明される前に生じた感情、それは肯定的なものである必要もない。 「理由はわからないけど気になる」 その感覚のほうが大切だ。 いや、大切かどうかはわからないけれど、私は面白いと思う。   たとえば、インストゥルメンタルの音楽を思い浮かべてみて欲しい。 ポストロックとか、アンビエントとか。 歌詞はない。 メロディーは説明されない。 でも、それは人々の心を打つ。   “答え”はない。 感じたことが、その人にとっての正解だ。...

大きいカメラと小さいカメラ

大きいカメラと小さいカメラ

色々なカメラを使っているけど、 中でもストリートフォトによく使うのは、 PENTAXの 645D と、 Nikonの COOLPIX S9400だ。 両機種を知っている人はすぐわかるのだけれど、非常に大きさに差がある。 一つは、軽く息を吸って気持ちを整えてから持ち上げるタイプのカメラで、 もう片方はポケットに入っているのを忘れてしまうタイプのカメラだ。 重量差を改めて比べてみた。 【ペンタックス645D + FA645 45-85mm F4.5】 • 645D本体(バッテリー・カード含):約 1480 g(1.48 kg)   • FA645 45-85mm F4.5 標準ズーム:約 870 g(0.87...

大きいカメラと小さいカメラ

色々なカメラを使っているけど、 中でもストリートフォトによく使うのは、 PENTAXの 645D と、 Nikonの COOLPIX S9400だ。 両機種を知っている人はすぐわかるのだけれど、非常に大きさに差がある。 一つは、軽く息を吸って気持ちを整えてから持ち上げるタイプのカメラで、 もう片方はポケットに入っているのを忘れてしまうタイプのカメラだ。 重量差を改めて比べてみた。 【ペンタックス645D + FA645 45-85mm F4.5】 • 645D本体(バッテリー・カード含):約 1480 g(1.48 kg)   • FA645 45-85mm F4.5 標準ズーム:約 870 g(0.87...

“正しい色”は写真に必要か

“正しい色”は写真に必要か

SNSでは「フィルムライクな色」がウケるとよく言われる。 現像ソフトは高機能になり、プリセットが売られ、参考となる“模範解答”のような色が簡単に手に入る。そしてそれから派生するように「正しい色」みたいな概念が生まれつつある。 そんな中で、「写真に“正しい色”を求める必要があるだろうか」という疑問を、頭の片隅に置いておく価値はあるだろう。 “プリセット”というのは、「最初から色が決められている」ことだ。 仕事の現場でスピードが求められたり、クライアントと完成イメージを素早く共有したいときには、これはものすごく役に立つ。 時間に追われるような条件の中で、ちょうどイメージ通りのプリセットが見つかれば、それを購入して使うのは非常に合理的な判断だと思う。ただ、自分のために撮る写真や、自由であっていい写真まで、その“前もって決められた色”を用いる必要があるのかどうかは慎重に考えてみても良いだろう。 まず現像の「基本」や「最低限」について考えてみよう。それは全然複雑なものではない。大きく白飛びしすぎていないこと、大きく黒潰れしすぎていないこと、色が飽和するような彩度になっていないこと、まずはそれくらいで十分だと言っても良いくらいだ。 それらの「基本」だって、「それが求められる」場合は確かに多いけれど、ほとんど白で飛んでしまった画面に一部のころ影や彩度が飽和した花がクールだということだって普通に存在する。 そう“正しい色”は実は無い。 トーンカーブを使えば繊細な調整が出来るし、「プロならトーンカーブを使うのが当たり前」というようなことをいう職業フォトグラファーも見かける。 しかし、使えないと“良い写真”にならないかといえば、決してそんなことはない。そう、全くそんなことはないのだ。 もしトーンカーブの設定、数字や操作がよくわからなければ、自分が求めている雰囲気を抽象的でも構わないからAIに相談して、具体的な数値等は提案してもらったって構わない。 現像の知識量が写真の価値に影響する割合なんてほとんど誤差みたいなものかもしれない。 むしろ、恐れるべきは「正しさ」に合わせることが目的にな理、自分をそこに押し込めてしまうことだ。写真に真面目に取り組む人ほど、そういった“罠”に陥りやすいかもしれない。 技術として覚えていくことも当然有用ではあるけれど、その過程であなたの写真に有る価値が損なわれてしまっては本末転倒だ。 もちろん「正しい色」を目指したって構わない。ただ、そこへ向かわなければという風には考えないほうが良い。 デジタル写真における現像は“正解を目指す作業”にするよりは、“シャッターを切った瞬間の感情と画面に見えているものを擦り合わせる作業”だと思っていたほうが、きっと楽しい。 そう思うだけで、もう少し自由になれるはずだ。  

“正しい色”は写真に必要か

SNSでは「フィルムライクな色」がウケるとよく言われる。 現像ソフトは高機能になり、プリセットが売られ、参考となる“模範解答”のような色が簡単に手に入る。そしてそれから派生するように「正しい色」みたいな概念が生まれつつある。 そんな中で、「写真に“正しい色”を求める必要があるだろうか」という疑問を、頭の片隅に置いておく価値はあるだろう。 “プリセット”というのは、「最初から色が決められている」ことだ。 仕事の現場でスピードが求められたり、クライアントと完成イメージを素早く共有したいときには、これはものすごく役に立つ。 時間に追われるような条件の中で、ちょうどイメージ通りのプリセットが見つかれば、それを購入して使うのは非常に合理的な判断だと思う。ただ、自分のために撮る写真や、自由であっていい写真まで、その“前もって決められた色”を用いる必要があるのかどうかは慎重に考えてみても良いだろう。 まず現像の「基本」や「最低限」について考えてみよう。それは全然複雑なものではない。大きく白飛びしすぎていないこと、大きく黒潰れしすぎていないこと、色が飽和するような彩度になっていないこと、まずはそれくらいで十分だと言っても良いくらいだ。 それらの「基本」だって、「それが求められる」場合は確かに多いけれど、ほとんど白で飛んでしまった画面に一部のころ影や彩度が飽和した花がクールだということだって普通に存在する。 そう“正しい色”は実は無い。 トーンカーブを使えば繊細な調整が出来るし、「プロならトーンカーブを使うのが当たり前」というようなことをいう職業フォトグラファーも見かける。 しかし、使えないと“良い写真”にならないかといえば、決してそんなことはない。そう、全くそんなことはないのだ。 もしトーンカーブの設定、数字や操作がよくわからなければ、自分が求めている雰囲気を抽象的でも構わないからAIに相談して、具体的な数値等は提案してもらったって構わない。 現像の知識量が写真の価値に影響する割合なんてほとんど誤差みたいなものかもしれない。 むしろ、恐れるべきは「正しさ」に合わせることが目的にな理、自分をそこに押し込めてしまうことだ。写真に真面目に取り組む人ほど、そういった“罠”に陥りやすいかもしれない。 技術として覚えていくことも当然有用ではあるけれど、その過程であなたの写真に有る価値が損なわれてしまっては本末転倒だ。 もちろん「正しい色」を目指したって構わない。ただ、そこへ向かわなければという風には考えないほうが良い。 デジタル写真における現像は“正解を目指す作業”にするよりは、“シャッターを切った瞬間の感情と画面に見えているものを擦り合わせる作業”だと思っていたほうが、きっと楽しい。 そう思うだけで、もう少し自由になれるはずだ。