「写真は水平をきちんと取りましょう」と言われる。
基本的にそれは間違っていない。
人物写真や建築写真、商品写真のように、見せたい“物”が明確な写真では、水平や垂直は特に重要だろう。
建物が傾いて見えれば違和感があるし、人物が斜めに立っているように見えれば落ち着かない。
これらの写真においては、その被写体に対して水平を取ることは一つの前提と言っても差し支えない。
しかし、それは全ての写真に当てはまるわけではない。
例えば、街角でふと立ち止まってシャッターを切る時のことを考える。
そこには道があり、ビルがあり、車があり、人物がいる。
道には車の垂らしたオイルの跡がある。ビニール袋が落ちているし、そのとなりにはタバコの吸い殻もある。
そして、そのそれぞれに影が落ちている。
この時、何に対して水平を取れば良いだろう。
「水平を取る」という言葉を簡単に使ってしまうが、そもそも何を基準に水平を考えるのかという問題もある。
さらに言えば、人が感じる水平は必ずしもカメラが示す水平とは一致しない。
水準器では水平でも、傾いて見える写真がある。
私たちは一本の線だけを見て水平を感じるわけではない。
建物の垂直、道路の角度、人物の姿勢、遠近感、あらゆる被写体の線が複合的に影響を及ぼす。
そうした様々な情報を無意識に組み合わせ、“水平らしさ”を感じ取っている。
つまり、写真における水平とは、物理的な数値だけで決まるものではなく、人の知覚と併せて成立していると考えた方が良い。
ここで、画面を二次元的に考えてみる。
写真は三次元の世界を二次元へ置き換える表現だ。
水平を感じさせる線も、斜めの線も、曲線も、その全てが写真の構成要素となる。
水平に強い影響を及ぼす線は、確かに画面の印象を大きく左右するかもしれない。
しかし、それは数ある構成要素の一つであり、必ずしも“水平を司る”ためにある必要はない。
もし、その線の目的を“水平を司る”ために固定してしまえば、写真の自由は制限されてしまう。
「水平を取らなければ」という意識が、可能性を狭めてしまう。
水平を取ることの重要性を否定しない。
水平が写真の印象に大きな影響を与える要素なのは間違いないだろう。
ただ同時に、それを絶対的なルールとして扱う必要もない。
“水平を司る線”も、一つの線、一つの構成要素として先入観を排除して捉える。
そんな見方ができれば、構図は、写真は少し自由になるだろう。
水平を取れることには意味がある。
しかし、それ以上に大切なのは、そういった“一種のルール”に縛られない自由な視点を確保することだろう。
ストリートフォトにおいて、それは際立つ。