日本を代表する写真家と言えば、荒木経惟や森山大道の名前がまず挙がるだろう。
例えば、篠山紀信や上田義彦と比べたとき、この二人を“写真の上手い写真家“だと思わない人も少なくないのかもしれない。
荒木経惟には「人妻エロス」シリーズに象徴される露骨な作品が多いし、どこか“撮り放した”ようにも見えるスナップも多い。
森山大道のイメージに直結する、「アレ・ブレ・ボケ」も、少なくとも分かりやすい意味での“写真の上手さ”からは距離のある概念だろう。
しかし彼らが世界的な評価を受けているという事実は揺るがない。
そしてこれは決して逆説ではない。
荒木経惟も森山大道も、間違いなく、極めて「写真の上手い写真家」なのだ。
ここでまず想起すべきは、二人の職業フォトグラファーとしてのスタートだ。
荒木経惟は電通でコマーシャルフォトの現場に身を置き、厳密な要求と制約の中で写真を撮ってきた。
森山大道もまた、細江英公のアシスタントとして、最先端のプロフェッショナルな写真制作現場を経験している。
二人とも、どこか一匹狼のような印象があるが、実際にはフォトグラファーとしての確固たるバックボーンを持ち、技術や現場感覚を身体に叩き込んだ上で、自らの表現へと向かっていると言える。
世界的な評価を得ている写真家が、実は極めて“正統的に写真が上手い”という事実は、しばしば見過ごされがちだ。
だがこれは、写真という表現を考える上で、かなり重要な前提だと思う。
一方で、ここから話はもう一段進む。
ここで言いたいのは「世界的な写真家として認められるためには写真が上手くなくてはならない」ということではない。
技術的に未熟な写真が、人の記憶に深く残ることは大いにある。
完璧に整った写真が、何も残さず通り過ぎていくこともある。
「上手さ」が「良さ」と一致しないことは、写真を続けていれば誰もが体感的に知っているだろう。
もちろん、上手さは「有用」だ。
しかしそれは価値の中心ではなく、前提条件に近い。
荒木経惟や森山大道の写真が評価され続けている理由は、「上手いから」ではない。
仮に明らかに写真が「下手」であると認識されていながら、荒木や森山のように世界的な評価を受ける写真家がいたらどうだろう。
率直に言うと私はそれに該当する写真家を知らない。しかし、それは決してあり得ないことではないどころか、むしろあって然るべきだろう。
それに直面した時、写真家にとって“上手い”ことの価値とはなんだろうと、きっと深く考えることになるだろう。