自分の写真を見返す時、こんなふうに思考してみることがある。
この写真はプリントした時、ラグジュアリーなホテルのロビーや客室に飾れるだろうか、と。
これが、自分の写真を見る時の一つの基準だと言って良いかもしれない。
写真にはいろいろな価値がある。
記録として社会の中で大きな意味をもつ写真もある。
個人的な記憶とつながる大切な写真もある。
むしろ不快さを想起するけれど、それが感情のトリガーとして機能する写真もある。
だから、「ホテルに飾れない写真はダメだ」と言いたいわけではない。
ただ、一枚の写真を純粋な視覚表現として考えた時、ある程度の強度を出せることには意味があるだろうと、私は考える。
そのための、一つの指標として「ラグジュアリーなホテルに飾れるか」がある。
ラグジュアリーなホテルは、ある意味で写真にとってかなり厳しい場所だ。
家具は隙なく整えられている。
照明は全てを排他的に浮かび上がらせ、
壁や床の素材の質感は雄弁だ。
空間には十分な余白があり、置かれているもの一つ一つに高い完成度が要求される。
そんな場所に写真を飾る。
色彩は調和し得るか。
構図は節度を保持しているか。
情報量は品性を滅しないか。
空間に飲み込まれない強度はあるか。
説明がなくとも、一つの画像として成立しているだろうか。
こう思考すると、普段モニターで写真を見ている時とは、違った見え方が現れる。
例えばSNSで目立つ写真と、ホテルの壁に成立する写真は、必ずしも同じではない。
SNSでは、一瞬で人の目を惹きつけることが重要になる。
強い色彩。
劇的な光。
大胆な構図。
わかりやすい「決定的瞬間」。
そうしたものはスクロールの中では特に機能する。
けれど、空間に写真を置く場合、その写真は全く異なる見られ方をする。
異なるものを求められる。
遠い場所に立つ人の視野に入った時。
近くを通り過ぎる視界を掠める時。
立ち止まって細部を観察される時。
昼もある。夜もある。
何日も続けてそこを通る人もいる。
長い時間、その空間の一部として存在し続ける。
そこでは、華やかさやインパクトとは別の強さが必要になる。
持続する強度のようなものだ。
美術館であれば、飾られたものは「これは作品です」という文脈の中にある。
写真集も同様だ。文脈があり、前後の写真との関連、補完関係が生まれる。
キャプションや文章が補うこともある。
しかし、ホテルの壁では、そういった補助的な要素はかなり少ない。
写真は一枚で、ただ置かれる。
写真そのものの質が露呈する。
繰り返しになるが、ホテルに似合わない写真は良くない、と言っているわけではない。
写真を見る視点の一つであり、評価する際の一つの“コツ”のようなものだというのが近い。
自分の写真を見返す時、時々、想像の中で、モニターから一枚を取り出してみる。
それを大きくプリントし、額装する。
ラグジュアリーなホテルの広い壁に掛けてみる。
その空間は少しマシになるだろうか。
ダサくなってしまわないだろうか。
それは写真家としての最低限の基礎体力を確認するような作業かもしれない。