カメラを持たない日

カメラを持たない日

写真家にとって、もちろんカメラは必需品だけれど、

たまにカメラを置いて外を歩いていると、

不思議なくらい軽快な気分を味わえるのもまた事実だ。


僕たちは日頃、カメラを持つことで大切な何かを失っているかもしれない。

──例えば、身軽さとか、体力とかだ。

 

カメラを持つと、どうしても世界を“写真にする前提”で見てしまう。

陽が出れば露出を、街の造形を見ればフレーミングを意識する。

無意識のうちに、目が「構図」を追ってしまう。

それは確かに楽しく、誇らしくもあるけれど、

同時に、それが世界を“少し狭く”していることにも気づく。

 

カメラを持たない日には、視野がふっと広くなる。

「撮るために見る」ことをやめたとき、

街をいつもより少し自由に見渡すことが出来る。


光がただ光として差し込み、

風がただ風として吹きつけ、

人の気配はそれぞれの感情と共にただ通り過ぎる。

 

“レンズ越し”にではなく、受け止める世界は、生々しくも瑞々しい。

写真のための視線ではなく、“生きている自分の視線”が戻ってくるような感覚がある。

 

それでも、やはり

「今、撮りたいな」と思う瞬間も訪れる。

 

けれどその時、カメラはない。

シャッターは押せない。

しかし、不思議と焦りはない。

その「撮れなさ」も心地いい。


撮らないことで、

“その瞬間に立ち会っている自分”を強く感じられる。

シャッターを押して写真に変わらなかった時間は、

僕の中で別の何かに変わっている。


撮らない日の視線は、

フレームの外を見ている。


撮るときの僕たちは、無意識に「どこまでを切り取るか」を考える。

その“外”──つまり、

写らない音、風、におい、温度、通り過ぎた人の気配。

それらすべてが、写真を支えている。


フレームの外を見ること。

それは、次の写真を撮るための準備かもしれない。

撮らないことで、

世界をもう一度、捉え直す

 

そんな日があるからこそ、

また次の一枚を撮りたくなる。

 

そして、再びカメラを手にしたとき、

きっと僕たちは、少しだけ違う写真が撮れる。

 

その写真には、

もしかしたら、それまでの“フレームの外”が写っているかもしれない。

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