一枚の写真として見た時に、強く印象に残る写真がある。
構図の精度が極めて高い。
印象的な光が差している。
人物の動きがユーモラス。
強烈な色彩。
「決定的瞬間」が写っている。
そういう写真は、単体で見て魅力を感じやすい。
SNSでも目を引くだろうし、コンテストでも評価されやすいかもしれない。
けれど、写真集や写真展のように、50枚、100枚という単位で写真を考える時には、別の視点も必要になる。
一枚で強い写真ばかりが並んでいると、単調さを感じることがある。
チープとか俗っぽい、みたいな印象とも近い。
最初の数枚は引き込まれる。
けれど、すべての写真が強い構図を持ち、強い色彩を持ち、強い瞬間を持っていると、その強さそのものに慣れてしまう。
音楽で言えば、最初から最後までサビが続いているようなものかもしれない。
サビが悪いわけではない。
なるべく多くの人に届けようと思えば印象的なサビは有効だろう。
それは最も記憶に残る部分になりやすい。
ただ、サビを強く感じさせるのは、その前後にそれを際立たせる旋律があるからでもある。
写真でもこれに近いことが言えるのだと思う。
一枚だけで見れば決して印象的とは言えない写真が、まとまりの中で重要な役割を持つことがある。
誰もいない道路。
画鋲が刺さっているだけのボード。
変わり映えのしない駅前。
ただ見上げた空。
そういう写真があることで、まとまりにリズムが生まれる。そして、グルーヴが生まれる。
強い写真もより強く見える。
写真をまとまりで見る時には、一枚一枚が単独で存在するのと同時に「役割」を持つ。
主役になる写真があれば、間をつなぐ写真もある。
流れを変える写真があって、呼吸を整える写真がある。
「強い写真」が「良い写真」だというわけではない。
一枚で強い写真と、まとまりの中で必要な写真は、同じではない。
一枚だけを見て判断すれば通り過ぎてしまう写真が、まとまりの中で欠かせない一枚になることもある。
この「まとまり」に対する視点があると、
「これはどこにでもありそうな光景だから撮らなくてもいいか」
と思っていた場面で、
「この写真は、まとまりの中では必要になるかもしれない」
と考えるようになる。
すると、撮るものも変わってくる。
目立つものだけを探さなくなる。
「決定的瞬間」ばかりを待たなくなる。
強い写真の周囲にある、弱く見える世界にも目が向く。
それは写真の視野を広げるだろう。
例えば写真展をやる時、「見映えの良さで上から順に」写真を選ぶわけではない。
一枚一枚があまりにも完成され、すべてが同じ強さを主張してしまえば、集合としては退屈になることもある。
写真には「一枚の良さ」があるのと同時に、「まとまりとして見た時に生まれる良さ」がある。
だから時々、自分の写真を何十枚か並べて見てみるといい。
一枚ごとにだけ見ていた時には気づかなかった何かが見えてくるかもしれない。