写真をやっていると、「撮り逃してしまったな」と感じることがあるだろう。
人物の一部が画面からはみ出てしまった。
光が去ってしまった。
電車が通り過ぎてしまった。
カメラを構えた時には、思い描いた瞬間は終わっていた。
もう少し長いスパンでみた「撮り逃してしまったな」もある。
桜が満開なのに撮影へ行けなかった。
雪が降った日に仕事があった。
霧が出たのにカメラを持っていなかった。
そうした撮り逃しを悔やむことがあるかもしれない。
あと一秒早く気づいていれば。
気象情報をちゃんと確認していれば。
カメラをいつも持ち歩いていれば。
撮れなかった写真は、過大に評価しがちだ。
実際の画像は存在しないから、頭の中ではいくらでも理想的な一枚にできる。
その瞬間、人物の位置も光の具合も完璧だったような気がしてくる。
けれど、考えてみてほしい。
私たちが撮り逃している写真は1枚や2枚ではない。
眠っている間にも、働いている間にも、食事をしている間にも、世界では無数の瞬間が現れ、同時に消えている。
新宿を歩いている時、浅草では別の景色が生まれている。もちろん、ニューヨークにもパリにも。
東京で眠りについた私を尻目にニューヨークは朝を迎えている。
写真を持って歩いているその場所だって、後ろの光景はずっと見逃している。
視点があと10cm高かったら見えたものもきっとある。
そう、撮り逃した瞬間は、ほとんど無限だ。
そう考えれば、そのうちの1枚や2枚、あるいは10,000枚や20,000枚を悔やむことに、ほとんど意味がないと気づけるだろう。
写真を撮るということは、世界を余すことなく記録しようとすることではない。
ごく限られた時間の中で、ごく限られた場所を歩き、ごく限られた方向を見て、その中から更にほんのわずかな瞬間に反応することだ。
一枚の写真は、ほとんど無限に広がる可能性の中から、偶然にも選び取られた「奇跡の一点」なのだ。
その時、その場所に自分がいた。
たまたま、そちらを見た。
何かが気になり、足を止めた。
そしてカメラを構え、シャッターを切った。
条件が少しでも違えば、その写真は存在していなかった。
実際に撮った一枚の価値は計り知れない。
写真には「決定的瞬間」という概念がある。
もちろん、劇的な出来事や決定的な瞬間を捉えた写真もある。
有意義に感じられるし、それは実際にそうかもしれない。周囲から評価もされるだろう。
けれど、本当は、撮られたという事実そのものに奇跡は宿っているのではないだろうか。
少なくとも撮った自分にとっては、他の誰が撮ったどんな写真よりも決定的に意味を持っている。
だから、撮り逃した写真を悔やむ必要はない。
撮れなかった写真は存在しない。
しかし、撮った写真と共にあなたは存在する。
それは、写真を撮るという行為そのものを、大切に考えるということかもしれない。
ほとんど無限にある撮り逃した瞬間の中から、切り取った一瞬。
その奇跡の瞬間の価値に、もっと目を向けてもいいのだと思う。