“思い出を写真にする”のか、“写真が思い出になる”のか

“思い出を写真にする”のか、“写真が思い出になる”のか


“思い出”を残したいから写真を撮る、ことがある。

旅行へ行った。
記念日をお祝いした。
懐かしい友人と会った。

そんな時に、写真を撮る。
ごく自然なことだろう。

写真は“思い出”の役割を果たす。

何があったのか。
誰といたのか。
その時どんな場所にいたのか。

保存されたそれらの情報は“思い出”になる。


では、ストリートフォトはどうだろう。


もちろん、そこには情報が残っているけれど、“思い出”にするために撮っているかと言われれば違うような気がする。

観光をしているわけではないし、特別な日でもなければ、知り合いが写っているわけでもない。

しかし、それはやはり“思い出”であるような気がする。
なぜなら、そこには撮り手の感情がしっかりと残っているからだ。

それは“嬉しい”とか“楽しい”、あるいは“この一瞬を忘れたくない”といった明確で強い感情ではないだろう。

見返した時に、なぜそこでシャッターを切ったのかわからないという写真もある。、
それでも、そこに確実に感情、それに近い思考の揺らぎのようなものがあったのだ。

それは私の“思い出”だ。
“思い出”を写真に撮ろうとせずとも、写真は“思い出”になる。

以前、写真は“記録”だ、と書いた。
“思い出”と“記録”は違うではないか、と感じる人がいるかもしれない。

写真は“記録”であると同時に“思い出”なのだと私は思う。
これは、光が“波”であると同時に“粒子”であることに似ている。

写真はその広がりにおいて“記録”であり、観測される瞬間は“思い出”のように振る舞うのだ。

 

 

 

 

 

 

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