ストリートフォトは、写真表現の中で「自由形」に近い表現だろう。
何を撮ってもいい。
どこを歩いてもいい。
人物を撮ってもいいし、建物を撮ってもいい。
意味のありそうなものを撮ってもいいし、なぜ撮ったのか自分でもよくわからないものを撮ってもいい。
だから基本的には、なるべくコンセプトを作らずに撮る方が面白いと思っている。
「都市の孤独を撮る」
「印象的な色彩を捉える」
「変わりゆく東京の記録として」
テーマを持って撮るメリットもあるだろう。
しかし、先に意味を決めてしまうと、街がそのテーマのための素材に矮小化されてしまうような感覚がある。
テーマは視線を鋭くするが、視野を狭くする。
だから、何も決めずに街を歩き、ただ気になったものに反応してシャッターを切る。
その方が、ストリートフォトという表現には合っているような気がしている。
そのスタンスの方が私は好きだ、ということだ。
けれど、制約を設けることで、新しい感覚を得られるということはある。
以前、森山大道氏の『犬と網タイツ』に倣って、しばらくの間、縦位置だけで撮ってみたことがある。
横位置では撮らない。
どんな場面でも、とにかく縦位置で撮る。
これを、しばらく続けていると、視線そのものが少し変わってくる。
もちろん物理的に見える範囲が変わるわけではないけれど、縦位置で捉えることを前提に世界が見えてくる。
我ながら、こういう理屈は後付けのような気がするが、新しい手応えがたしかにあった。
コンセプトもまた、ある種の制約として働く。
例えば「都市の孤独」というテーマを持てば、それは「意味の方向」の視線を絞る。
「縦位置だけ」というルールは、「方法の方向」に視線を絞る。
どちらも無数にある選択肢の一部を閉じることで、残されたものへの感度を高める。
いずれの制約も視野に志向性を与える。
何でも撮れる状態では、視野は全方向へ開いている。それが可能であることがストリートフォトの大きな魅力だとも思う。
一方で、ときどきその自由を少しだけ制限すると、今までぼんやり見えていたものの輪郭が濃くなる。
そしてしばらく制約の中で撮ったあと、その制約を外す。
その時、横位置も撮れるように戻ったからといって、縦位置だけで撮っていた経験が、消えるわけではない。
先鋭化した視線が、その後の写真にも少し残る。
そう考えると、制約は作品を縛るためだけのものではない。
世界を見るための訓練ともなり得るだろう。
ストリートフォトは自由なのが良い。
その自由こそが最大の魅力だろうと私は思う。
だからこそ、時々、自分で小さな不自由を作ってみることに価値が見出せる。
時に制約によって自由な視点はさらに遠くに及ぶかもしれない。
制約を設けることもまた自由なのだから。