誰も美しいと思わなくても

誰も美しいと思わなくても

秋になり、街の色が少し変わる。

赤や黄色に染まる葉。風が吹くたび空気のトーンが揺れる。

 

観光名所に行けばカメラを構えた人がたくさんいる。

同じ場所に三脚を立てて、スマホを向けて、目当ての被写体撮っている。

それはそれで良い光景だし、そこには間違いなく「きれい」がある。

 

濃く色づいた葉はサイケデリックで、

光に透ける葉の重なりの、グラデーションは割れそうだ。

でも、時々思う。

“きれい”はもう少し広く世界を照らしているのではないか。

 

持ち主を失い錆びた看板、

積み上げられた土嚢の隙間からのぞく草、

折れたビニール傘に溜まった雨水。

 

そこを通りかかった自分だから拾えた、そう思える“きれい”がきっとあるだろう。

 

それは、誰に見せなくても良い。

引き出しの奥に隠した、河原で拾った丸くてすべすべの小石みたいなもの。

わたしが、或いはあなたが、それを“きれいだ”と思ったのなら、それで充分。

世界中でそれを“きれいだ”と思うのが自分一人だけだとしたら、それは奇跡で、最高だ。

それを探すのが写真を撮る理由だ、と言ったって構わない。

「なんの為に写真を撮るのだろう」と考えることがある。

SNSに載せるためでは多分ないけれど、しかし、きっと求めているものがあるのだろう。

 

そう“仮定”した方がきっと面白い。

 

誰に見せようとも思わず、もしかしたら“きれい”だと思ったわけでもないかもしれない。

しかし、ふとシャッターを切っていた。

 

その瞬間がもしかすると“きれい”なのかもしれない。

 

紅葉の美しい季節がくる。

写真を撮りに行こう。

 

途中、

ふと目にとまる光景があったら、

それが、どんなに目立たなくても、誰も気づかないようなものでも、

シャッターを切ってみよう。

その一枚も、きっと“きれい”だと思う。

シャッターを切った時の“あなた”がきっとそこにも残る。

 

誰も美しいと思わなくても。

Back to blog