“写真の言語化”は必要か?

“写真の言語化”は必要か?

写真を撮っていると、聞かれることがある。

 

「この写真、どういう意味なんですか?」

「コンセプトは?」

「キャプションはつけないんですか?」


キャプションやステートメントがあったほうが良い場面はもちろんあるだろう。

展示、販売、SNS、ブランドとしての発信。

何も書かないより、言葉を添えたが意図は伝わりやすい。


一方で、こう思う。

 

“言葉”で写真を語り尽くすことは、決してできない。

 

言葉にできない。

その「余白」こそが、写真やアートと呼ばれるものの本質だと言っても良いだろう。

 

その言葉がいかに詩的だろうと哲学的だろうとそれは変わらない。

 

説明される前に生じた感情、それは肯定的なものである必要もない。

「理由はわからないけど気になる」

その感覚のほうが大切だ。

いや、大切かどうかはわからないけれど、私は面白いと思う。

 

たとえば、インストゥルメンタルの音楽を思い浮かべてみて欲しい。

ポストロックとか、アンビエントとか。


歌詞はない。

メロディーは説明されない。

でも、それは人々の心を打つ。

 

“答え”はない。

感じたことが、その人にとっての正解だ。

 

だから、まずは“言語化”を忘れたほうが良いと思う。

少なくとも写真を撮る行為が言葉の後追いになってしまっては面白くない。

 

感覚だけでシャッターを切る。

その方が、ずっと“写真的”だ。

 

語りたくなったら語っても構わない。

言葉が自然に出てきたなら、

それを書き留めておけば良い。


でもそれは“正解”じゃない。

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