写真に時間を付与する

写真に時間を付与する


東京都写真美術館で開催されている森山大道の展示に、AIを使って写真を動画化した作品がある。

一枚の静止画に動きを与え、そこに存在しなかった前後の時間をつくる。
写真の中で止まっていた人物が歩き出す。
車が進む。
風景が揺れる。

もちろん、それは実際にその場で生じた時間ではない。AIが写真から生成した時間だ。

こうした表現に対して、「余計なことをしないでほしい」と感じる人もきっといるだろう。

写真は止まっているからこそいい。
固定された一瞬は、静止したまま、見る側の想像に委ねられるべきだ。

人物はこのあとどちらへ歩いたのか。
その直前には何をしていたのか。
写真の外側では何が起きていたのか。
そうした余白を想像することも写真を見る楽しさの一つだろう。

そこへAIが動きを与えてしまえば、その想像の余地を奪うようにも見える。
静止した時間は、静止したままで良い。
そういう気持ちは理解出来る。

けれど、そこで少し考えてみる。

そもそも写真家というのは、時間に対してかなり無粋なことをしてきたのではなかろうか。

本来なら過ぎ去って消えていくはずだった時間に写真家はカメラを向ける。
そしてシャッターを切る。
時間を、写真の中に固定してしまう。
誰かが記憶の中だけにとどめておきたかった時間を、写真家は無粋にも形にする。

写真は時間を保存する表現であり、時間の流れを断ち切る表現でもある。

だとすれば、AIが写真に時間を付与することを「写真に余計なものを足した」と批判することが出来るだろうか。

写真家は時間を止めた。
AIは、その止められた時間に別の時間を与える。
どちらも時間に手を加える行為だ。

この二つが同じだと言いたいわけではない。
写真が切り取った瞬間は、実際に存在していた。
AIによって生成されたそれは、実際に存在していた時間ではない。

それでもAIによる動画化を、写真の破壊行為のように考える必要はないだろう。
元の写真は消えはしない。

静止した写真は、そのまま残っている。
AIで動かした映像を見たからといって、元の写真が書き換えられるわけでもない。

静止した時間に浸りたい人は、元の写真を見ればいい。
それとは別にAIによって生成された映像という別の入口がある。
一枚の写真に、複数の見方が生まれた。

AIは元の作品を消すのではなく、その周囲に別の表現を作る。
写真に細部を足す。
写真に時間を足す。
そういうことが、これからごく普通のことになっていくだろう。

それが写真の価値を下げるとは限らない。
むしろ、「静止している」意味がこれまで以上にはっきり見えてくるかもしれない。

写真家は、時間を止めてきた。
その止めた時間を再び動かす一つの方法が生まれた。
時間に介入する方法が一つ増えた。

もともと写真家は、時間に対して無粋なことをしてきたのだ。
AIの無粋さばかりを責めるのはフェアじゃない。

 

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