写真を撮った直後に、背面液晶で画像を確認することを「チンピング」と呼ぶ。
カメラの背面液晶に大きく反応している姿を、チンパンジーになぞらえて揶揄したのが由来だ。
デジタルカメラが普及し始めた2000年代初頭に英語圏の写真家の間で広まった言葉だと言われる。
言葉自体を聞いたことがないという人も多いかもしれないが、このチンピングはしばしば「やりすぎない方がいい」と言われる。
まず、撮った結果である液晶に気を取られてしまうと、目の前に起きた新たな出来事を見逃す。
撮影のリズムが途切れる。
その場で即座に判断するよりも、あとでまとめて大きな液晶で確認してからにした方がいい。
というような批判がされる。
どれも、非常に妥当だと思う。
しかし、私は撮影後にかなり液晶を見る。
更に気に入らない写真は、その場でどんどん消していく。
写真を始めた頃は、撮影途中に画像を消すことはほとんどなかった。
その時は良く見えなくても、あとから何か引っかかるかもしれない。
数か月後、数年後に見たら、突然良く思えるかもしれない。
そう考えて、消すのをためらった。
確かに、そういうことはある。
撮った直後には琴線に触れなかった写真が、あとから気になることは珍しくない。
その時にはわからなかった魅力が、時間を経てわかったように感じられることがある。
ただ撮り続けている中で、私はそこをあまり気にしなくなった。
後から見たら良いと思う写真を消してしまったところで大したことじゃない、と思うようになったのだ。
いくら躍起になって写真を撮ったところで、私たちは結局ほとんど無限に瞬間を撮り逃している。
寝ている間にも。
仕事をしている間にも。
別の方向を見ている間にも。
もちろん、残しておけば何かになる可能性はある。
けれど、消してしまったところで、それもまた無数にある「残らなかった写真」の一つになるだけだ。
それよりも撮影を気持ちよく続けられることの方が大切だと、少なくとも今は感じる。
撮影中、液晶を見返すのは、消去の対象を探しているだけではない。
その日に撮った写真が、カメラの中で並んでいく。
それは一つの連続した作品のようにも認識することができる。
1枚目に撮ったこの写真があったから、次はこれに目が向いているのかもしれない。
引いた写真が多くなっていたから、思い切りズームをして引き寄せたのだろう。
同じ場所で振り返って撮ったこの2枚に何か示唆が感じられるような気がする。
言葉にすればこんなところかもしれない。
実際はもっとこういう様々な判断が重なり、混ざり、矛盾しながら、指向性を伴うような、そんなフィーリングだ。
その中に「意にそぐわない写真」が残っていることが、気になるようになった。
失敗した構図。
反応が遅れた一枚。
意図した場所に人物が入らなかった写真。
見返しても、もう一度見たいと思わない写真。
そういうものがカメラの中に並んでいると、その日の流れが濁るように感じる。
だから消す。
データの整理というよりは、気分を整えるためといったほうが近いかもしれない。
もちろん、撮影中に液晶ばかり見ていれば、目の前の出来事を逃すこともある。
削除操作をしている数秒の間に、良い瞬間が過ぎることだってあるだろう。
それでも私は、その日の撮影体験が気持ちよく続く方を選びたい。
少なくとも今はそう感じる。
写真を撮ることは、結果としての画像を集めるだけの作業ではない。
街を歩いている時間があり、何かに反応する瞬間があり、シャッターを切った感触がある。
それを確認して、違うと思えば消す。
その一連が全て私にとっての写真を撮るという行為であり、つまり「写真」なのだと思う。
もしかしたらいつか、
「あの写真、消さなければよかったな」
と思う日がくるかもしれない。
それでもいい。
その時は、その時だ。
消してしまった写真の可能性より、撮っているその日の気分の方を大切にしたい、ただそれだけのこと。
チンピングやその場での画像消去を推奨したいわけでは全くない。
ただ私は、その日の視線と気分を整えるために、当たり前のようにそれを行っている。
その一例の提示として。