ニック・ナイトの個展「NICK KNIGHT, ROSES FOR TOKYO」が開催されている。
展示されているのはiPhoneで撮影した薔薇の写真を、AIを用いて鮮明化した作品だ。
ニック・ナイトは以前から、自宅の庭に咲く薔薇をiPhoneで撮影し、その画像を加工しながら作品化してきた。
近年はそこにAIを導入している。
元画像では解像していなかった部分をAIが補い、細部を作り出していく。
当然、こうした作品に対しては、
「それは写真なのか?」
という疑問が出てくる。
「撮影時には記録されていなかったディテールを、AIが後から推測して補っている」
そう聞けば、確かに従来の写真とは少し違う。
私はこういう表現を特に否定的には捉えていない。
これからこうした方法は写真表現の一つとして、ごく普通のものになっていくのではないかとも思っている。
ここで少し考えてみたい。
iPhoneを持った人と、1億画素のハッセルブラッドを持った人では、見えている世界は違うのだろうか。
もちろん、人間の目そのものが変わるわけではない。同じ場所に立っていれば、基本的には同じ景色を見ている。
しかし、撮影された画像は大きく違う。
1億画素の中判カメラなら、遠くの細部まで大量の情報が残る。
iPhoneなら、それとは異なるレンズやセンサー、画像処理を経て、一枚の画像になる。
では、実際にその場で本人が見ていた景色に近いのは、どちらなのだろう。
これは意外と簡単には答えられない。
そもそも、人間が見た景色と、カメラが記録した画像は一致しない。
人間の目は一点だけを固定して見ているわけではない。
視線を動かし、ピントを変え、明るさに順応しながら世界を見ている。
一方、写真はその複雑な知覚を一枚の平面に固定する。
その時点ですでに、現実は別のものへ変換されている。
さらに、レンズが変われば見え方が変わる。
センサーが変われば情報量が変わる。
フィルムなら色味も粒状感も変わる。
現像やレタッチによって、コントラストも彩度も変えられる。
つまり写真は、最初から機材と技術を通して作られてきたものだ。
そう考えると、AIだけを突然、写真の外側にあるものとして扱うことは不当なのではという気もしてくる。
もちろん、AIはこれまでとは大きく違う要素も含むだろう。
例えばハッセルブラッドが細部まで記録できるのは、実際にその場から入ってきた光を高い密度で記録しているからだ。
一方でAIによる高精細化は、元画像に存在しなかった情報を推測し、生成したものだ。
この違いは小さくない。
しかし、この違いを「写真ではなくなる境界」と単純に決めてしまうことも出来ない。
ニック・ナイトが実際に薔薇を見た。
iPhoneを向けた。
構図を決め、シャッターを切った。
そこから画像を加工し、AIで補完した。
その完成画像を見て、私はやはりそれは「写真」だと感じる。
そもそも、それが「写真」なのかを厳密に定義しようとすること自体に、大きな意味がないようにも思う。
「写真とは、実際にその場にあった光を記録したものだけである」
と定義すれば、境界は明確になる。
そして、その制約の中で表現することにも価値を見出すことは出来る。
制約が表現を研ぎ澄ますことは確かにある。
しかし同時に、「写真だからここまでしかしてはいけない」と決めることが、写真という表現そのものの可能性を狭くしてしまうこともある。
境界を守ることで生まれるものもある。
境界を越えることで生まれるものもある。
その両方があっていい。
写真の歴史は、常に技術の変化とともにあった。
小型カメラが登場した。
高感度フィルムが生まれた。
オートフォーカスが普及した。
デジタルカメラになった。
スマートフォンで写真を撮るようになった。
そのたびに、何を撮るか、どう撮るか、そして写真とは何かという感覚も少しずつ変わってきた。
AIも、おそらくその延長線上に置くことが出来る。
これまでと違うのは、カメラが記録できなかったものまで作り出せるようになったことだろう。
見た景色と、写った景色は、そもそも同じではない。これからは、その間にAIが入り込む。
その時、写真はどこまで変わるのか。
あるいは、写真という概念を飲み込む何かが立ち上がるかもしれない。
それもまた面白い。