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写真の構図とは何か|意味・意図に頼らないフレーミング論

「構図」には、しばしば“意味”や“意図”の伝達が求められる。視線誘導の線、主題の配置、背景の整理を意図することが「良い構図」につながるという理屈だ。確かにロジックの一つではあるだろう。

しかし、意味や意図の明確さが、写真の価値と直結するとは思わない。それなら、構図もまた違う視点から捉えられていいはずだ。

構図とは、単なる物の配置ではない。そこに写り込んだあらゆる要素――光の量、色の濃淡、シャッターのタイミング、ピントのズレやブレも含めた“全体”で成立している。ブレは平面に焼きつけられた運動であり、ピンボケは視界の不確かさの写しだ。それらは撮影者の意図を超え更には鑑賞者が容易に把握し得る意味をも超える。

意味や意図が伝わることは、写真の持つ力の一側面にすぎない。その一側面に囚われてしまえば「写真」は不自由なものになる。

構図とはつまり、写真に写ったすべてのものの配置、というよりも“存在した事象それ自体からなる構成物”に近い。綺麗な整理よりも「リアルな」関係性として、それは表層的な意味や意図を超えて強く響くことがある。

私は今も構図について考えている。けれど、答えを出すつもりはない。それは優れた答えを出すことよりも、問い続けることのほうが正解にいくらか近づける気がするからだ。

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