なぜ、あの頃家族が撮った写真は“良い写真”なのだろうか

なぜ、あの頃家族が撮った写真は“良い写真”なのだろうか


主に40代以上の人に向けた話になるかもしれない。

実家の押し入れや棚の奥にある、昔のアルバムを開く。

少し色褪せた透明のフィルムに覆われ、
家族旅行や誕生日、日常のちょっとしたイベントの写真がそこにはある。

なんのカメラで撮ったのかもわからない。
なんのフィルムを使っていたのかも知らない。

現像は近所の写真屋に頼んでいたのだろうけれど、それがどこの店だったのかも、もちろん誰も覚えていない。

しかし、そこに残っている写真は、
どこの家のものも例外なく“良い写真”だ。

まず根本的に、それらが物質として長い時間(私たちの寿命に対して相対的に)存在してきたことが非常に大きな意味を持っている。

印刷され、アルバムに貼られ、長い時間を経て少しずつ変色した写真。

そのプロセスが、写真に“時間の質量”を与えている。

時折、触れられながら、棚の中で時間によって少しずつ熟成していく。

そして、今の若い人には想像しづらいだろうけれど、当時はSNSがなかった。
実際のところ、スマートフォンすら存在しない。

つまり、それらの写真は、ほとんど身内しか見ないものだった。

だから、よそゆきの顔をする必要がない。
撮られる側は常に、どこか無防備だ。

そして撮る側も、誰かの批評的な視線を気にしない。

“映え”も「いいね」の数もない。
アルゴリズムなんていう言葉は無かった(私が知らなかっただけという可能性はある)。

もちろん、写真を撮る時に多少は格好をつける。
それは人間の性だろう。
しかし、それはやはり現代のSNS的な“格好のつけ方”とは違う。

もっと閉じた、小さな共同体の中に家族の写真はあった。

構図が完璧なわけはない。
ピントが甘い写真もあるし、露出も不安定だ。
指が写り込んでいることもある。

きっと“良い写真を撮ろう”となんて思っていなかっただろう。

昔の方が良かった、などと言うつもりはない。

ただ、もし“良い写真”について考えるのであれば、一度この事実に立ち返ることは、きっと有用だろうと思う。

写真は記録だ。

そして記録は時間の経過によって意味を増大させていく。
見る人間、写っている人間の状況は変わり、世界も変わる。

あの頃、撮られた家族写真は、時間の経過によって、その力を発揮し始めている。

 

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